夢魔と聖者の悪魔狩り
門間紅雨
序章
森で
森全体を揺るがすようなおぞましい咆哮が轟いた。
凄まじい力で跳ね飛ばされて転がった先の、雪面の冷たさを感じなかった。
その瞬間、ただ純粋な恐怖のみが頭を占めていた。
目の前にそびえ立つ、周囲の針葉樹林の木立をゆうに越える大きさの“何か”。
黒々としたガワは反射率が低く、吹雪越しの霞む視界にはまるで巨大な生物の影のようにも見える。
突如空間に出現した世界の裂け目のようにも、あるいは、闇そのものにも見えた。
しかし、それは確かに意思を持って動いていた。生きている。
またか。
恐怖より一足遅れて、深い絶望が胸の内に広がった。
急激に喉の粘膜が腫れ上がったように呼吸ができなくなる。抗いがたい生理現象が食道をせり上がり、口元が歪み涙が溢れた。
「ゔ……ぇぁあッ」
体を折り曲げ、雪面に吐いた。空っぽの胃は何も戻さない。繰り返しえずく。胃酸と唾液に転がったときに噛み切ったらしい口内の血が入り混じり、白銀にピンク色の模様をつけた。その光景が妙に生々しく、急速に頭が冴えていった。
まだ。
そのとき頭上で何かが光った。
顔を上げると、今さっき目の前に立ちはだかっていた影が跡形もなく消えていた。忽然と、音もなく。
事態を飲み込めない脳がふと我に返る。
震えて役に立たない足腰を引きずり雪面を這い進んだ。
一刻も早く。
ほんの数十秒前、力任せに自分を突き飛ばし、巨大な影の猛襲から庇ってくれた者の元へ。まるで紙でもちぎり捨てるように、あれが投げ捨てた人間の元へ。
今にも枝が折れそうなほど雪を積もらせた木々の中、一本だけ裸の枝を晒した木があった。根元に不自然な積雪があり、その下から人の手が突き出ていた。
雪面に跪き無我夢中で雪を掘った。両手の感覚がなくなる頃、雪の中にまだあどけない眠っているような横顔が見えた。
空気の通り道を確保してから起こそうと試みる。
「おい……おい! 起きろ! おい!」
ただ目覚めてくれと願いながら一心不乱に頬を叩いた。
ふいにその目がぱちりと見開き、威嚇のように顔を歪めて唸った。
「うわっ!」
反射的に飛び退さる。
そのとき、本能的に感じた。
人ではないと。
それは身体に覆いかぶさった雪をぼこぼこと崩して雪山から這い出た。犬のようにぶるると頭を震わせ、髪についた雪を払い落とす。
恥じらうこともせずその場に立膝をついて座った。
裸体の少女だった。張りのある肌、ふっくらと丸みを帯びた胸、くびれた腹。
真冬の山奥だというのに一切寒がる様子を見せない。体温が異常に高いのか、体の周りをもうもうと白い霧が包んでいた。肌に落ちた雪はもれなく溶けて蒸発し、触れたところは雪面に黒く穴が空いた。
しかし、何よりも目を引いたのはそれ以外の特徴だった。
少女の耳の先は個人差の範疇を越えて鋭利に尖り、赤い口の端からは八重歯とは呼び難いしっかりした牙が覗いていた。
極めつけは、頭部の側面から後方に向かって突き出した山羊のようにねじれた二本の黒い角だ。
この世のものではない恐ろしさといたいけな少女の風貌が相まって、ある種の神聖な美しさを生み出していた。魅入られたように見つめていると、金色の瞳がじろりとこちらを見た。
「――――――おぬし」
気怠そうに少女は唇を動かした。額から頬を伝い落ちる、人間と同じ真紅の鮮血を真っ白な雪面にぱたぱたと散らしながら。
ふっと彼女は笑った。そんなつもりはまるでないのに、思わず漏れてしまったような笑みだった。
「また随分と美味そうなのにとり憑かれておるの」
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