煉獄編 第六歌 —二刀流—(2)

夜の京都、月が雲間に隠れた路地に、同じ構えの剣士が二人、対峙していた。


八双。示現流の構えである。右足を踏み込み、右手を天に掲げ、左手を腰に置く。刀は一気に振り下ろす。その一撃にすべてを懸ける、薩摩の剣。


「見事な構えじゃ。まさに、無駄がない」


先に口を開いたのは、老いたる剣士――東郷重位。声には威圧も怒気もない。ただ、真に強き者のみが持つ、澄み切った力があった。


中村半次郎は、構えを崩さぬまま答えた。


「立木打ち、四千本。三千では足らんと悟りました。その千本が、わしの骨になりもうした」


日々、棒切れで木を叩く。それもロクに休みもとらずに三千本、肉体は限界を越え、全身の筋が悲鳴を上げる。だが、その先があると半次郎は信じた。無駄な動きは自然と削がれ、必要な力のみが残る。その状態でさらに千本。中村はその極限で、自らの剣を鍛え上げた。


かつて、大山格之助がその打ち込みを目にした時、ただ「ほう」と一言、驚嘆の吐息を漏らした。それほどまでに磨き上げたのだ。


その構えを、今、伝説の剣士が褒めた。


半次郎の胸に、薩摩隼人の血が沸いた。


坂本暗殺? 大久保の命令?

今はどうでもよか――。


目の前の剣士を、全身全霊で斬る。それが剣を持つ者の本分。それが、己の選んだ生き方。


東郷は老いた虎の如き風貌であった。だが、その剣気は獰猛にして凄烈。風を裂き、空間を圧する気が、中村の肺を満たす。


(斬らねば、殺られる)


その単純明快な事実が、中村の集中力を研ぎ澄ませていく。


一方の東郷もまた、眼前の若き剣士に胸を高鳴らせていた。


己の殺気を真正面から受け止め、むしろ打ち返してくるほどの気迫。気圧されることなく、全身を研ぎ澄ませ、己に挑むその姿に、剣士としての喜びがあった。


「おいの殺人剣。みごとに受け止めるか」


「殺人剣?」


中村の声に東郷が笑う。気迫は寸毫も乱れない。むしろ、さらに増していく。


「活人剣、殺人剣。人は賢しらにそういう。じゃが、剣の本質は切ることじゃ。活かすわけではない」


「はい」


中村の剣気がおされる。歓喜した虎が距離を縮めてきた。


「殺人剣とは人の動きを殺す剣よ。相手に打ち込ませず、一撃で仕留める。活人剣は相手を動かして、隙を作って斬る。剣理ではあるが、おいはすかん」


「同感です」


敵の気迫を圧し、剣気で硬直させ、行動を封じた一瞬に斬る。それが東郷の信ずる剣であり、それこそが、薩摩示現流の極致である。


だが今、自分の殺人剣に抗う者がいる。


中村半次郎。その気が、東郷の殺気と拮抗し、いまや押し返そうとしていた。


「ふ……良か夜になりそうじゃ」


老剣士は笑った。



同じ頃、近江屋。


二階の座敷で、坂本龍馬と中岡慎太郎が静かに盃を交わしていた。薩長同盟、大政奉還、そして徳川の終焉と新たな国の未来――語るべきことは山のようにある。だが今、ふすまの向こうから放たれる圧倒的な殺気が、すべての言葉を凍らせた。


龍馬がそっと刀に手をかける。中岡もすぐに正眼に構えた。


「気づいたか」


「当然じゃき」


酔いは、とうに消えていた。激動の京都を潜り抜けるようになって、したたかに酔えなくなった。お互いがそれを悟って苦笑する。


ふすまが、裂けた。


音すらなく斬られ、ふすまの断面がすうっと開き、そこから黒衣の武芸者が姿を現す。蓬髪。金の眼。左右の手に、それぞれ一振りの刀。


その異様な姿に、中岡が息を呑んだ。


(これは……異物だ)


人ではない。剣士として直感する。己では勝てぬ相手――。


「ふむ。この程度は動けるか。坂本龍馬、中岡慎太郎。よう動じぬな」


黒衣の男は淡々と語り、じり、と室内に足を踏み入れる。


龍馬はなおも間合いを測りながら、低く呟く。


「二刀流……。よりによって、武蔵かよ」


その言葉に、中岡の目が見開かれる。


「なんじゃと……!」


影法師。

伝説の剣士たちが、歴史を狂わせんと現世に甦ったとされる闇の剣士集団。その存在は、坂本から聞いていたが、信じてはいなかった。あまりに荒唐無稽であったから。


だが今、そこに立つその姿――


――宮本武蔵。


それ以外の何者でもなかった。

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