煉獄編 第四歌 —闇に燕は飛ぶ―(1)

夜の京、大路をざっざと駆ける草鞋の音。その数、十余名。青く染め抜かれた浅葱の羽織が、夜目にも鮮やかに揺れる。


「池田屋に攘夷派の幹部が集結、だと……」先頭に立つ近藤勇が低く呟く。「見逃す手はねえな」


情報は確かだった。密偵よりもたらされた報せに、彼らは鍛冶屋町の屯所を飛び出したのだ。その中に、沖田総司の姿があった。蒼白い顔に、どこか凛とした笑みを浮かべながら、彼は近藤に並んで歩む。


「近藤先生。もし、また“あれ”が出たら……化け物が、ですよ。あれが出たら、私か永倉さんがやります。ご承知おきください」


「……ああ、わかった」


近藤が小さく頷いた刹那、後方から声があがった。


「俺だってやれますよ、総司さん。負けません」小柄な若者――藤堂平助が、悔しげに唇を噛む。


「平助……」沖田は一瞬、言葉を探すように目を伏せ、やがて微笑した。「……もしもの時は、頼んだよ」


言外に「無茶をするな」と込められた言葉に、平助は目を伏せたまま頷いた。


彼らの進行路とは別に、土方歳三、斎藤一が率いる別動隊が回り込みつつある。隊はふた手に分かれ、池田屋を挟撃する算段だ。


そして、ついに――池田屋前。


夜の静寂を破って、近藤の鋭い声が響く。


「御用改めである!」


その言葉と同時に、戸板が破られ、近藤たちが店内へと雪崩れ込んだ。


乗り込んだのは近藤を先頭に、沖田、永倉、藤堂の4人。ほかは逃走をする志士たちを捉えるために周囲を囲んでいる。


二階から喧騒が聞こえる。沖田らは覚悟を決め、手にした刃を構える。だがその瞬間――


階段の上方から、重く濡れた音が響いた。ぐらりと体を傾けた一人の浪士が、鮮血を滴らせながら転がり落ちてきた。


一同、息を呑む。


見上げれば、そこには一人の男が立っていた。


三尺を超す長刀を片手に持ち、まるで舞台役者のように悠然と佇んでいる。刃の先から血が滴り、空気はますます張り詰めていく。


「ば、化け物め……!」


浪士の一人が叫ぶように問いただし、刀を振りかぶって駆ける。だが――


「浅はかだ」男が吐き捨てるように言ったその時、刃が閃いた。


刹那、浪士の刀は弾かれ、逆手に振るわれた男の剣が胸を裂いた。


「……!」沖田総司の目が細められる。


前髪の残る若衆風の男であった。猩々緋の陣羽織を羽織って、長刀を持つその姿は錦絵かと見まごうほどの美しさである。そして、その両眼は冷たく金色に輝いている。


(間違いない。あれは“化け物”の一人――)


沖田が口に出す暇もなく、隣の藤堂平助が走り出していた。


「平助、待て!」


声が間に合わない。


魁先生との異名を持つ血気盛んな若き隊士は、階段を駆け上がり、男に迫る。振り下ろされた横薙ぎの一撃を、身を低くしてかわす平助。だが――その刃は宙で角度を変え、ありえぬ軌道で再び彼へと襲い掛かる。


「ぐッ――!」


切っ先が肩から胸元を浅く抉り、平助の身体は吹き飛ばされるように階段を転がり落ちた。

近藤と永倉があわてて駆け寄る。額から血を流す平助は、かすかに呻き声をあげていた。


「息はある!大丈夫だ!」


その報に、沖田は小さく息を吐いた。顔には出さぬが、胸中の緊張がわずかに緩む。

致命傷を避け得たのは偶然であろう。相手の切っ先を偶然平助の刀がさえぎった。刀は弾き飛ばされ、手すりに突き刺さっていた。すさまじい速さと膂力であったことの証左である。


そして――


「この中に、“土方”という男はおるか?」


階上から、低く冷ややかな声が響いた。それを聞き、沖田は前に出る。


「土方さんは、ここにはいません。ですが――」涼やかな声で、沖田は言い放つ。「私はあの人より、強いですよ」


「……ほう?」


男が唇を吊り上げ、金色の瞳を細める。その目は、人のものではない。妖しき光を湛えた、まさしく“異界”の眼。


「面白い。嘘か真か、試してやろう」男は剣を掲げ、構える。「拙者の名は――」


「言わずとも、わかりますよ」


沖田は静かに言った。そのまま腰の刀に手を添え、ゆっくりと鞘を払う。


「先ほどの太刀筋で、ピンときました。燕返し――剣をやる者なら誰もが知ってる、あの技ですね。佐々木小次郎、ですね」


男が、にやりと笑った。その笑みは氷のように冷たく、また誇りに満ちていた。


「ならば……遠慮はいらぬな」


階段を挟んで対峙する、二人の天才。時の隔たりを越え、剣が今、交わろうとしていた――。

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