煉獄編 幕間 —万魔殿《パンデモニウム》—
京の郊外。山の中腹にひっそりと佇む、荒れ果てた寺。雨の止んだ空はすでに白み始め、夜明け前の冷気があたりを包んでいる。
そこに姿を現したのは、腹部を押さえ、わずかに前屈みになって歩く男――柳生十兵衛。濡れた旅装の下、帯の下あたりには深手。包帯が滲んだ赤を吸い、剣士の静かな怒りを滲ませていた。
本堂の扉が軋む音を立てて開いた。中は墨を流したような闇に沈み、煤けた柱と腐りかけた畳の匂いが鼻をつく。朽ちた梁の隙間から朝の光が細く射し込み、天井に吊された風鈴が、風もないのにわずかに揺れていた。
堂の奥、かつて持仏堂だった場所には、一体の仏像が鎮座していた――はずだった。しかし、その顔は無残にも割れている。額から鼻梁を縦に斬り裂くように、深い刃痕。まるで人の顔を裂くように。金泥が剥げ、血のような錆がそこに滲んでいた。
「……仏の顔も三度まで、というが」
十兵衛が低く呟く。
仏像の足元には、黒ずんだ破魔矢や朽ちた経巻、そして――破れた聖書の切れ端が混ざっている。それは異教徒の印。かつて信仰が交錯し、やがて否定された証。
この荒れ寺は、もはや祈りの場ではなかった。神も仏も捨て去られ、ただ“影”だけが巣食う、魔の空間であった。
「……おそかったですね」
堂内の闇に沈んでいた影が、顔をあげる。天草四郎時貞――復活した影法師たちの主導者である。
「芹沢鴨は始末した」十兵衛は淡々と報告を口にした。
すると、影法師の一人が十兵衛の手傷に気づく。
「芹沢程度を斬るのに手こずったようだな。新陰流も落ちたものだ」
皮肉を交えた言葉に、十兵衛は首を振る。
「芹沢は造作もなかった。しかし、新選組の連中と鉢合わせしてしまった。土方というやつだ」
「ほう」
長身で刀を背負った影法師が、面白そうにつぶやく。金色の目がキラリと光った。
「その土方というやつに手傷を負わされたと……」
「新選組は……意外に骨がある。油断できぬ相手とみた」
その言葉に、堂の奥からいくつかの影が笑った。
「仮にも将軍家指南役ともあろう者が、何を手こずっておる」
低く、重い声で呟いたのは――宮本武蔵。
十兵衛の隻眼が鋭く光る。手傷は追っていても柳生十兵衛は柳生十兵衛であった。「……指南役は親父だ。オレではないぞ、武蔵殿」
十兵衛の答えに武蔵の口元が動く。おそらく笑ったのであろう。
「含み針や忍びまがいの小細工を学ぶひまがあれば、剣をもっと磨くのであったな。泉下の但馬殿も嘆いておろう」
十兵衛はじっと黙る。隻眼が金色に輝いていた。
「小細工に関しては、貴公も人のことは言えまいよ」
長身の影法師が揶揄する。武蔵がじろりとそちらを見やる。
「なんだと?」
「正々堂々の勝負を避けて、手練手管を弄するのは貴公ではないか。あの時は、ようもやってくれたものよ」
「船島の続きが望みなら、いつでも受けて立つぞ」
長身の影法師が背の刀に手をかける。一触即発の気配が、堂内を満たす。
しかし、天草四郎はその間に立ち、両手を軽く上げた。
「よい、よい……互いに力を試すのは後でもできましょう」
武蔵は動かず、長身の影法師も立ったまま微動だにしない。しかし、緊張感が緩むことはなかった。
「我らの敵は、まだ定まっておらぬ。焦るなおのおの方」
じっと黙っていた他の影法師が口を開く。老人の声であった。
「今は身を潜める時。長州も薩摩も動き始めておる。新選組も警戒を強めている」
「さようさよう。まずは状況を見極め、然るべき標的を定めるべきです」
四郎の言葉に、堂内の影たちは静かにうなずき、長身の影法師もやっと腰を下ろす。
だが、十兵衛だけは振り返らず、静かに堂を出ようとする。
「どこへお行きになられる」
天草の声が背にかかる。
十兵衛は一瞬だけ足を止めたが、振り向かずに言った。
「……己の剣を、もう一度磨く。方針が決まったら知らせをよこせ」
そして、闇の中へと消えていった。
夜の風が、破れた障子を鳴らした。
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