煉獄編 第三歌 —新選組血刀録—(2)

秋雨は、京の町を濡らしながら、夜の闇をいっそう深く染めていた。

壬生屯所の裏門を出た四つの影が、黒羽織を雨に濡らしながら、静かに宿場町の外れへと歩を進めていた。


先をゆくのは土方歳三。傘もささず、冷えた眼差しで前を睨み据えている。

その後ろに、沖田総司、山南敬助、原田左之助。


「……本当に、やるのかい?」


原田が、濡れた前髪を掻き上げて呟いた。


「今やらねば、壬生は崩れる」


応えたのは、山南だった。隊内でも沈着冷静で知られた男の瞳は、まるで氷のように澄んでいた。


「近藤さんのもとに、ひとつの意志で集わねば、我らは早晩瓦解する。――あの男が、京の町で騒ぎを起こし続ければ、それは命取りとなろう」


「……芹沢を斬れば、会津藩への釈明が厄介だぞ」


原田の不安げな言葉に、土方は、足を止めずに低く答えた。


「それでも構わねぇ。武士(もののふ)が、時に己が血を流さねばならぬのは承知の上だ。今更、引き返すことなんざできねえだろうが」


やがて、一軒の宿が闇の中に浮かび上がる。

周囲の人影はなく、雨音だけがしとしとと屋根を打っていた。


「合図は俺がやる。原田、裏口から。オレたちは庭の方から回り込む。……芹沢が寝ていれば、一太刀で済む」


原田が闇の中に姿を消す。三人は無言でうなずきあい、小柄で扉をこじ開けて庭先に忍び込む。


「平山はどうしますか?」

「まとめて斬る……残しては後の障りになる」


山南に答えつつ、土方は愛刀を抜く。芹沢の腕はなかなかだが、己が負けるとは微塵も思っていない。


だが――異変に最初に気づいたのは、沖田だった。


「……変だ」


彼が鼻先をかすかに震わせる。そして、鼻孔で感じる雨に混じった匂いに眉をひそめた。


「血の匂いが……」


猫のように音もなく、沖田が軒先にあがる。刀を片手に障子にそっと手を伸ばす。


その刹那。

沖田の体がひらりと舞った。斜めに切り裂かれる障子、閃く白刃。

だが、沖田はすでに軒下の柱を蹴って、後方へと飛び退いていた。


「おお、あれを避けるとは……」


雨音に混じって、ねっとりとした声が落ちた。

切り裂かれた障子の向こう、赤黒く染まった畳の上には、男女の死体。

男のほうは頚を断たれ、眼は見開いたまま天井を見つめていた。


「芹沢……!」


山南が声を上げたその時、寝所の奥より、ひとりの男が現れた。


障子が裂け、血に染まった畳の上に芹沢鴨の無惨な亡骸が横たわる。

半ばまで切り裂かれた傷口から、血が床を川のように流れていた。


その奥から、男が歩み出てきた。


茶筅髷をきっちりと結い、左眼には黒鉄の鍔を括りつけた眼帯。

一見すれば市井の武芸者といった風情だが、そのただずまいには、何とも言えぬ凄みと禍々しさがあった。


「……誰だ、てめえは」


土方の声は低く、怒気を含んでいた。


男は静かに、右手の刀を傾ける。

血に濡れた刀が雨に流され、鈍く光を放った。


「柳生……十兵衛三厳と申す」


「嘘だろ。柳生十兵衛だぁ? 柳生新陰流で寛永御前試合の……」


土方が息を呑む。


「ありえねぇ……そんなもん、とうの昔に死んだ男じゃねぇか」


「されど拙者はここに在る」


十兵衛はにやりと笑った。


「貴様らが“新選組”か。ふむ……芹沢とやらを斬るのは、造作もなかった。いや、オレが斬る前に当に死人の顔であったわ」


「女まで斬ったのか……護衛の平山は?」


土方の言葉に、十兵衛の口角があがる。肯定の証であろう。


「おぬしらの様子を見るに同じことをするつもりだったのだろう?礼を言ってほしいものだ」


無言で沖田が一歩、踏み出す。


「なぜ、貴様が芹沢を狙った!」


土方が吠えた。


十兵衛は雨を受けるまま、静かに刀を肩に担ぐ。


「ここより騒ぎが広がる京の街を、より大きな火に包むためさ。――刻は動かねばならぬ。誰かがその灯を、燃やしてやらねばならんのだ」


眼帯にふさがれてない隻眼が、異様な金色に輝く。そして、眼帯の奥にも同じ光が宿っている気がした。

沖田の肌が粟立つ。


「……こいつ、本物かもしれねぇ」


「本物の柳生十兵衛だと?バカな!」


山南が低く呟いたその瞬間。


十兵衛の体が、ふっ――と雨にけぶった。


「沖田!」


「分かってます!」


鋭い気配に即座に反応した沖田が、身をひねって後ろへ下がる。

素早く突きを繰り出すが、十兵衛も身をかわし、距離を取る。


間合いを測る沖田と十兵衛。雨音が強くなるが、血と鉄の匂いが濃くなっていく。


両者の間に何者かが割って入る。雨に濡れた前髪を額に張り付かせた土方である。


「……私がやりますよ?」


静かに、沖田が言った。


目は笑っていない。だがその声音には、いつもの軽やかさがあった。


「いや、俺がやる」


土方はそれだけを言って、心眼に構え直す。


「ふふ……」


十兵衛は笑いを浮かべながら、一歩進み出る。


「やれやれ、また昔の悪い血が騒いでやがる。バラガキ歳さん復活だよ」


沖田は肩をすくめ、短く溜息を吐いた。


「歳さんは喧嘩に飢えると、いつだって止まらないんだよな……」


雨が、地を打つ。刀の刃に雫が落ちて、まるで血が滴るようだった。


「柳生十兵衛、相手に不足はねえ」


土方の声音が低くうなる。鞘を放り投げ、脚を大きく開く。


「てめえが何百年昔の亡霊だろうが関係ねぇ。芹沢はオレが斬ると近藤さんに約束した。面目を潰した責任、ここで取らせてもらう」


「何百年たとうが、同類はいるものだな」


十兵衛は軽く刀を構えた。姿勢に無駄はない。水月の如き、静けさと深さを兼ねた構え。


「新選組副長。土方歳三だ」

「来い、土方。貴様のその血の熱さ、骨の芯まで味わってやろう」


そして次の瞬間、土方が地を蹴った。


雨を散らし、ぬかるむ庭を一閃の光となって駆ける。


十兵衛は、ほとんど動かない。刃をゆるりと傾け、受け流すのみ。

ただ、それだけで土方の打ち込みをかわす。


「ちっ、受け流しやがったか……!」


「面白い。重い剣だ、だが無駄がある」


「口の減らねぇ化け物だな!」


二度目の突進。今度は剣だけでなく、体ごとぶつける。


――それが土方流だ。道場で磨いた剣客では身に着けることのできない、喧嘩殺法。

だが、死地を幾度も超えた男の一太刀は、無骨ながら、的確で速い。


十兵衛は再び流す。だがその目が、わずかに見開かれた。


「なるほど、やはり貴様、剣だけではないな。――いくさを知っている」


「うるせぇ!」


刃と刃がぶつかる。火花が雨を裂く。


背後で沖田が、黙って見守っていた。


(……歳さんの剣、昔と変わっちゃいない。荒くて、熱くて……だが、冴えている)


その熱に十兵衛の口元が、ゆっくりと笑みに染まる。


「いいぞ土方歳三。貴様はそちら側ではない。だいぶ、こちら側だ」


次の瞬間、十兵衛の構えが変わった。

その刃からは、これまでの静けさが消え、殺気が滲み出す。


「参ろう――これよりは、命の遣り取りだ」


「寝ぼけるなよサンピン。こっちは端っからそのつもりだぜ……」


雨音が、二人の間に雷のように響く。


次の太刀で、何かが決まる。


――この地に、何百年の因果が交わろうとしていた。

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