幕末リザレクション
浪漫贋作
序曲 煉獄開闢
天を覆う鉛色の雲が、海辺の小さな村に垂れ込めていた。波は不気味な静寂をたたえ、海鳴りだけが遠く低く響いている。
九州の片隅、何の変哲もない一つの寒村。その村はかつて、幕府の追及を逃れて隠れ住んだキリシタンたちによって守られてきた。だが今、その村には、信仰とも信心とも違う、得体の知れぬ「何か」が巣食っていた。
村の外れ、打ち棄てられた礼拝堂に、七人の影がひそやかに集まっていた。彼らは、迫害の時代を耐え抜いた隠れキリシタンの末裔である。
かつて幕府は、キリスト教を「邪教」と断じ、徹底的な弾圧を加えた。踏絵、密告、拷問、そして処刑。信仰を捨てぬ者は家族ごと磔にされ、信徒であると疑われただけで村ごと焼かれた例もある。
その苛政に耐え兼ね、島原は原城に数万のキリシタンが集まり一斉に蜂起した。数か月にわたり抵抗したキリシタン軍だったが、幕府の大軍により鎮圧され、男も女も子供も容赦なく討たれた。屍は積み重なり、血は川となり、生存者はわずか数名。殲滅を旨とした征討は、ただの戦ではなく一方的な虐殺であった。以来、彼らの先祖は地下に潜り、表向きは仏教徒を装いながらも、密かに祈りを捧げ続けてきた。
開国により、異国の船が行き交い、洋の彼方より新たな教えがもたらされることとなった。隠れキリシタンたちは、ついに救済の日が訪れたと信じた。だが、届いた福音は、もはやかつてのものではなかった。長い歳月の中で、隠れキリシタンの信仰は独自の形を取り、秘教とも異端ともつかぬものへと変貌していた。新たに渡来した宣教師たちからは異端視され、彼らの信仰は再び「外れたもの」として切り捨てられたのだった。
絶望の果てに、一人の信徒が囁いた。「もはや、我らは天主にも救われぬのか」と。
その者はある禁忌の文書に手を伸ばした。遥か西方より密かに伝わったという、正典からも異端からも弾かれた魔の書――“死者の書”。血にまみれた惨憺たる姿となって村へと戻った彼がこの書をどうやって手に入れたかを聞くものは一人もいなかった。
魔天の救いに縋るほかなかった。そのことは残る面々も承知している。生気の失せた顔色ながら、目だけ爛々と輝く顔が、書を持つ彼を見上げた。
蝋燭の灯が揺らめく中、信徒のひとりが低く呟いた。
「……これが本当に“神の御意志”なのか?」
最年長の男が重たい声で問いかける。彼の目には、恐れとともに僅かな迷いが宿っていた。
「私たちは、ただ救いを求めてきたはずだ。こんな……魔術のようなものに頼るのは、果たして正しいのか?」
「正しいかどうかではない」
青年が静かに答える。手にした書の表紙に、赤い蝋の封印がまだかすかに残っていた。
「神はもうこの国にいない。だから我々が神となるしかないのだ。この国の腐敗も、開国の裏切りも、血の雨を降らせて終わらせる。剣の奇跡が、我々の祈りに応えてくれるはずだ」
「奇跡……? これは奇跡ではない。ただの……禁忌だ!」
年若い信徒が叫ぶ。だが、誰もそれを否定しない。
むしろ、その言葉に他の者たちはうつむいたまま黙り込んだ。
「戻れないぞ」と誰かが呟く。
「だからこそ進むのだ」と青年は答える。
数秒の沈黙の後、年長者が口を開いた。
「……ならば、せめて、悔いのないように。主が見ておられるか否かは分からぬが、我らの祈りが地を貫くことを願おう」
青年がうなずき、書を開いた。
「……この国に、裁きの火を」
彼が近づいた先に、粗末な石造りの祭壇があった。古びた布に包まれ、長年崇め奉られてきたもの。それはひとつの髑髏であった。人のものにしてはあまりに整いすぎ、どこか神聖な気配と禍々しさを併せ持っていた。
髑髏の主は、かつて彼らの祖先が救世主とあがめたものであった。島原の蜂起でその命を散らしたが、信徒たちの命がけの行動によって首を取り戻し、この地で隠し崇めてきたのだ。
かつては殉教者の遺骨として彼らに神聖視されていたものだが、いまやそれは異端の儀式の核であり、媒介だった。
その髑髏に信徒が粗末な盃から赤い液体を注ぐ。それは信徒たちの血である。今まで死んだ同胞たちを思いだし、信徒は落涙しながら血をそそぐ。
儀式が始まる。血を注ぎながら、信徒は書に記されていた呪いの言葉を誦した。闇を裂くように、青年の詠唱が礼拝堂を満たす。言葉のひとつひとつが空間そのものを歪め、蝋燭の炎が揺らぎ、凍てついた地面の下から何かが目を覚ます。
どこの国のものかもわからぬ言葉を一心不乱に繰り返していくうち、彼の思考は徐々に正気を失っていく。
周囲では残り6人も呪言を静かに誦している。声は少しずつ重なり、1人の声のように聞こえていった。
「おお……」
血にまみれた髑髏が光を放ちだす。中空に浮いた髑髏から光が糸のように伸び、骨となり、肉となり、皮膚を作り出していった。
長い長い静寂の中、ひとりの少年が現れる。美しい容貌に、神も悪魔も宿したような瞳。その歩みは迷いなく、まるで何かに導かれるようだった。
――少年はそれに手を触れ、微笑んだ。
「我が名は天草四郎時貞。再びこの地に顕れしは、我が正しき信仰を世に放つため」
少年は信徒たちの顔を眺め、そして両目に金色の光を湛える。
「……良き時代になった。剣と信仰と、裏切りの匂いが混じっている」
彼は微笑み、七人の信徒たちは儀式の成功に歓喜の涙を流し、少年を仰ぎ見る。
「四郎さま」
「神の子」
「救世主さまの再臨じゃ」
彼らの言葉にいちいちうなずいた後、四郎と呼ばれた少年はゆっくりと信徒たちに手をかざした。
祝福ではない。その指先が動いた瞬間、彼らの身体は焼かれ、灰となって消えた。
「感謝する。“彼ら”の目覚めには、それなりの贄が要るゆえに」
彼が一節の祈りを唱えると、彼の体から黒い光が放たれた。信徒たちはその光に呑まれ、ひとり、またひとりと灰となって崩れ落ちていく。
「殉教を遂げたるものの血肉は、魔天にて生まれ変わる……」
光が収まると、灰がうごめく。それらはゆっくりと人の形を取り、まるで操り人形のように起き上がる。
しばらくすると、礼拝堂には七つの影が立っていた。人とも魔ともつかぬ気配を帯びた存在たち――影法師。
四郎は満足げに頷くと、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「どちらを見ても心強き顔ぶれ。正しき信仰は必ずや人々の心に刻まれることでしょう」
そして、四郎はくるりと振り向き、闇夜に向かって両手を広げる。祭壇の向こうにある聖母像は血の涙を流している。影法師の一人の手がひらめき、聖母像の頭部が粉々にくだける。
「デウスよ。しばし、その御眼を閉じられ給え。御身の御眼を汚す所業ゆえ」
四郎はそう言って十字を切る。そして、影法師たちへと向き直った。
「おのおの方、参ろう。この世に
風が吹き、闇がひとしきりうねると、礼拝堂はもぬけの殻となっていた。
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