【第29話】中立の秘密『優生乃が見る世界』

 昼下がりの黄昏学園。教室の窓から差し込む陽射しが、斜めに伸びて床に光の線を描いていた。

 騒がしい校庭の声とは裏腹に、ひとり静かに過ごす人物がいた。

 彼女の名は、優生乃。

 教室の一番後ろの席で、窓の外を眺めながら、微動だにせずただ静かに時を過ごすその姿は、どこか人間離れした風格すらあった。

 彼女の異能多視点解析(マルチパースペクティブ)は、他者の思考や感情を“視点”として捉え、同時に多重に処理することができるという、実に稀有な能力だった。

 だがその力ゆえに、優生乃は常に“中立”であろうとしていた。

 どんな争いも、どんな意見も、“俯瞰”で捉えて等距離に保つ。

 そうして彼女は、学園内では“最後の審判”のような存在として信頼されていた。

 が――

 その日、彼女の静寂を乱す男が現れた。

「よーっす優生乃~。今日の君の視点、何パターンくらい見えてるの~?」

 現れたのは、功陽だった。ゴーグルを首からぶら下げたまま、手には試作品と思われる奇妙なメカを抱えている。

「功陽。騒がしいと思ったら、やはりあなたですか」

「お褒めにあずかり光栄っ!」

「貴方の発言、9割以上の確率で他者の集中を妨げる可能性が高いです。特に教室内では」

「でもさぁ、集中しすぎって、逆に視野狭くなるじゃん? そういうときの“ノイズ”が実は必要だったりするんだよ? 僕、今、自己表現の研究テーマにしてるから!」

「……理解はできますが、納得はできません」

 功陽は一瞬だけ真顔になり――しかしすぐににやりと笑って、椅子にどかっと座った。

「で、今日はどの視点が多かったの?」

「現在、学園内において“人間関係の摩擦因子”が急増中です。個々の立場や感情が変化し、バランスが乱れつつあります。特に、今週末に開催される《異能交流評価会》が影響しているようです」

「おっ、例の“異能バトル形式の模擬交流”ね!」

 功陽が目を輝かせる。

「誰が一番目立つか、見どころ多そうじゃん?」

「その“目立つかどうか”という視点自体が、既に争いの種になりつつあります」

「うーん……それ、誰かが“中立な立場で調整”しないとまずくない?」

「……私が、それを担ってきました。ですが」

「ですが?」

 優生乃の瞳が、わずかに揺れる。

「この“中立性”自体が、私を“誰の味方でもない存在”にしてしまっています」

 功陽は、しばらく黙って彼女を見つめた。

「……じゃあ、優生乃は、誰にも頼れないの?」

「頼った時点で、“中立ではなくなる”からです」

「でもさ。中立って、“誰にも寄らない”ってことじゃなくて、“誰にも寄り添える”ってことじゃない?」

 その一言に、優生乃の時間が止まった。

 功陽の言葉は、いつも型破りで、論理的には不完全で、でも――

 人の心を突くのだ。

「……その発想は、考慮外でした」

「やった、勝った!」

「勝ち負けの話ではありません」

「でも、僕は一歩だけ、君に近づけた気がする」

 優生乃は、初めて微笑んだ。

(この人は、誰よりも無邪気に、誰よりも混沌としている。そしてその“混沌”が、私の“秩序”に、風を送ってくれる)

 その日の夕方、優生乃は久しぶりに視点をひとつだけに絞ってみた。

“自分”という視点。それはとても、眩しくて、やわらかい視界だった。




 金曜の放課後、黄昏学園の中庭はほんのりと春めいた風に包まれていた。

 中立の守り手――優生乃は、人気のない木陰に腰を下ろし、膝にノートPCを広げていた。その画面には、彼女が日々記録している“視点解析ログ”が並ぶ。生徒たちの感情変化、発言傾向、相互関係の重なり――それらを客観的に記述し、分類し、視覚化していく。

 異能を持つ者たちが集まる黄昏学園では、ちょっとした感情の摩擦が、時に“悪夢”すら呼び寄せる。

 だからこそ、優生乃の存在は不可欠だった。だが、それと引き換えに、彼女は“誰の心にも深く踏み込めない”立場に甘んじていた。

“誰かの味方になる”とは、“誰かを傷つけるかもしれない”という危うさを含む。

 だから彼女は、常に“公平”を装い、全てを遠くから見下ろしてきた。

 それが、正義であり、彼女の役割だと信じていた――昨日までは。

「よっ、また視点いっぱい開いてる?」

 木の陰からひょこっと顔を出したのは、功陽だった。

「……功陽。またあなたですか」

「え、なに? “また”って今ちょっと呆れ成分入ってた?」

「誤解です。事実です」

「いや誤解であってくれ!」

 功陽は彼女の隣にずずいと腰を下ろし、手に持っていたコンビニアイスを差し出した。

「ほら、僕が買ったのに溶けてきちゃったやつ、責任持って食べてくれ」

「“責任の押しつけ”は、調停者として容認できません」

「じゃあ“共同責任”ってことで半分こ!」

「詭弁ですね」

 そう言いながらも、優生乃はアイスをひとくちかじった。ほんの少し口角が上がる。

 功陽はその表情を見逃さなかった。

「……優生乃」

「なんでしょう」

「君さ、自分のことを“誰かの視点”ばかりで測ってない?」

 一瞬、風が止まったかのように、世界が静まる。

「それは……どういう意味です?」

「君の“中立性”って、他人にとっては正義かもしれない。でも、君自身にとっては?」

 優生乃は答えられなかった。

 彼女の目に映る世界は、常に多層構造だった。どんな出来事も、立場が変われば見え方が変わる――だから彼女は、何が“正しい”かを決められない。

 けれど、功陽は違った。

 彼は常に、自分の“好奇心”や“表現”を中心に世界を見ていた。たとえ誤解されても、バカにされても、自分のフィルターを曇らせることはなかった。

「……君って、ひとつの視点で物事を見られるのが、羨ましいです」

「えー? 僕なんか、ずっと“なんか分かんないけど勢いでやってる人”って思われてんのに?」

「その“わかんないけど”が、あなたの強さなのかもしれませんね」

 功陽はにっこり笑った。

「じゃあ今度、僕の“自分勝手プレゼン”に混ざってみない? テーマは“中立って何?”で」

「……公開処刑ですね?」

「いやいや、“公開表現”ですってば!」

 二人は小さく笑い合った。

 その数日後、全校集会の一角で、小さな“ミニ公開ディスカッション”が行われた。

 テーマは「異能の価値観と中立性について」。

 登壇したのは――功陽と優生乃。

 観客の誰もが驚いた。あの冷静沈着な優生乃が、マイクを握っている。それだけで、ざわめきが起きた。

 壇上で、優生乃は一度深く息を吸い、語り始めた。

「私はずっと、“中立であること”に価値を見出してきました。それは、多くの人の意見を尊重し、争いを最小限に抑えるためには必要だと信じてきたからです」

 会場が静まる。

「ですが、最近、私はひとつのことに気づきました。“中立”とは、“誰の味方でもない”ことではなく、“すべての人に一度は寄り添おうとする姿勢”なのだと」

 誰かが息を飲んだ音が、聞こえた。

「その気づきをくれたのは、功陽さんです。あなたの、わかりにくくて、騒がしくて、でも真っ直ぐな言葉が、私の心を動かしました」

 功陽が壇上で堂々と胸を張る。

「どうも、空気をぶっ壊す表現系男子です!」

 会場に笑いが起きる。

 その笑いの中に、優生乃も初めて“自分の笑い”を重ねることができた。

 彼女の中の“多重視点”が、ひとつだけ――

“今この瞬間を生きる自分”という視点に、静かに焦点を合わせたのだった。

 黄昏学園の空に、またひとつ、新しい風が吹いていた。

(第29話『中立の秘密』完)

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