第20話 そして、はじまり
姿見に映っている若い男の眉間には深いしわがある。
そのしわを伸ばすようにグリグリと指で押すが、なくなることはない。
「将典様。どうせなら、逆に眉を寄せてみたらどうですか」
「こうか?」
後ろから掛けられた真宙の言葉に、将典は実際にやってみた。もちろん、しわが無くなることはない。
「……くっ!」
振り返ると、真宙が口元を押さえていた。
「なんだ。笑うことはないだろ」
「い、いえ。実際になされるとは思っていなかったので……」
「だったら、真宙。お前も眉を寄せて、しわを作れ」
「え?!」
真宙の横には女性使用人も控えていたのだが、彼女の口元は笑いをこらえるようにひきつっていた。
そこに、真宙がうろたえる様子を見せて、ついに彼女の口から笑い声が漏れた。
「……ぷっ!」
それに合わせて、将典と真宙も顔を見合わせ、
「「くくくっ」」
二人は笑ってしまう。
笑みを浮かべたまま、将典は顔を横に向けた。開け放たれた窓からは花を咲かせた梅の木が見える。
かすかに梅の花の香りがする。
もう少ししたら、桜の花も咲く。
春はもうすぐそこまで来ていた。
将典は書斎へ移る。後ろからついてくる真宙の足音が聞こえた。
書斎の仕事机の上には、今日も新聞の束が置かれていた。
一番上の一紙を手に取ると、一面記事の見出しに記されていた言葉が目に飛び込んできた。
「糾問会は解体か」
各新聞の紙上では、下条が犯したことを糾問会の失態として、今でもまだ取り上げられ続けている。
その裏には叔父千里の動きがあった。
――叔父上は見事に窮地を好機に替えられた。
将典たちが糾問会の危地を見事に潜り抜けた一報が届けられると、すぐさま千里は反撃に転じ、商売敵や競争相手の牙城を崩しにかかった。
糾問会開催前に澤渡家を散々誹謗中傷した新聞1紙を廃刊に追い込んだりもした。
将典が今、手に取っている新聞は、買収ののち経営陣と記者が全員入れ替えられていた。
祥雲院にあった澤渡家累代の位牌は、故郷滄州にある別の菩提寺に移された。これまでに行った多額の寄進を離檀料代わりとして。
――祥雲院の新しい住職は未だ決まらず。
下条と十河は北の厳しい修業道場に送られた。
――金が流れていた宏徳寺は早々に金欠で喘いでいるらしい。
元使用人の川上一夫は警察に逮捕された。澤渡の次に働いていた所から被害届が出されていた、と将典は耳にした。
――他にも大人たちが政治の場で蠢いている話を耳にしているが。
――私には関係がない。
コンコン
書斎の扉がノックとともに開かれ、
「失礼します」
康嗣が姿を現した。
「将典様。朝食の準備が整いました」
「分かった。今行く」
今日から「学園」の新年度が始まる。学園は貴族・名族の子弟の教育機関であり、ここの卒業が爵位授爵の必須条件にもなっている。つまり、卒業する2年後に将典は伯爵位を授爵され、澤渡伯爵家当主として名実ともに認められる。
――同時に、今日は、私に悪役令息の役割を担わせるゲーム「パルヴニール」の始まり日でもある。
「パルヴニール」の主人公が学園に入学してくる。
その主人公と敵対する人々も集まる。
――もっとも、下条はすでにおらず、「パルヴニール」のシナリオは破綻してしまっているのだが。
「そんなこと知らないな」
ぽつりとつぶやいた言葉に、真宙が問いかけてくるが、
「何か仰いましたか」
「いや、なんでもない。今日の朝食は何かな、と思っただけだ」
はぐらかした言葉に、康嗣が返してくる。
「今日の担当は板家でございます」
「お! そうか。それはデザートのスイーツが楽しみだな」
将典の顔に笑みが浮かんだ。
――まだ食べたことがない新しいスイーツを食べたい。
――そのスイーツを真宙や礒橋はもちろん、叔父上にも、さらには多くの人々にも食べさせたい。
――その先に、良き貴族となる私の未来がある。
「さて、食堂へ移動しよう」
足を一歩前へ進める。その足取りは軽く、前へと歩き続ける。
足音はひとつではない。
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