第16話 怒り、絶望、救いの手

 グッ


 召喚状の紙に、将典が両手で持っている所を中心にして、しわが寄る。


 ――贅沢をむさぼり、民をしいたげ、不正に手を染めている、だと?

 ――贅沢? 何の贅沢をした?

 ――民を虐げる? どんなことをして虐げた?

 ――不正? 何の不正をした?

 ――私がそんなことしているわけがないだろう!


 なのに、糾問会への召喚理由として記されている。具体的なことには触れられていない。


 正式な召喚状ゆえに、使われている紙は最上のもの。先日、下条から送られてきた手紙で使われていた紙とは比べ物にならないほど、厚く固い。その紙にしわが寄る。


 将典の眉間にも深いしわが寄る。


 ――嘘偽りを並べ立ててでも、私を陥れたいのか、下条!

 ――そこまでするほど、貴族が憎いか!

 ――絶対にこのままでは済まさない!


 けれど、心の中で渦巻く怒りの底には、押し潰されそうな絶望が張りついていた。


 将典の下に届いた召喚状と同時に、宏徳寺の境内では糾問会開催を告げる高札が立てられている。そこには、開催の日時、誰が召喚されるのか、召喚の理由も記される。


 より詳しい真実など、誰も気にしない。


 糾問会が開催されるだけで人々は会話の種にするし、新聞記者たちは一面の記事に仕立てる。


 今頃は、人々の会話に高札の話が出ている。記者たちも一目散に会社へ戻って第一報の記事を書いている。


 ――これから行われる新聞記者たちの取材は、父の醜聞の時の比ではないだろう。

 ――彼らがどんな常識外れの行動に出てくるか、想像もつかない。

 ――流言に踊らされた民が大勢、屋敷に押しかけても来るだろう。

 ――屋敷への投石だけで済むか?

 ――この件を知った澤渡の大人たちは怒り狂うだろう。

 ――「澤渡の恥知らず」と罵られ、今の立場から引きずり降ろされる。


 俯いて、大きな溜息を吐いてしまう。


 ――……本当に「良き貴族」からはほど遠い。


 その時、


 カチリ


 頭の中で歯車がかみ合った音が立つと、1つの情報が浮かんできた。


 それは、「パルヴニール」において主人公に将典が倒された後の光景。


 倒された将典は下条に助けを求めるが、冷淡な扱いをされる。それでも、将典は誇りも何もかも捨て去り、泣いて縋りついて懇願するが、下条に容赦なく蹴り飛ばされた。


 そこには将典と下条の2人しかいなかった。いつも将典のそばにいる真宙も康嗣もいなかった。


 ――当然か。もしも、下条の洗脳から解放されていなければ、ありえた未来だ。

 ――私は全てから見捨てられる。

 ――暴れ続けて、使用人たちから愛想をつかされ、

 ――澤渡の金を下条に全て渡して、礒橋からは当主失格の烙印を押され、

 ――私と同じ洗脳されていた真宙はどうなる?

 ――おそらくは、私がくだらない道具のように扱って捨ててしまうだろう。

 ――そして、叔父上からは見捨てられる。


 脳裏に浮かんだ叔父千里の顔が変わる。母の葬儀が終わった後、見送りに現れた時の、寂しさをわずかに浮かべながらも、包み込むような優しさを浮かべた顔から、ほとほと呆れて愛想が尽きたと見下げるものに。


 身体が震えそうになるのを将典は必死に抑える。手紙から離した右手で左腕をつかむことで。


 ――しかも、これは単純なありえた未来ではない。

 ――まだ、これからありえる未来だ。


 震えを抑えるために、左腕をつかむ右手にさらに力が入る。


 ――もしも、糾問会で下条に敗れたら、どうなるか?

 ――澤渡の家は下条への屈服を余儀なくされる。


 その先にあるのは、下条に向かって、誇りも何もかも捨て去り泣いて懇願する将典の姿。


 18代続いた澤渡家の名誉は、今度こそ本当に地に堕ちる。


 ――公森家と同じように家名が剥奪される?


 背中を冷たい汗が一筋流れる。


 ――下条はそれを狙っている?


 これ以上、左手で持っていた召喚状を持ち続けることが出来ずに、了成の前に置いた。


「若様、糾問会への召喚を無視しますか?」


 康嗣が聞いてくる。召喚状に先に目を通していたその目にも、声にも、明らかな怒りが浮かんでいた。


 けれど、将典は気づくことが出来ない。


 カタカタと窓が風にあおられて鳴る音は聞こえた。


 右手の爪が立って、左腕に痛みが走る。


 やせ我慢の限界はとっくに超えている。それでも、自分を必死に奮い立たせる。


「糾問会には出席する」


 震えそうになる声で懸命に言葉を紡ぐ。


「欠席裁判によって、偽りが真実として流布されることは避けなければならない。欠席したら、糾問会によって没落した公森家の二の舞だ。それだけは避けなければならない」


 蒸しパンがのっている皿の文様が目に入る。それは鷹の羽。


 澤渡伯爵家の紋章が将典の脳裏に浮かんでくる。


 ――……私は澤渡家の当主。


 貴族としての矜持が、心を覆いつぶしている恐怖をわずかに押し戻す。


「我が澤渡家の名誉は自らの手で守らなければならない」


「ほな、下条玄悔を倒す悪巧みでも始めましょか」


 唐突にかけられた明るい声に、思わず将典は顔を上げた。


「拙僧には下条はんがえらい急ぎなはるように見えますなぁ。こないに慌てて糾問会をお開きになりましたら、下条はんはちゃんとした証拠をお揃えになれますやろか。心もとのうおます。もちろん、その証拠が嘘偽りでありましても、のことですけれど」


 将典の目に映ったのは、後悔と苦悩に満ちた老人ではなく、優しく暖かな笑みを浮かべた一人の僧侶角井了成


「もちろん、このまま手をこまねいてはりましたら、下条はんの意のままに糾問会をしてしまいますわ。けれど、旧都にありはる教義院に下条はんの洗脳のことをお伝えできれば、まだ機会はおます」


「……下条が洗脳を行っている絶対的証拠がない。状況証拠だけでは教義院が動くとは考えられない」


「拙僧が証人をつとめさせていただきます。拙僧と下条はんとの関係を存じ上げてはる大僧正はんに連絡を取らせていただけましたら、必ず大僧正はんは動いてくれはります」


 ――本当は土壇場で私を裏切るつもりなのではないか。


 否定的に将典は考えてしまう。


「速達郵便を使えば、旧都におられる大僧正とは連絡を取ることが出来ます」


「……糾問会に召喚された私のために郵便局が動く保証はない」


 ――流言に踊らされた局員が配達を妨害するかもしれない。

 ――澤渡家を追い落とす機会ととらえた局の上層部が圧力をかけるかもしれない。


 康嗣の言葉にも、将典は否定的に返してしまう。それでも、励ますように康嗣が言葉をかけてきた。


「私が必ず関上郵便局長を説得してみせます」


 局長は、先日屋敷に来た富士子の夫。


 将典の脳裏に、心配そうな表情をした富士子の顔が浮かぶ。


「……どうして。……角井和尚、礒橋。あなたたちは、どうしてそこまでしてくれるのか」


 富士子の顔が、亡き母の顔にも重なると、将典の中で張りつめていた糸がぷつりと切れた。


「私なんか見捨てて距離を取った方があなたたちのためだ」


 声はか細く震えていた。


 了成と康嗣は目を見開かせ、顔を見合わせる。そして、互いに軽くうなずき、将典に向けて笑顔を見せた。


「私は澤渡家と将典様に忠誠を誓っております。それこそ、魔獣の群れに徒手空拳で飛び込むことになりましても、最後まで将典様の供をする所存です」


 康嗣は深々と頭を下げる。将典の母に向けていたのよりも深く丁寧に。その瞳には真剣な光。


 次いで、了成が口を開く。その顔から笑みを掻き消して。


「拙僧の師は全円大僧正はんとは同じお師匠はんの下で学んだ兄弟弟子になりまんねん。師は兄弟子でありはる全円大僧正はんを止められんかったことを死の間際まで後悔してはりました。拙僧は師と同じ蹉跌を踏むつもりはおまへん」


 ここまで言うと、また人好きのする笑みを浮かべて、


「それに、若者が無実の罪に陥れられようとしているのを見過ごしたら、僧侶として失格や。仏さんと合わせるお顔がありまへん」


 坊主頭を撫でながら言う。その瞳には真摯な光。


 窓から陽の光が差し込んでくる。いつの間にか雪は止んでいた。


 陽の光が将典の身体に温もりを与える。


 ――逃げ出したい。この気持ちは本物だ。


 父、高松拓哉の姿が将典の脳裏に浮かび、彼の笑い声も聞こえてくる。


 けれど、彼の姿と声が消えた後に浮かんできたのは、優しい笑みを浮かべた母と祖父の姿。声は聞こえない。だが、彼らの瞳は雄弁に語り掛けてくる。


 ――母上もお爺様も危地に追い込まれたことはあっただろう。

 ――それでも、潜り抜けられてこられた。


 悪意に満ちた顔をして見下ろしてくる下条の姿も将典の脳裏にちらつく。嘲笑の声も聞こえる。


 ――まだ怖さは残っている。それでも……、


 ホットケーキを食べて笑顔を浮かべる富士子と、真剣な顔でホットケーキを焼く咲哉が脳裏に浮かんでくる。


 ――私は私の天命をあきらめない。


 深く息を吸い込む。


 壁に飾られている澤渡伯爵家の紋章が将典の視界に入ってきた。


 ――私は澤渡家18代目当主。


 左の拳を握り締める。


 ――良き貴族として、私に関わる全ての人を守るために、


「二人とも力を貸してくれ。私は糾問会に向かう」



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