怪異さんといっしょ
宵宮祀花
怪異さん、初めての海水浴
八月五日、午前十一時。
真夏のビーチは、思いの外海水浴客で溢れていた。
海の家からは威勢のいい呼び込みの声が響き、波打ち際では浮き輪を装備した幼い兄妹が、寄せては返す波を相手にはしゃいでいる。かき氷を片手にビーチパラソルの下でくつろぐカップルや、早くもはしゃぎ疲れた子供に左右を固められて、起きるに起きられなくなった父親の姿もある。
月影千花は様々な海水浴客に紛れるようにして、運良く空いていた青いパラソルを選んで荷物を置いた。
「
「そうね。例年に比べたら酷暑で
クーラーボックスを開けながら千花が言うと、ビーチチェアに腰掛けながら千花の友人である鏡宮水咲が同意した。
更衣室から羽織ってきた水着のショートパーカーを脱ぎ、喉元を軽く仰ぐ。露わになった水咲の体は、同性である千花の目から見ても完璧でつい見とれてしまう。
「千花、ぼんやりしてどうしたの?」
「へぁっ!? う、ぁ、えっと、そ、その水着可愛いね! って思って……」
「ありがとう。千花の水着も素敵よ。似合っているわ」
「はわ……えへへ、ありがとう」
照れてお礼を言う千花の頭を、水咲が微笑みながら撫でた。小動物の如き扱いだが彼女の所作は不思議と不快ではなく、温かな親愛を感じる。
水咲の水着はオフショルダーカットソーのようなトップスと一見フリルスカートに見えるボトムスに別れた純白のビキニで、彼女の真珠のような肌が良く映えている。千花のほうはピンクのギンガムチェックのワンピースに白いレースのカーディガンをあわせた可愛らしいデザインの水着で、水咲と並ぶと体格差も相俟って少しだけ幼く見えてしまう。だが本人は気にしていないどころか水咲に「苺ミルクのキャンディのようで可愛いわ」と言われた瞬間、これが過去最高にお気に入りの水着となった。
「花海さんたちが来たら泳ぎに行こうね」
「ええ」
そわそわと待ちきれない様子の千花を、微笑ましいものを見る目で水咲が見つめて頷く。水咲の長い黒髪が潮風に靡く様は、映画のワンシーンのよう。一方で、泳ぎに行きたくて仕方ない様子の千花は、散歩を待つ子犬のようだ。
遠くに視線をやれば、果てなく広がる青い海が夏の陽に溶けて青空と混じり合っているのが見える。白い砂浜は素足で歩けば火傷するほど熱を持っているはずなのに、眺めているだけならやわらかな粉砂糖のよう。
弾ける炭酸のような極彩色の夏の景色はジリジリと肌を焼く攻撃的なまでの熱さえなければ、この上なくノスタルジックで最高なのにと千花は思った。
楽しげな喧騒を聞きながら寛いでいると、ふと影が差した。待ち人が来るにはまだ少し早いはずと思って顔を上げれば、見知らぬ二人組の男がいた。
「ねえ、俺らと泳ぎに行かね?」
「飲み物くらいなら全然奢るし、行こーよ」
お手本のようなナンパに、千花は思わず面食らってぽかんとしてしまった。まさかこんな場所で知らない異性に声をかけられるとは思いも寄らなかったのだ。とはいえ彼らの本命は自分ではなく水咲だろうことは、視線の向きで充分に察するのだが。
「あの、わたしたちは……」
「さっきからずっと其処にいたじゃん? ナンパ待ちっしょ?」
「荷物ならその子が見ててくれるって」
千花の言葉をわざと声量を上げてまで遮って水咲だけに話し続けている辺り、勘は当たっていそうだ。おまけに荷物番扱いまでされるとあからさますぎて怒りも湧いてこない。
なにより千花は、強引な声かけで水咲の機嫌が悪くならないかが気になって、全くそれどころではなかった。
「私たち、待っている人がいるの。邪魔しないでくれる?」
「またまた~」
一瞬、夏の暑さも忘れるくらい冷え切った声で、水咲が言い放った。だが男たちは水咲の不機嫌な様子も見えていないのか、見えていてなお反応があったのだから更に押せば行けるとでも思っているのか、一歩も引かなかった。
「そう言えば諦めると思ってんだろ?」
「だからさあ、ずっと目ぇつけてたんだって。わかれよな。更衣室前から周りに誰もいなかったのはバレてんの」
「いいから来いよ。ンな水着着といてヤリ待ちじゃねーとかありえねーだろ」
「つかでけえおっぱいぶら下げた女が純情ぶんなっつーの」
水咲が頑なに動かないことに痺れを切らした男の片割れが、手を伸ばしてきた。
だが、その手が水咲に届くことはなかった。
「は!?」
パシッと音を立てて、男の手首が何者かに掴まれる。まるで少女の細腕を掴むかのように。その青白い手は貧弱なナンパ男とは比べ物にならないほど大きかった。
「ンだよ、邪魔す……」
勢いよく振り返った男の、語尾が儚くかき消える。
幽霊画のように長い黒髪に、白いシャツと黒いパンツ。足元は裸足で、手と同様に人とは思えぬ大きさをしている。なにより身長も、成人男性の平均はあるナンパ男を優に超えるサイズで、軽く見積もっても二メートルはある。
其処にいたのは、千花の待ち人だった。
「
千花が表情を明るくしてその名を呼ぶと、花海と呼ばれた大きな手の持ち主は目を細めて千花に微笑みかけてから、男を睨んだ。
「俺の友人になにかご用ですか?」
「はぁ!? ダチなら関係ねーだろ!? すっこんでろよキモオタがよ!」
いったい何処を見てその呼び名を選んだのか、あまりにそぐわない蔑称を叫んだ。男が喚いたことで騒ぎに気付いた周囲の人々の視線が、千花たちに突き刺さる。
「そうはいきません。なにせ…………ああ、遅かったですね」
突然、男たちは背筋に悪寒を感じた。気のせいかと思ったのはほんの一瞬で、その悪寒はあっという間に全身へと広がっていった。
夏の日差しも、焼け付くような砂の熱も、喉に絡みつく湿気を帯びた熱風さえも、なにも感じない。突然水着姿で真冬の山奥に放り出されたような感覚だった。
「な、ア、何……うぁ……」
「ひ……ヒッ……ヒッ…………」
男の片方はガタガタと歯の根をかち合わせながら要領を得ない音を口から漏らし、もう片方はひきつけを起こしたような声とも音とも言えない引き攣った音を喉奥から漏らしている。
彼らを恐慌状態にしたのは、いつの間にか水咲の傍らに跪いている美貌の男が放つ氷柱を心臓に突き刺すような鋭い威圧感だった。
うなじで一つに結った白銀の長い髪に紅い瞳のその男は、現在地が海水浴場であることを忘れそうになるくらい、きっちりと燕尾服を着込んでいた。白いシャツに黒のベストと燕尾のジャケット。足元は革靴で、磨いたばかりのように艶めいている。
奇妙なのは、これほど目立つ二人が合流した途端、周囲の視線が嘘のように消えたことだ。先ほどまでナンパ男が騒いで衆目を集めていたにも拘わらず。
「お待たせして申し訳ございません、水咲様」
「全くだわ。遅いのよ、
水咲は不機嫌を露わに言うと、千花を抱き寄せた。
なにが何だかわからないなりに、いまの水咲に逆らわないほうがいいことは本能で察している千花がされるままにしていると、水咲はそれはそれは哀しそうな声で、
「私の可愛い可愛い千花が無頼の輩に傷つけられたの。ひどいと思わない?」
そう言った。
千花は自分が傷つけられるようなことなんてあっただろうかと思いはするものの、決して口にはしない。自分はともかく、水咲が侮辱されたのは事実だからだ。
「ええ。ええ。仰るとおりで御座います。全ては私がお側に参じるのが遅れたゆえ。この失態は働きで以てお返し致しましょう」
疑問符に塗れている千花を余所に、水咲と胡ヶ崎のあいだで話が進んでいく。
男の手首を掴んでいる花海だけはこのあとの展開を察して頭を抱えていた。自分が現れた時点で諦めて立ち去ってくれればと悔やんでももう遅い。
「花海様」
「……はい、どうぞ」
胡ヶ崎に名前を呼ばれた花海が掴んでいた手を離すと、男は支えを失ってその場に膝から崩れた。瞬間、男たちの影から無数の黒い手が伸びてきて、動けずにいる男の手足や首に絡みついた。
「ひぁ……な、んだよ、こ……」
「は、離せッ! クソッ……誰か……!」
男の片割れが、周囲に向かって叫ぶ。
だが誰一人としてその声を聞く者はいなかった。わざと無視している風ではない。本当に存在を認識出来ていない様子で、誰も彼もが通り過ぎていく。いまにも指先が触れそうな距離を通りかかった男性も、かき氷を両手に同行者を探していた女性も、座り込んだ男と目線が殆ど同じであるはずの子供たちも。誰も異変に気付かない。
やがて男たちは、言葉にならない言葉を叫びながら、底なし沼に沈んでいくようにズブズブと影に飲み込まれて消えた。あとには白い砂があるばかり。まるで其処には最初からなにもなかったかのように、跡形もなく消え失せてしまった。
「ゴミ掃除が完了致しました」
「ご苦労様。怖かったわね、千花……もう大丈夫よ」
「う、うん……えっと、胡ヶ崎さんも、ありがとうございます……」
いえ、と胡ヶ崎が一言返すと、水咲も千花を解放した。
随分長いこと抱きしめられていたような錯覚を覚えながら、千花は改めて花海へと向き直る。
「花海さん、来てくれてありがとう。しつこくて困ってたの」
「いえいえ。一緒に来られたら本当は一番良かったんですが……」
「ふたりが公共交通機関に乗ったら大変なことになっちゃうもんね」
「そうなんですよねえ。というか俺は天井が低すぎて立っても座ってもちょっと……居心地が悪いというか……」
「あ、そうだよね。それもあった」
困ったように笑う花海の顔は、人間にしか見えない。
身長は約二メートル半と平均を遙かに上回ってはいるが、人間としてあり得ないというほどではない。稀ではあるものの確かに存在する範疇だ。手足の大きさばかりは誤魔化しようがないものの、彼の他に畳のような規格外の手足を持った怪異もいる。それを思えばまだ幾分か「背が高いので」と言えなくもない範疇だ。と思われる。
胡ヶ崎に至っては百九十弱の長身と、俳優もかくやという美貌の持ち主である。
外見だけを見るならば、此方は全く異様なことなどなにもない。
「彼らは今頃、別の海でバカンスかしら」
「何処へ飛ばされるかは私にもわかりかねます。なにせ処遇は、海の怪に全てお任せ致しましたので」
「まあ、北半球なら夏なのだから半分の確率で助かるんですもの、有情よね」
にこやかにとんでもないことを言う水咲に、千花は内心で「もし外国だったら水着一丁でどう帰るんだろう」と少しばかり同情した。だが、すぐに水咲をひどい言葉で侮辱したことを思い出し、同情心をかき消した。
花海も気にしていたことだが、最初に止められた時点で立ち去れば良かっただけの話なのだから。
「そんなことより、泳ぎに行きましょう」
「うん、そうだね。花海さん、一緒に来てくれる?」
「はい。行きましょう。胡ヶ崎さん、すみませんがこの場はお任せしますね」
「どうぞご遠慮なさらず。私は水には入れませんので、暫し寛がせて頂きます」
にこやかに手を振る胡ヶ崎に見送られ、千花は水咲と花海と共に海に向かった。
サンダル越しにさえ熱が伝わってきそうなほど熱い砂を踏みしめ、波打ち際に一歩足を踏み入れる。その瞬間ひりつく肌の熱が波に浚われるのを感じて表情が緩んだ。更に歩を進めて胸元まで海水に浸かると、暑さも徐々に和らいでいった。
「あの……当たり前なこと言ってるかもだけど、花海さんもちゃんと濡れるんだね。服とか大丈夫?」
花海は一度自分の体を見下ろしてから「大丈夫ですよ」と答えた。
「水から上がれば乾きます。今日はお二人とご一緒するので、折角ですから俺も海を感じてみようと思ったんです。……まあ、水着姿にはなれないので、見た目はあまりそれらしくないかも知れませんが」
にへ、と締まりなく笑う顔を見上げた二人は、一度顔を見合わせてから頷き合い、揃って花海に水をかけた。意図を察して、仕返しにと花海が両手で水をかけ返せば、手桶をひっくり返したかのような水量が二人を襲った。
頭上から注ぐようにかければ小さな打たせ湯のようになり、花海が胸まで浸かれる深さのところへいけば二人は足がつかなくなる。花海にしがみついてたゆたったり、うつ伏せで泳ぐ花海の上にバナナボートよろしく跨がったり。後者は絵面が恐ろしく海幽霊のようだったので、すぐにやめたのだが。
「日の当たる場所も悪くないですね」
「でしょ? それに、此処の海なら水の怪もいっぱいいるから、花海さんも其処までアウェイじゃないかなって思ったんだ」
千花の言葉に花海は細い目を丸くして、それからうれしそうに破顔した。ずぶ濡れ状態で長い髪が顔に張り付いている様はホラーでしかないのに、千花の目にはそれも愛おしく映る。
じゃれ合う千花と花海を、いつの間にかパラソルに戻っていた水咲が、微笑ましいものを見る目で見つめている。
「あの二人を見ていると、家で留守番している飼い犬たちを思い出すわ」
「では後日、プールにでも入れて差し上げましょうか」
「それはいいわね。折角だし、千花たちも呼ぼうかしら。きっと可愛いわ」
遠くで、花海に肩車された千花が、水咲に手を振っている。笑顔で振り返すと更に大きく手を振って、バランスを崩す様子が見えた。慌てる花海に、しがみつく千花。最早子供を見守る親の心境である。
「あの子たちほどはしゃぎはしないけれど、私もあなたと来られてうれしいのよ」
「光栄です、水咲様」
眩しそうに自分を見つめる胡ヶ崎に微笑み返し、再び波打ち際で戯れる千花たちへ視線を移す。どうやら綺麗な貝殻を見つけたようで、それを手に此方へと戻ってくるところだった。
「次は地元の夏祭りね。準備は出来ていて?」
「滞りなく」
数メートル先から元気に「見て見て、水咲ちゃん!」と叫びながら駆け寄ってくる小さな体を抱き留めるべく、水咲は両手にバスタオルを構えた。
胡ヶ崎の目に映るその姿が丸っきり水遊び後の飼い犬を迎える格好と同じであったことは、心の内に秘めておくことにした。
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