19話 校則
教室に戻ると、僕の机を占領して必死に勉強している人物の姿があった。
誰であろう、猪子さんである。
正直に言ったら普通に怒られるだけだろうけど、このタイミングまで僕はすっかり忘れていた。
いやまあ、そこにいる理由ぐらいはわかる。
チョコを渡すためだけに僕のところまで来たんじゃないってことくらい、ちゃんとわかってはいた。
優先順位の都合で後回しにしたら予想以上に時間を取られてしまっただけで。
というか、僕がいなくても勉強出来るなら教えを乞う必要なんてどこにもないんじゃないか?
それとも今頃になって尻に火が付いたのだろうか。努力するのに遅すぎることはない、なんてどこかの偉人なら利いた風なことを言うのかもしれないけれど、やらないよりはマシを言い換えてるだけに過ぎないだろと僕は思う。どこが名言なのやら。まあ、努力してる人間にそんな水を差すようなこと、僕は言わないが。
一言も二言も、余計なことは口にしないに限る。
「ただいま戻りました」
「おかえりウンコマン」
ノートに書き写す手を止めないまま、猪子さんは返事をした。
僕は苦笑いを浮かべつつ、空いている前の席に座った。
「一時間も頑張ってたウンコね」
「……その語尾じゃ猪子さんがウンコマンですよ」
「誰がウンコさんだ、蹴飛ばすぞ。ほらもう、ウンコが連呼するからノートにぱずるって書いたじゃん」
「認識が反転してません?」
「やっぱりツッコミが弱い」
ようやく顔を上げたと思ったら鼻で笑われた。
顔は笑っているが雰囲気が笑ってない。
そういえば真夢先輩が来てたんだったか……。
「つーかさ、トイレに行ってたんじゃないのかよ」
「聞かれたから答えただけで、ただの言葉の綾ですよ。ちょっと席を外すくらいのつもりで言っただけです」
「ずっちにとって一時間はちょっとだったか」
「想定が甘かっただけです」
「バレンタイン過ぎてるのに甘々」
「猪子さんのテストに挑む姿勢くらいには甘々でした」
「チョコ返せ」
「ホワイトデーにお返ししますよ。ところで、勉強の方は順調ですか?」
「順調に見える?」
「……見えませんね」
ノートに本当にウンコって書いてる時点で危うい。
そうでなくとも落書きが多い時点でそこまで集中できてないのがわかる。
猪子さんは天井を仰ぎ、「あー」と唸りにも似た長い溜息をついた後、
「一つ解決した程度じゃ悩みの種なんて尽きないんだよ」
と肩を落とした。
「テスト以外に悩みがあるんですか?」
「さらっと馬鹿にしてる?」
「してませんよ。そもそも悩みが無いことと馬鹿は別でしょう。むしろ解決できない悩みを抱えてる時点で悩んでる人の方が馬鹿です」
「やっぱり馬鹿にしてる?」
「気のせいです気のせい」
どちらかといえば自虐だ。
情報収集するだけのことなのに、ロクな成果が出てないと悩んでるんだから。
「ところでずっちよ」
「なんでしょう」
「外で有名人が待ってるみたいだけど?」
そう言って廊下をペンで指し示した。
窓の向こうで鼠ヶ関が所在なさげに立っていた。
「あー、ちょっと待たせるくらいなら大丈夫ですよ、たぶん」
「どんな理由であれ女子を待たせる男子は最低だよ」
「てか猪子さん、鼠ヶ関のことは別に大丈夫なんですね」
「無害なら嫌悪感も何もないでしょ」
どの辺が無害なんだろうか。
いや、猪子さんにとって無害ってだけか。そういえば鼠ヶ関のことは特に何も反応してなかったな。
「無害ついでに忠告するけど、女子を待たせて平気ってのは聞き捨てならねえわ。さっきもウンコだって言って散々人を待たせやがって。最低野郎」
「そのネタまだ引っ張りますか。猪子さんを待たせたのはあいつが要因でもあるんですからね」
「先約があるんだったら先に言いなよ。そうと知ってりゃ遠慮するんだから」
ペンを机に捨て、猪子さんは言った。
他二人に対しては嫌悪感をちっとも隠さなかったのに、鼠ヶ関に対しては気を遣える辺り、本当に二人だけが悪い意味で特別なんだと感じさせる。
「こっちだって、他人の恋路を邪魔したりしないっての」
「……はい?」
「なに、その不法侵入した狐が鉄砲食らったような顔は。ウチがそんな見る目が無いとでも?」
「普通に死んでますよその狐。なんの話してるんですか」
「なにって、付き合ってるんでしょ?」
「誰と誰が!?」
「ずっちとあそこのシスター」
「いやいやいやいやいやいやいや!」
全力で否定した。
「付き合ってませんよ! どこをどう誤解したらそうなるんですか! 大体僕は片思い中の人がいるんですよ、他の女子に現を抜かしてる暇なんてありません!」
「はあん……」
猪子さんは表情を歪ませた。まるで新しいおもちゃでも見つけたと言わんばかりだ。
「片思いなんて辞めて向こうと付き合えばいいのに。ずっちにはもったいないくらいの女子だよ」
「どこがですか」
「見た目が可愛いし、性格に裏表が無い時点ってだけでも十分でしょ。なにより成績もずっちより上」
「そんなにベタ褒めするんなら、いっそ猪子さんが付き合ったらどうです? なんなら僕が仲介しますよ」
「彼氏一筋の人間に女子を宛がおうとすんな。ただでさえ成績悪くて目ェ付けられてるってのに、これ以上評判落とせるか」
「同性同士ですし、不純異性交遊に当てはまりませんから大丈夫ですよ」
「なお悪いわ。苔むした教義を徹底遵守してる
「そんなこと知りませんよ」
「知っとけよ。生徒手帳にもしっかり書いてあるんだから」
僕はポケットから生徒手帳を取り出し、それらしい箇所をぺらぺらと探ってみた。
【校則第十七条】
次の行いは神に背く行いであり、我が校の生徒はこれらを犯してはならない。
・いじめや困っている人に対し無関心でいること(慈愛の精神を持ちましょう)
・同性同士の恋愛(自然の摂理に背く行いです)
・無益な殺生(命とは神に由来するもの。これを冒涜するのは神を冒涜するのと同じです)
・その他不道徳な行い(神はいつもあなたと共にあります)
どうやらこの学校ではいじめと同程度の罪らしい。
そりゃ猪子さんも全力で避けるわけだ。
というか、生徒手帳の内容なんてちゃんと読んでるのか。変なところで真面目だ。
「報われない片思いするくらいなら、シスターと付き合っちゃいなよユー」
猪子さんはけらけらと冷やかす。
「まだ報われないと決まったわけじゃありませんよ。それになんて言うんですか、あんまり惹かれないんですよね。悪い奴じゃないってのは分かってるんですが」
「知ってるかいずっち。強欲も罪なんだぜ」
「鼠ヶ関に対しては無欲なだけですよ。ちょいとどいてもらっていいですか? 荷物取るんで」
「今日はもうお帰りで?」
「ええ、女子を待たせるのは最低だって学んだところですからね」
「
「いや、付き合いませんよ? ――そうだ」
「チョコの値段なら税別で三百円だよ」
「ギリギリでありそうな嘘言わないでくださいよ。いいとこ百円じゃないですか」
「んでなに」
「あいつが嫌われてる理由って猪子さんは分かります?」
「馬鹿正直だからでしょ」
猪子さんはあっさり答えた。
「その上で悪ノリに一切付き合わない正しさ一辺倒の清廉潔白人間なんて普通は嫌でしょ」
「清廉潔白ですか」
「ま、ウチはどうでもいいけどね。関わりないし」
と自己弁護とも取れるようなフォローを付け加えた。
嫌われる理由が分かったような気がしたけれど、清廉潔白だけは納得しかねる。あのファッションにあの性格でどこが清廉で潔白なのかと言ってやりたい。
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