『努力厨は異世界に夢を見ない』

宮本ヒロ

【プロローグ】

 五時半。真城理人ましろりひとは目を開けた。目覚ましの音が鳴る数秒前。別に狙っていたわけではない。ただ、そういう日が増えてきた。体が自然に起きるというより、心が目覚める時間を覚えたような感覚だった。

 洗面所で顔を洗い、歯を磨く。手順はいつもと同じ。水の冷たさで脳を起こしながら、今日やるべきことを静かに並べ直していく。今日は英語と数学を重点的に。昨日の反省点は、処理スピードの甘さだった。

 運動は軽め。腹筋と背筋、腕立てを二セットずつ。体力があるほうではないから、毎日少しずつ。疲れを残さず、けれどサボってるわけじゃない程度に。継続することが目的ではなく、“できなかったこと”が“できるようになる”ように組み直しているだけ。

 朝食は簡単なものだった。冷ご飯を温めて、卵を落とし、醤油をひと回し。インスタントの味噌汁に湯を注ぎ、湯気で眼鏡が曇った。そういうのも慣れっこだった。

 テレビはつけない。スマホも見ない。時間を奪われるものは朝にはいらない。頭を整える時間に、雑音は必要なかった。

 七時二十分。理人は家を出た。学校までの道は静かで、決まった民家のシャッターが上がる音や、同じ時間に通る郵便バイクの音が耳に入ってくる。変化のない音が、逆に落ち着く。異常がないという証明だからだ。

 登校時間にはまだ早い。だが、早く着くからといって誰かに迷惑をかけるわけではない。目的は、誰もいない教室で集中できる時間を確保すること。ただそれだけ。

 理人にとって、自分の時間は“何をするか”よりも、“どう使うか”のほうが重要だった。

 教室に着くと、予想通り誰もいなかった。窓際の一番後ろの席に座る。自分の席にだけある、静けさと集中の匂い。それを崩さないよう、丁寧にノートを広げる。

 昨日の復習。英語長文で引っかかった構文がまだ腑に落ちていなかった。読めた気になっているだけで、意味を分解できていない。そこを潰す。

 何度も声に出さずに読み返す。文構造を紙に書き出し、順番を並び替える。時間はかかる。だが、時間をかける価値はあった。“なんとなく分かった”を、“正確に分かる”に変えること。それが理人の中の基準だった。

 しばらくして、教室のドアが開いた。何人かの生徒が入ってくる。気配で分かる。誰が来たか、話し声で大体は察しがつく。

「おーい、また朝からやってんの? 真城、マジでストイックすぎって」

 声をかけてきたのは、大津隼おおつしゅん。いつもテンション高めで、悪気のない軽口を飛ばしてくるタイプ。

 理人は顔を上げず、ノートに視線を落としたまま応えた。

「ストイックじゃない。ただ、できなかったからやってるだけ」

「いや、でもさ、努力って報われるとは限んないじゃん? 頑張ってもムダなときってあるだろ。だったらさ、なんか才能とかさ、スキルとか――来いよって思わね?」

 近くの男子が吹き出す。

「お前、それまた“実は俺、最強でした”系? 中二病乙」

「マジでありえるって。俺、隠された才能ある気がしてんだよな~」

 理人は、ようやく手を止めた。そしてゆっくりと顔を上げる。

「“ある気がする”なら、確認する手段を探せばいい」

「……え?」

「確認もしないで、欲しいと思ってるなら、それはただの願望だろ」

 言い終えると、再びノートに視線を戻した。会話を終わらせる、というより、そこにもう言葉が必要ないと判断したような雰囲気だった。


***


「……また今日も一人でやってるね」

 窓際の席で、篠崎澪しのさきみおがそっと言った。

「うん、ずっと毎朝あれ。ほんとに毎日だよ。私だったら三日で終わってる」

 隣の木野明日香きのあすかがサンドイッチをかじりながら笑う。

「でも、ああいう人って報われてほしいなって思う。なんか、ちゃんと“やってる人”じゃん」

「うん、でもたまに怖くも見える。感情が読めないっていうか……」

「感情がないんじゃなくて、たぶん、隠すのが上手いんじゃない?」

 澪はそう言って、ノートを開いたままの理人を見つめた。

「本当は、不安とかもあると思う。できないこととか、いっぱい感じてるはず。でもそれを、正面から見てる人って……珍しいよね」

「うーん。あたしはああいうの苦手だけど……ちょっとだけ、羨ましいかも」


***


 放課後、廊下に出た理人に声をかけてきたのは、理科担当の渡辺だった。四十代半ばの男性教師で、理人のことをよく観察している数少ない大人の一人だった。

「真城。ちょっといいか」

「はい」

「今日も集中してたな。毎日継続してるのは素直にすごいと思う。なにか、将来の目標でもあるのか?」

「目標はありません。でも、“昨日できなかったこと”が今日できたなら、それで十分です」

「……そうか。真面目だな。夢とかは?」

「ありますけど、“持ってるだけで叶うもの”じゃないので、口にする必要はないと思ってます」

「……なるほど。言葉にしない夢、か」

 渡辺は苦笑してから、もう一度尋ねた。

「努力ってさ、報われなかったらどうする?」

 理人は少しだけ間を置いてから、きっぱりと答えた。

「報われなくても、無駄だったとは思いません。できるようにならなかったことも、“できるようになりたかった時間”として、ちゃんと意味があると思ってます」

「それでも続けられるのか?」

「はい。結果が保証されないことばかりですけど、それでも“やっておいてよかった”と思える瞬間が、時々あるので」

 渡辺は一瞬だけ言葉を失い、そして目を細めた。

「……強いな、お前は」

「強くなりたいだけです。今のままだと、足りないので」

 その言葉は、自分に言い聞かせているようでもあった。

 理人は軽く頭を下げて、職員室の前を通り過ぎていった。


***


 放課後の教室。誰もいない窓際で、理人は静かにノートを閉じた。今日の復習は一段落。気づけば空は茜色に染まり、机の影が長く伸びていた。

 遠くで部活の掛け声が聞こえる。笑い声、スニーカーの音、校舎に反響する喧噪。それらを背に、理人はゆっくりと立ち上がった。

 帰り道、商店街を抜けて住宅街へ向かう。何気ない日常の風景。買い物帰りの母親、並んで歩く学生、スマホを見ながら歩く会社員――変わらない世界。

 ふと、思い出す光景があった。


 中学生の頃、兄がふいに部屋の電気をつけたまま布団をかぶっていた日。あの日から、兄は少しずつ何かをやめていった。

 部活、勉強、外出、そして人との会話。まるで誰かに電源を切られたように、何もかもが止まっていった。

 両親は動揺しながらも、兄を最優先に扱った。「お兄ちゃんのことで手一杯だから」と何度も言われた。

 理人は何も言わなかった。ただ、兄の背中を見ていた。

 努力しても報われない現実。期待され続けた重圧。誰よりも頑張っていた人間が、壊れていく音。

 理人は怖くなった。

 結果に裏切られたとき、自分に何も残らないのだとしたら――それがどれほど恐ろしいことか。

 だから彼は決めたのだ。

 “他人の期待”ではなく、“自分の意志”で努力を積み重ねようと。

 報われなくてもいい。

 でも、続けていた日々を「なかったこと」にするのだけは、許せなかった。

 誰かに必要とされなくても、自分だけは自分を信じていたかった。

 そんな思いが、今の彼を作っていた。

 家に着くと、リビングは静かだった。両親はまだ帰っていない。兄の部屋も電気はついていない。

 理人は食卓に夕食を用意し、テレビをつけずに食事を始めた。ニュースの内容は頭に入ってこない。けれど、いつも通りの日常は、そこにあった。

 軽い筋トレを終え、入浴を済ませ、翌日の勉強計画を立てる。

 英語長文、数学応用、古文単語の暗記。ペース配分も確認し、スマホのアラームをセットする。

 日付が変わる前にベッドに入ると、天井を見つめながら思考を止めた。

 やり残したことは、ない。

 けれど、満足しているわけでもない。ただ、「今日も昨日の続きとして終えた」という感覚だけが、理人の中にあった。

 ふと、空気の密度が変わった気がした。

 窓の外から風が吹き込んでいるのでも、誰かがドアを開けたのでもない。

 ただ、五感では捉えきれない“何か”が、確かにそこにあった。

 皮膚が粟立ち、指先に微かな震えが走る。

 理人はゆっくりと目を閉じた。

 ――その違和感は、確かに“予兆”だった。

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