銀月の島と緋月の村――月蝕がもたらす異能バトルの幕開け
藍 游
序章
第1話 序章――禁忌の森
はるか昔に埋もれた村の上
土に眠る人びとの吐く息を
花もなく実も結ばぬその森に踏み入る者はだれもない
あまたの光を吸い込み
森は黒々と静まりかえって
その禁忌の森の奥深く
鳥は翼をなくし
獣は目を失い
魚はヒレをもがれる
迷い人は
代を超えて受け継がれた言い伝え
人はみな森を
重なる
いつものようにその日も、日の出とともに静かな一日が明け、日の入りとともに漆黒の闇に閉ざされるはずだった。しかし、事件が起きた。
深い山の奥にある都築家の古い屋敷を
屋敷に向かう古びた石段も、大きな
庭の隅ではじけるイガグリを指さし、稲子は言った。
「あの栗でつくった饅頭やけんの。うめえぞ。風子もはよ食べ」
長く手にした
あの森の奥深くにはのう、ずうっとずうっと昔から、銀色のシッポをもつ狼がおるという。満月の夜になるたび、ソイツは尾を振りながら、どこまでも闇を駆けてゆくんじゃ。
高い枝から見下ろすのは、山猫。ランランと光る
森の真ん中。ぽっこりと開けた場所では、夜ごと、女たちが踊り明かす。白い衣を翻(ひるがえ)して舞うさまは、ほんに見事じゃ。それはそれはきれいな娘たちでの。じゃが、月の光に浮かぶ影はみーんな同じ。狐じゃ。狐どもは、
旅人が森に足を踏み入れようもんなら大変じゃ。すぐさま水の霊が近寄ってきて、旅人を惑わす。気がつけば、滝壺のなか。そこには水神(すいじん)の龍がおわす。碧色にきらめく
じゃから、ええか。風子、ぜったいにあの森に行ってはならんぞ。
濃い緑から
だが、風子は泣かなかった。
曾祖母が紡ぎ出す物語は尽きない。蔵の棚に整理されて置かれている古い本に風子は魅せられた。端正な漢字ばかりの書も、くねくねとうねる
どの書を持っていっても、曾祖母はていねいに教えてくれた。風子の記憶のなかの母がしだいに色あせていき、その代わりに古い書にあふれる文字や画の知識が増えていった。蔵で過ごす時間はますます長くなった。
山にやってきたものの、村の子となじめないまま、いつもひとりぼっちで遊ぶ風子をひざに抱き上げ、稲子は小さな白い餅をわたした。なかにはたっぷりの小豆あん。長年、稲子に仕えるイチがせっせとこしらえた旧正月用の餅だ。
「また絵を描いとるんか」
風子が
「これはだれじゃ?」
「
「そうか、わしか。おお、似とる、似とる」
稲子は豪快に笑った。
「餅はうめえか?」
口いっぱいに餅をほおばったまま、風子は大きく頷いた。
「
稲子は遠い目をした。
「あやはゆうのは、だれ?」
「わしの
「ふうん、いまどこにおるん?」
「もうずっと、ずっと昔に、遠いところに行ってしもうた」
「あの森?」
風子の小さな指が、
「そうじゃ。あの森じゃ」
「あの森に入ったらいかんのやろ? なんで、森に行ったん?」
おかっぱ頭の曾孫を抱き寄せ、赤いほっぺを手のひらで包みながら、稲子は答えた。
「わしのせいじゃ。わしの代わりに、
風子は大ばあちゃんを見上げた。稲子は森を見ながらつぶやいた。
「姉さんよう。姉さんにもろたこのいのち。おかげで、ようけのことがでけた。じゃが、もうちょっとだけ待ってくれんかの。この子をみてやらにゃならんで」
稲子の視線の向かう先。森の奥で何かがキラリと光った。
桜が散り始めたその夜。屋敷は妙にあわただしかった。蔵にいた風子をイチが迎えに来て、離れの和室で早く寝るようにと促した。
「なんで大ばあちゃんの横やないん?」
風子の問いにイチは軽くうなづき、
手伝いの女に導かれて入った客用の布団は、ほんの少しかびくさい。風子はやがてまどろみはじめた。
夢から
大きな土間の台所で女たちは思い思いに仮眠をとっている。イチが一人、寝ずに番をしている。イチから渡された湯飲み一杯の
「ほんに
「りんこゆうたら、あたしのお母さん?」
「ああ。凛子嬢ちゃんのおっかさんは、嬢ちゃんを産んですぐに死んでしもうたけんの。凛子嬢ちゃんはわしが育てたも同然じゃ」
大ばあちゃんと同じように
「さあさあ。はよお休みなされ。あしたは、
離れに戻ろうとすると、どこからかかすかな鳴き声。
きゅうん、きゅううん。
黄色い小さなゴム靴のまま、風子は声のほうへ歩みを進めた。屋敷の
どれほど歩いただろう。桜の木の下の草むら。小さな段ボール箱が
大ばあちゃんがいつかしていたように、ゆっくり、ゆっくり背中をなでてやる。子犬を両腕で抱え込み、体温をうつす。やがて震えがとまり、子犬は風子の腕に小さな頭をもたげた。
くん。
……小さな吐息(といき)をはき、子犬は風子を見上げた。
子犬の片目はつぶれていた。右足にも大きな傷があった。子犬はじっと丸まり、風子の腕のなかで眠りはじめる。そのぬくもりが心地よい。子犬を抱いたまま風子は立ち上がり、屋敷に戻ろうとした。
夜が明け始めたのだろう。
ふと振り向くと、木々のはるか奥、墨色と薄朱色が交わるさきに
それは不思議な経験だった。
欠けゆく月はあざやかな緋色。その光を背に受け、そのひとはまっすぐこちらを見た。銀色の長い髪がふわりとゆれた。切れ長の瞳は月と同じ緋の色。まばたきもしない。
細い指をかけた枝から、はらりとひとひら桜が舞う。見渡すかぎり花の海。明け
たたずむひとの後ろで、黄金の虎が
拾ったばかりのやせた子犬が腕のなかでぴくりとふるえた。見上げるとだれもいない。西の空低く、
風子の記憶はいつもそこで途切れる。
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