お気に召すまま

 黄昏時の張見世は、夜とはまた違った艶を帯びていた。

 朱の格子を透かして見る女たちはどれも美しく艶やかで、愁いを帯びた表情さえも彼女らを引き立てる化粧スパイスでしかなかった。

 男は商品を選ぶかの如く女を眺め歩き、好みの女を見つけるや店へと吸い込まれていく。その様はまるで、灯りに惹かれる羽虫のよう。


 中でも立派な見世の最上階で、千鶴は悪趣味な着物を着たガマガエルのような男に酌をしていた。怯える素振りを見せながら、細い肩を震わせて懸命に奉仕する様子を見せれば、男は上機嫌に笑って酒を次々呷った。

 宿も見世も、繁盛しきり。美女も酒も、思いのまま。全ては金。金さえあればこの世の全てが手に入る。そうして男は生きて来た。

 そんな二人の前で、優美な舞を見せる桜。長い黒髪をさらりと靡かせ、甘い芳香を漂わせて舞う様は、いっそ幻想的ですらある。夜桜柄の着物は桜の美貌をこの上なく引き立てており、薄衣の羽織りで宙をふわりと擽れば綾錦の天女を幻視する。

 同じ妖である千鶴でさえ、彼の舞にはうっとり見惚れてしまうのだ。人間の男など容易く堕とせてしまえるだろう。

 それにしても、桜に衣通姫とは、何とも皮肉な名だろうか。その名で彼を呼んで、自分が狂ってしまっているのだから。


「ねえ、旦那様。旦那様のご寵愛は、わたくしのもので御座いましょう? ずぅっとわたくしだけのもので御座いましょう? お約束、致しましたものね……?」


 男は頷く。

 薄く笑いながら、光の宿っていない瞳で桜を見つめて。千鶴が酌をした盃から酒が零れ落ち、男の股間をぐっしょりと濡らしている。だというのに全く気にした様子もなく、不気味な薄ら笑いを顔面に張り付けて桜を見つめ続けている。


「愛しい衣通姫よ。お主のほしいものは何でもやろう。さあ、なにがほしい?」

「わたくしは、この見世が欲しゅう御座います」


 何処から持ち出してきたやら、桜は見世の権利書を男の前でひらひらと見せつけ、嫣然と微笑んだ。白粉の香りが酒気をやんわり押しのけ、男の鼻腔を擽る。


「良い、良い。他ならぬ衣通姫の頼みだ。くれてやろう。全てくれてやろうな」

「まあうれしい。本当にわたくしを愛してくださっているのですね」

「勿論だとも。可愛い姫。お主の頼みを断る理由などあるはずもない。どんなものもくれてやろう。全て、全て、お主のものだ」


 男は権利書に一筆書き入れ、名義を書き換えた。

 千鶴は桜の幻惑を目の当たりにしてなにも出来ず、ただただ装飾品のように部屋で小さくなることしか出来ない。先んじて桜に会って箱の主が来ていると伝えることは出来たが、部屋に入ってからは出しゃばる場面すらない。


 支度部屋で桜に会ったとき、彼は紅を引いた唇に微笑を乗せて、千鶴に言った。


『わたくしね、ほしいものがあるの。それを手に入れるまでは戻る気はないわ』


 なにがほしいのかまでは聞けなかった。支度部屋には、見世の従業員もいたから。彼女らも見世側の人間かも知れないと思ったら、下手なことは言えなかった。彼が、主人が帰りを待っているという一言で理解してくれたのは幸いだった。従業員からは面倒臭そうな目で『アンタはもう見世のもんだよ』と言われたが、寧ろそう誤解してくれて助かった。


 桜は権利書を懐にしまうと、千鶴の肩を抱いている男の手の甲をつねった。


「わたくし以外の娘を可愛がるなんて、ひどいお人……」

「ああ、ああ、相済まぬ。これはもう要らぬ。下がって良いぞ。お主がいれば良い。お主だけがおれば良い。可愛い姫。美しい衣通姫。お主だけがおれば良いのだ」

「……はい」


 千鶴がちらと桜を見上げれば、ひらりと手を振って外へ行けと示した。

 心配ではあるが、残念ながら千鶴に出来ることはない。千鶴の能力は桜ほど手広く使えるものではない上、男が殆ど自我を失っている現状、いまからなにか約束させることも出来ない。

 静かに立ち上がり、部屋を出ようと襖に手をかけたとき。


「可愛い姫よ。他には、なにがほしい? 何でもやろうぞ。お主には何でもやろう。なにがほしい? 言うてみよ。さあ、さあ、なにがほしいのだ?」

「わたくし……旦那様のお命が欲しゅう御座います」


 背後から、とんでもない言葉が聞こえた。


「え……?」


 驚き振り返った千鶴の目の前で、男はもったりと頷いて小刀を手に取り、そのまま緩慢な動作で喉を掻き切った。躊躇いなど一切ない手つきで、真一文字に。


「か……可愛い、ひ、め……これ、で、良い……か……」


 天井に噴き上がる血と、緩やかな動作で倒れる男。仰向けに倒れ、僅かに痙攣して息絶えるその瞬間まで、男の顔には満面の笑みが張り付いていた。

 緋色に染められた艶な天井が、どす黒い赤に塗り替えられていくのを千鶴が呆然と眺めていると、いつの間にか桜が傍まで来ていた。


「鶴、目に毒よ」

「ひっ……! ぁ……」


 恐怖に染まった千鶴の目を見て、桜は困ったように微笑わらう。


「だから外に出ていなさいと言ったのに。いけない子」

「ご、めんなさ……っ、桜、どうして……」

「何故って、ほしいものがあると言ったでしょう?」


 桜は、千鶴の目の前に札を掲げて見せた。

 それは桜に幕の映成札で、恐らくはあの男が拾ったのだろう。持ち主を破滅させる札だと聞いてはいたが、これほど強い能力だったとは。しかも正式な主人ですらないあの男は、桜にとっては玩具も同然だったのだ。


「鶴は相変わらず繊細ね。人間なんて、当たり前に脆いものなのに」


 震える千鶴の肩を抱き、隣室に入ると布団の上に座らせた。本来は、客が酒と肴を堪能したのち、女を抱くためにある部屋だ。

 桜は、其処に用意されていた水と手拭いを使って自らの手を清め、ついでに千鶴の手や顔を拭ってやった。


「脂ぎった汚い手でベタベタと触られて不愉快だったの。あの汚い蝦蟇が生きている限り、わたくしは自由にはなれない。貴方の言う主人の下へ戻っても、脂に穢された記憶が心に残り続ける気がしたの。それに……」


 桜は、ついと視線を窓の外へとやった。

 いまにも降り出しそうな厚い雲が月を覆っており、夜空は重苦しい暗さで覆われている。


「見世の子には皆、帰る場所があるのよ。行き場がないなら、改めて雇えばいいわ。あんなドブ臭くて汚い豚野郎の相手なんかじゃなく、ね」


 そう言われては、最早なにも言うことは出来ない。千鶴自身、あの男にべたべたと体を触られて鳥肌が立つ思いだった。宿の主人として君臨し続ける限り、同じような目に遭う女性があとを絶たないだろうことは想像するまでもない。――――否、同じなどと、とんでもない。もっとひどい目に遭うことは明白だ。

 布団が一つに枕が二つの現在地が、それを物語っている。


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