参抄◆桜に幕の衣通姫
仮初めの家族旅
御簾を下ろしたかのように視界を塞ぐ大雨をぼんやりと眺めて、雨竜は溜息を一つ零した。朝からずっと降り通しで、止む気配がない。
欧人街には札の気配がないからと境町に戻ってきたはいいものの、宿を取ってすぐ雨が降り始め、すっかり足止めを喰らっていた。
白雪曰く、近くに気配自体はあるらしい。だがこの雨で傘もなしに飛び出しては、札探しどころではない。寧ろ自分たちが捜索される側になるのがオチである。
「旦那様……お気持ちはお察し致しますが、天が与えた休息と思いましょう。子供もいることですし」
「っ、お、おおう……そうだな」
千鶴に旦那様と呼ばれて一瞬面食らってしまい、雨竜は取り繕うように一つ咳払いして視線を室内へ戻した。どうにもむず痒い心地だが、慣れる他ない。
宿を取る前、境町に戻って
仕方なく、当座の拠点を作るべく宿を探していたところ、家族連れだと間違われて客引きにあい、家族風呂つきの部屋を薦められた。見れば随分と立派な宿で、雨竜はこんな大層な宿に泊まれるほどの稼ぎはないと言ったのだが、どうしたことか相手も頑として退かない。それどころか安宿同然の値段で構わないとまで言い出し、やがて周囲に人だかりまで出来始めたため、根負けして折れたのだった。
最初こそ断る理由として誤解だと言うつもりであったが、ならばどういう関係かと問われると答えづらい。雨竜は、自分の見目が輩であることを自覚している。それを千鶴と歌春が緩和してくれているところ、赤の他人などと言えば即座に人買い疑惑が浮上すること必至である。
そうして、千鶴たちには悪いと思いつつ、子連れ夫婦として宿を取ったのだった。
「僕は楽しいよ。ずっと
「そうでしたね。折角ですから、歌春、父様とお風呂へ入っていらっしゃいな」
「うんっ! 父様、ほら、早く早く!」
子供らしくはしゃいでみせる歌春に手を引かれるまま、雨竜は部屋風呂に入った。簡素な脱衣所で着物を脱ぎ、奥にある浴室に入れば、家族風呂と銘打つだけあって、広く立派な檜風呂が二人を出迎えた。良く手入れされた風呂は未だ檜の香りが漂い、白い湯気が雨に冷えた体を包む。
手桶で湯をかければ、思わず溜息が漏れた。
「僕、お風呂好きだなー。お布団も好きだけど」
「歌春はあったかい場所が好きなんだな」
「そうかも」
笑って答え、頭から湯をかぶると、歌春は子犬のように頭を振った。
浴槽に体を沈めれば、腹の底から息が漏れる。こんな贅沢は、賭博師として生きていた頃には体験どころか想像すらしたことがなかった。
ドヤ街の端にある雑魚寝宿で寝起きをして日銭を稼いで賭場に寄り、明け方に宿へ戻る。衛生、道徳、倫理などといった言葉は存在せず、全てが自己責任と自業自得の世界だった。
お陰様で色々と強くなりはしたが、一方で学がないまま大人になったことは、嫌というほど痛感している。旅を始めてひと月ばかりだが、己の無知無学が足を引っ張る羽目になったことが何度かあった。
白雪を天然だと言いつつ、人のことが言えないのは問題だろうとも思う。
「ねえ父様、しりとりしようよ」
「しりとり?」
ぼうっと考え事に耽っていた雨竜を、歌春が思案の淵から呼び戻した。
「俺ァ唐獅子牡丹しか知らねェぞ」
「あ、知ってるのあるんだ?」
あまりにあっけらかんと言われ、雨竜は恥ずかしいやら情けないやら「うっせ」と小さく抗議した。
「それでいいからやろ」
「わーったわーった。お前からな」
「はーい」
――――牡丹に唐獅子 竹に虎。
虎をふんまえ 和藤内。
内藤様は さがり藤。
富士見西行 うしろ向き。
むき身蛤 ばかはしら。
柱は二階と 縁の下。
下谷上野の 山かずら――――
弾むように、歌うように、二人一つのしりとり歌を朗々と。その姿はまるで本物の親子のようで。最後まで歌いきると、歌春はにんまり笑って「上手くいったね!」と満足げに言った。
その言葉の意味するところは、雨竜にも理解出来た。先ほどまでと風呂場を包んでいる空気が異なるのだ。語彙のない雨竜にとってこの感覚を言葉で言い表すには難儀するが、見えない壁で隔てられたような得も言われぬ違和感を覚える。
「さて、いまなら外に声が漏れないから相談し放題だよ」
「いまのはなんだ……?」
「結界だよ。一番簡単なやつだから、ちょっと心得があれば誰でも出来るよ」
「へぇ……」
感心していると、歌春が浴槽の縁に腰掛けて「ところで」と表情を引き締めた。
「この宿、明らか怪しいよね」
「……まァな。こんだけご立派な宿なら、俺みてェな見るからに金持ってなさそうな野郎なんかより余程上客を招けるはずだぜ」
「客引きの男、千鶴を熱心に見てたんだ。絶対なんかあるよ」
宿と女衒や人買いが繋がっているなどという話は、治安の悪い地域ならばよく聞く話だ。しかし此処は、観光市街にもほど近い関所の街だ。橋のすぐ向こうには領主の城も聳えており、怪しい真似をすれば即首が飛びかねない距離だ。
「こんなところで女衒なんかやるかね」
「そうだけど……でも、領主様が黙認していたら、わからないよね」
「まァ、それなんだよな。ちょっと裏に入りゃ大人の店がわんさとあったぜ」
「じゃあやっぱり、ああいうお店自体は公認なのかもね。だって下手に取り締まるとヤクザたちが野に放たれちゃうわけだし」
大路の裏には、所謂赤線地区がある。
多くは一見するとただの茶屋に見える店だが、なにも知らずに迷い込んだら最後、男は素寒貧になるまでむしり取られ、女はいつの間にやら店のものになっている。
昼間は通常の茶屋や
そういった後ろ暗い茶屋ならわかるが、大路の宿となると話は違ってくる。まず、なにも知らない家族が狙われかねないこと。これは、子連れである雨竜たちに平然と誘いをかけてきたことから、過去にも同じ事例があったとしても可笑しくはない。
「八十川のほうまで来たことねェからなァ……」
「観光市街が近いとはいえ、八十川自体は高級宿と娼館の街だもんねえ。確か、丁度裏の川が赤線なんだっけ」
「……おう」
思わず引き気味に答えた雨竜を見、歌春が可笑しそうに笑った。
歌春は妖で、恐らく雨竜よりもずっと長生きなのだろうとわかっていても、子供の口から娼館やら赤線やらという言葉が飛び出てくるのは何とも居心地が悪い。
「でもまあ、動きがあるとしたら今夜だと思うから、いい子で寝ていようね、父様」
「そうだな。こっちから出来ることはねェか」
歌春の手を引いて湯に浸からせ、十数えてから立ち上がる。
手拭いで髪を拭いてやると、先ほどまでの聡明な有様はどこへやら。きゃらきゃら子供らしい声を上げて笑うものだから、雨竜はどちらが本性かわからなくなった。
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