鶴の恩返し

 ――――雨竜たちが宿で寛いでいる頃。


 山小屋に取り残された『松に鶴』の女と猟師の男は山を下り、男の家に来ていた。山裾にある男の家は質素で、殆ど山小屋と変わりない作りをしている。

 男は女を座布団に座らせると、囲炉裏を挟んだ向かいに腰を下ろした。


「そういえば、名乗っていなかったな。おれは作兵衛という。あなたの名を伺ってもいいだろうか」

「私は……鶴とお呼びください。私たちは箱の主様以外に名乗れるような名を持っていないのです」

「ああ、そうだった。人ではないのだったな。あまりそうは見えないものだから失念していた。すまない」

「いえ……」


 作兵衛は、寂しげに俯いた鶴を見て首を傾げた。化物に見えない、つまり人のようだと褒めてやったつもりなのに、表情を暗くしたのはどういうわけだろうかと。だが鶴は憂いの表情をすぐに引っ込め、笑みを浮かべて作兵衛を見上げた。


「作兵衛様。三日という期限付きでは御座いますが、精一杯ご恩返し致します。何卒よしなにお願い致します」


 両手をついて深々と頭を下げた鶴に駆け寄り、作兵衛は「頭を上げてくれ」と細い肩に手をかけた。

 ややあってそろりと顔を上げたものの、鶴の眉は僅かに下がったまま。伏せた長い睫毛の奥に揺れる瞳から鶴の感情を読み取ることは、作兵衛には出来なかった。


「そう畏まらなくとも良い。だが、恩返しをしないと帰れないというなら家のことをしてもらえると助かる。」

「承知致しました。では、今日はもう遅いですから、お夕食の支度を致しましょう」

「ああ、頼む。食材は土間に、井戸は其処を出てすぐのところにある」


 土間にある竈や調理台などはあまり使い込まれておらず、かといって放置している風でもなかった。

 一人で仕事をし、帰って一から料理をする気になれない作兵衛は、休みの日にだけ簡単なものを作って食べる生活をしていたようだ。作るものも、野菜や山で仕留めた鳥獣の肉を焼くか煮るかして軽く塩を振った程度で、料理と呼ぶのも烏滸がましい、良く言えば食材の味をそのまま生かしたものばかりだった。

 そんな生活が当たり前であったため、食材はともかく調味料が殆ど揃っていない。いまから買いに行くことも出来ず、鶴は一先ずあるものを見繕って、汁物を作った。醤油があったのは幸いであった。炊けば食えるからか、米だけは充分にあったので、それを炊いて茶碗に盛り付けた。


「作兵衛様。お支度整いました」

「おお、早いな。しかも美味そうだ。あまり大した物はなかっただろうに、これほど手際よく作れるとは」

「ありがとう存じます」


 作兵衛が褒めれば、鶴は眉を下げて微笑した。

 うれしくないというわけではなさそうだが、しかし純粋な喜びだけではなさそうな表情だ。人の心の機微を察することがあまり得意でない作兵衛は、鶴の微笑の意味を測りかねていたが、かといってそのまま問えるほど無粋でもなく、ただただ頭の中で答えの出ない疑問をこね回すことしか出来なかった。

 しかしそれも、鶴が作った汁物を一口啜るまでのこと。


「これは……何と温かい。胸に染みる味だ」


 遠い郷愁に浸るかのように、作兵衛は目を細め、ほうっと息を吐いた。

 作兵衛の親は彼がまだ十になるかどうかの頃に他界しており、それから親戚の家で肩身の狭い思いをしながら育ったため、母の味というものの記憶が殆どない。養父は作兵衛を無償の労働力としか見なしておらず、昼夜問わず重労働を課せられていた。その見返りが残飯で常に空腹に見舞われていたために、作兵衛は野山に自生している食べられる草木や茸の見分け方を体で覚えた。

 食うに困らぬ技術を得たことはいまの助けになっているとはいえ、家族の温もりというものにぼんやりとした憧れを抱いていた作兵衛にとって、鶴の作る料理はまさに求めていた温度そのものであった。

 夢中で食べ進めていたら、いつの間にか丼に三杯も平らげていた。いつもは空腹を覚えなければそれで良いというだけの食事で、当たり前に味気ないものであったのが嘘のようだ。


「ご馳走様。本当に美味かった。明日も頼んで良いだろうか」

「はい、勿論で御座います」

「折角だ。必要なものがあれば、昼にでも町へ買いに行こう」


 明日の約束を取り付けて、作兵衛と鶴は床についた。

 だがこのとき、作兵衛はすっかり仕事を失念しており、翌日は当然のように仕事へ行かなければならず、鶴は一人で買い出しへ行くことになった。重たいものは自分が買うからといくらかの金を渡された鶴は、野菜と味噌を買って帰路についた。

 肉は作兵衛が仕留めた獣肉がある。昨日作った汁物に、獣肉の味噌炒めを添える。野生の獣は少々癖が強いが、買った味噌が良い具合に中和してくれた。


「鶴や、いま戻ったぞ」

「お帰りなさいませ」


 戸口で出迎えた鶴の眼前に、不意に野花が一輪差し出された。


「これは……?」

「土産だ。どういうものが良いのかわからなかったのでな、殺風景な土間が少しでも華やげばと思い摘んできた」

「まあ、ありがとう存じます。竹筒にでも活けて、窓辺に飾りましょう」

「ああ。そうしてやってくれ」


 鶴には花を贈る意味も意義もわからなかったが、作兵衛が満足げにしていたので、きっと良いことなのだろうと思うことにした。

 ただ彼の通り道に咲いていただけで摘み取られた花を憐れむことは、この場面では相応しくない行いなのだろうことも、何となく察することが出来た。

 人の文化も、料理や衣服や住居などの有り様も、知識としては知っている。人間がどういうときに喜ぶのか、なにを哀しむのか、なにに怒るのか、知識だけはあった。だが封印されていた期間があまりに長く、また、以前外に出ていたときも人と接する機会がそうあったわけではない鶴には、人間個人を見て喜怒哀楽を察するのはだいぶ難儀する行動であった。

 幸い作兵衛は素直な男で、してほしいことは口に出して言い、感情はそのまま顔に出る。お陰で大きな失敗をすることなく二日目を終えることが出来た。


 どうかこのまま、何事もなく。

 そう願わずにはいられなかった。



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