4.菜畑と向こう側

 菜畑の縁を進むとまた菜畑が現れる。中空になった茎の先が膨らんでできる花鈴はまだ柔らかく、実が茎の中に当たる音は低く篭っている。ぶつぶつと誰にも聞こえない愚痴をこぼし続けるような、遠いざわめきに似ている。


 雹の被害は少なそうだった。しかし、土と根が冷えてしまったので、花鈴の成熟は更に遅れるだろう。

 ロクは畦道の終わりまで来て、その先を遮る土手を登った。灰色の粘土質の急斜面はあちこちで不規則に抉れていたが、ロクは草の根や石を足掛かりにして身軽に登っていった。

 土手は畑の端を縁取るように細長く、真っ直ぐ続いている。中央には朽ちた板塀が立ち、その周りは藪で覆われている。塀の向こう側は別な地主の菜畑になるので、ここを越えて行く者はほとんどいない。


 天候による不作なら、向こうの地主の畑も条件は同じはずだ。サイが秋を見越して金を動かすのなら、向こう側も確かめておいた方が良い。

 藪を踏み分けて進もうとしたところで、急に背中から声を掛けられた。

「ここにいたの? ロク君」


 ロクは弾かれたように振り向いた。


 黒い肌と白い鬼紋を存分に晒した細身の男、エンが後ろに立っていた。


 気配をまったく感じなかったことにロクは驚いた。目の前にいる今でさえ、その気配は人のものよりも木や草の気配に似ていた。


「崔と一緒じゃなかったのか?」ロクは聞いた。

 迦苑はそれには答えず、「君はよく働くねえ」と言った。

 その顔には相変わらず、感情の見えない薄い笑みが浮かんでいた。


 ロクは無視して藪に踏み入ろうとしたが、「ねえ、ねえ」と再び迦苑が絡んでくるので、仕方なくまた振り向いた。


「何だ?」

「君はだよね? つまり、異人ではなく、元からこの谷に住んでいた……」

「わからない」とロクは言った。

「わからない?」迦苑は首を傾げた。

「赤ん坊の頃のことは覚えてない。その頃のことを知る人もいない」

「なるほど?」迦苑は小馬鹿にしたように反対側に首を傾げた。「ならどうして崔に引き取られたの?」

「さあ。崔に聞けばいい」

「君はどう思うの」迦苑は食い下がった。


 ロクは考えるふりをして黙った。本当は、考えるまでもなくいた。

 崔はあの石畳の路上で仕事にあぶれていた。ロクも、祭りが終わって食うに困っていた。たまたまそこで出会った。そして崔は六番目の魔法の代わりとしてロクを拾い、身に付けたのだ。


 すべては自明のことだ。だから、言うのも億劫だった。


「まあ、いいですよ」迦苑はロクの沈黙を勝手に解釈して頷いた。「君が崔に尽くしてしがみ付くのも無理はないと思う。誰だって飢えるのは嫌だからね。しかし今の崔には十分な地位と財産があって、君はその身内として安泰なご身分でしょ。まるで貧しい家の子供みたいに、大人の領分に足を突っ込んであくせく働く必要は無いんだよ。僕の言いたいこと、わかる?」


 ロクはもちろん理解していたが、黙っていた。答える必要がない質問だ。


「崔の仕事はかなり複雑でリスクも伴うものになっている。先を見越して投資をするってのはそもそもが抽象的な商売だけど、崔は更にもう一段階、抽象度を上げている――」迦苑は細長い腕を宙に挙げ、そこに架空の横線を引いて、その線の上側を示した。「投資そのものに投資し、その結果を売買している。崔のしていることをちゃんと理解している人はほとんどいない」

「俺は理解している」と、ロクは言い返した。

「そう。まあ、そうだろうけど。僕が言いたいのは、つまりね、これは実際の財産の流れを追うのが非常に厄介で複雑になるってこと。投資の結果が出る頃には、たいてい、その権利は以前とはまったく別の人に移動していて、しかも、その人は結果を見ることすらない。金を受け取るだけ。もしくは、それすら受け取らず、別な権利と交換する。なら、本当にその結果を受け取るべきは誰だ? 先だっての騒ぎで担保にとった水炎の指輪だって、結局は……」迦苑はふと口をつぐんだ。

「水炎の指輪ってなんだ?」

「……いや、なんでもない。忘れて」

 迦苑は急に笑みを消して遠くへ目を逸らし、来た道に広がる菜畑を見渡した。


「不思議な眺めだね。この菜畑ってのは」迦苑はどこか唐突に、遠い目をして言った。「かつて僕がいた所には、こんなふうに鈴のついた植物は無かった」

「かつていた所って、森だろう」ロクは言った。

「そうかな。そうだと良いけどね」迦苑はまた薄く笑みを浮かべて妙な言い方をした。「この菜畑って、収穫したら、それをどうするの?」

「鈴の中身は糸に。他は油を取って、残りは食べる」

「僕の知る菜畑と違うな」迦苑は独り言のように言った。

「お前の知る菜畑って何だ?」

「ふふ。なんでもない」

 迦苑は笑いながらふと顔を逸らして土手を降り始めた。細長い手足がしなやかに動き、足場が悪いにも関わらず、軽やかな足取りだ。まるで、足の裏が土に吸い付くかのように。


 迦苑の姿が見えなくなると、ロクはほっと息を吐き出した。


 話すたびに違和感の強まる男だ。どういう相手だって大抵は、初対面の違和感が最も強くて、関わりが長くなるほどそれが薄れていくものだが、迦苑だけは逆だった。

 それに、「かつていた所」と称して故郷の森の話ですらない、わけのわからない架空の国の話をされるのにもロクは辟易していた。この虚言は迦苑の趣味のひとつで、それ以上の意味はなさそうだったが、中にはすっかり信じ込んでいる者もいた。

 ちなみに崔は、この手の話には無反応だ。否定する気も起きないほど、完全に興味が無いのだろう。


 ロクは改めて藪に分け入り、板塀の緩んだところから向こう側へ出た。そちらの菜畑もやはり、様子はこちら側と同じだった。ただ、丘陵地の裾野の畑に少しだけ、見慣れない形の葉が見えた。去年までこの辺りでは見なかった種類の作物だ。

 不作を見越して一部の畑を転作しているのなら、こちらの地主は賢明と言える。崔にとっては新しい仕事の種になるだろう。それに、あの葉の形は初めて見たが、少し気になる点がある。

 崔に報告すべき収穫がまたひとつあったので、ロクは素早く板塀の隙間をくぐり、藪を掻き分けて土手の斜面を足早に滑り降りた。

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