ネフェル・シュマトは歌う

ケメト

第2話 ケメトの都アケトアテンで熱唱する

「ここはケメトの国だよ」

「この都はアケトアテンだよ」

　ケメトってなにさ。アケトアテンてどこさ。

　あたしはひたすら彷徨い歩いて、とうとう夕日を拝む時刻を迎えていた。公園のような開けた場所に辿り着いたあたしは、面長のオッサンの石像の足元で露天を広げていたオバサンと、通りすがりのオジサンに、ここはどこですかと訊ねた。――で、返ってきた答えが、これである。

　きっとここは、異世界に違いない。半日歩きまわって、あたしはそう確信した。

　目が覚めたら、熱い砂の上に寝ていた。

　夕焼け空は、真っ青な晴天に変わっていた。

　街は、アラビアンナイトの一幕のような古代風。

　肌寒かったはずの初秋の空気は、肌を突き刺すような熱を帯びていて、道行く人の殆が褐色肌。しかも、男は腰巻き一枚の半裸スタイル。女はシンプルな長めのワンピースがスタンダード。

　こんなの、異世界転移以外の何だというのだ。

「異世界、きっつ……」

　カッターシャツは汗と砂まみれ。ボザボサのポニーテールを直す気力すら無い状態で、あたしは、オバサンの露店前でどんよりと呟いた。

　なにせこの異世界ときたら、街中の水路を流れている水は混濁していて、飲もうものなら下痢は確定。果物や野菜を売っている八百屋らしき店の商品は、蠅がたかっていて買う気が失せた。郊外の田園地帯には、麦のような穀物や葉野菜が植わっている畑も見つけたけれど、泥棒するわけにもいかず、泣く泣く諦めた。

　よって、喉はカラカラ。お腹は空っぽ。もはや歩く事すら嫌だ。

　商売の邪魔だとは自覚しながらも、あたしはオバサンの露店前から動けなかった。路上ミュージシャンらしき女性三人が見た事もない楽器でエキゾチックなリズムを奏でていても、疲れすぎて興味すら湧かない。

「あんた旅ワニャワ行者かい？」

　オバサンが首を傾げて訊ねてきた。

　はい？

　テレビの二重音声を聞かされたような気がして頭を上げると、「旅行中、なのかい？」と今度ははっきりと聞き取れる。

「ケメトはブツブツ交換だよ。なんか交換できるものはあるかい？」

　オバサンはご親切にも、買い物の仕方を教えてくれた。あわよくば自分の商品を無知な旅行者に売りつけたいだけなのかもしれない、とも思ったが。

　あたしは、リュックを探った。元の世界からあたしについてきた、唯一の荷物。しかし、何を売ればいいのだろうか。リュックに入っているものといえば、スマホ、ラムネ菓子、小銭が入った財布、筆記用具、マスクにハンカチ、カーディガン。それくらいだ。

　迷っていると、オバサンがあたしの左中指を指差す。

「それくれたら、この布全部と、晩御飯を買ってきてあげるよ」

「え、これ？」

　あたしの左中指には、金の指輪が一つ、はまっている。階段から転落した時、とっさに掴んだ金色の塊だ。目覚めた時に、右手に握っていた。飾り部分はハンコのような形になっていて、そこには、幾つかの象形文字が彫られている。当たり前だが、解読は不可能だ。

　捨てるのも勿体ないので、一応、身につけていたのだが……。

　現地人が安全だと判断した食べ物にありつけるのならば、とあたしは指輪を左中指から引き抜いた。

　途端、耳に違和感を覚える。何となく音の響きが変わって聞こえるのだ。違和感の正体を探って周囲を見回していると、オバサンが右手を出してワニャワニャと喋り始めた。

「え、なに？」

　聞き返しても、オバサンはやはり、ワニャワニャと喋り続ける。それは、まるで聞き覚えのない外国語だった。英語でも、中国語でもない。周囲で会話する人達の声に耳をそばだてると、他の人達もオバサンと同じく耳慣れない外国語を話している。

　どうして指輪を外して、いきなり？　

　あたしは恐る恐る指輪を見ると、それをまた中指にはめた。

「ちょっと、売るの？　売らないの？　どっちだい」

　すると突然、オバサンが日本語を喋り始める。いや、よく聞くと、喋っているのは日本語ではなかった。しかし、脳がちゃんと日本語として理解していたのだ。

　何このレアアイテム！　翻訳器だったわけ？

　これだけは絶対に渡しては駄目だと確信したあたしは、指輪をはめた左手を守るように、胸の前で握り締める。

「自分で何とかします！」

　さよなら、と大慌てで露店の前からずらかった。

それからは無我夢中で走った。魔法のアイテムを手に入れた興奮と、今後が見えない焦りで、いてもたってもいられなかった。やがて息切れを覚えて立ち止まった時、あたしは大きな建物の前にいた。漆喰が塗られた外壁と平らな屋根は、他の建造物と同じだ。その建物が他と比べ一線を画していたのは、鮮やかさ。外壁の奥に見えるその建物の上部には、人や植物や象形文字などが美しく着色されたレリーフが、物差しを当てて描かれたように綺麗に横並びに描かれている。四角く開いた外壁の出入り口には、人々がひっきりなしに出入りしている。何かの公共施設のようだ。

　あたしは公共施設の出入り口を前に、道を挟んだ反対側の壁に背中を預けると、ずるずると座りこんだ。

　はっきり申し上げて、あたしは異世界転生によく登場する小説や漫画の主人公とは正反対の人間だ。現代の生活にはとても満足していたし、大手の某劇団に入るという将来の夢もあった。学生生活も人並みに満喫していた。アルバイトも、あの眼鏡野郎が来るまでは楽しかった。好きなだけ歌って、お腹が空けば適当に買って食べて、飲んで、何の心配もなく暮らしていた。

　なのに、全部潰えてしまった。あたしの大切なものが。歌だけ残して。

　こんちきしょーっ！

　あたしは、膝を抱えて丸まった。背中にのしかかって来た絶望感に、涙腺が崩壊寸前まで追い込まれる。

　ここで死んでしまうんだろうか。自分の死体が頭に浮かぶ。ご飯にありつけず、水も飲めず、汗臭い体で風呂にも入れず、変なレアアイテムを指にくっつけたまま、ごつごつした道の端っこで。

　日が沈みかけている。少し肌寒くなった気もする。夜になったらこの国はどうなるのだろう。砂漠地帯っぽいし、もしかして、極寒に変わるのだろうか。だとするとこのままでは、確実に凍死する。――死だ。死が目の前にある。

「どうせ死ぬなら……」

　どうせ死ぬなら、どうしたい？

　自問自答した。幸い、答えはすぐに浮かび上がって来た。

　あたしは、心が導き出した答えに従い立ち上がると、目の前を通り過ぎる通行人達をぐるりと一睨みした。

　そうだ。あたしにはもう、歌しか残されていない。

　――ほんならおもくそ歌ったるわい！　最後の客はお前らや！

　根性はある方だと自負している。リネンを纏う褐色肌の地元ピープルと夕焼け空に向かって、あたしは声を張り上げた。バイト先で歌うはずだった楽曲を、熱唱したのである。

　がなり声を使った歌唱法は得意だ。この曲が使われた映画を観てから、これを歌う為だけにボイストレーニングに通って散々練習したからである。

　パワフルで、セクシーで、ピンヒールのボンテージが似合う（あたしにはさっぱり似合わなかったが）素晴らしき挿入歌。

　それをまさか、こんなワケの分らん砂だらけの国で歌う羽目になるとはな！　ほんま最っ悪でゴザイマス！

　込み上げて来た怒りも相まって、あたしの歌声は一層迫力を増す。

　第一声で足を止めていた通行人達が、徐々にあたしの周りに集まりだした。あたしの手拍子に併せて、観客の手拍子も始まる。流し目を送り、腰をくねらせれば、若者二人がニヤニヤしながら顔を見合わせて喜んだ。お若い奴のこういった反応は、世界を変えても同じなようだ。足首まで届く長さの、細身のワンピースみたいな服を着た身なりの良い一人のイケメンが、公共施設の奥から現れた。しかめ面のそいつは、不愉快と言わんばかりにこちらを一瞥すると、力いっぱい内側から門を閉めやがった。けれど同じタイミングで、左右から楽器を鳴らしたお姉さん三人組が、路上ライブに加わってくれたので、あたしの気分は急上昇する。

　ケメト、さいっこうー！

　我ながらゲンキンなものである。最後に拳を高く突き上げると、拍手と歓声が沸き起こった。あたしの前に、沢山の金品がバラバラと投げ込まれる。これが『おひねり』というやつか、と初めての投げ銭に興奮した。

　飛び込み演奏してくれたお姉さん達が、あたしの周りを囲んで、観客達に手を振る。

「ありがとう！　ありがとう！」

「私達の新しい歌い手にもっと拍手を！」

「明日は正午から広場で演奏しまぁす！」

　え、明日もこれやんの？　ていうか、お姉さんたち、誰？

　あたしの両腕は、三人の美女にガッチリ抱えこまれていた。