エデン・レイヤー後継者 ―身体からの卒業―
はっしゅ
第1話 灰色の鏡〈イツキ〉
[AD.2052 秋 東京第3層都市]
無機質なLED照明の光が、手の中のスマートデバイス、その滑らかなガラス面に冷ややかに反射している。
そこに映る自分の姿から、僕は無意識に目を逸らす。
緩いウェーブのかかった黒髪に、平均的な身長、どこにでもいるような、ただの「青年」。
しかし、僕の内側で響く声は、その姿形を頑なに拒絶していた。
(違う、これは、僕じゃない――)
鏡、ガラス、ショーウィンドウ。
あらゆる反射面が、僕にとっては苦痛だった。
心の中で描く自分は、もっとしなやかで、柔らかな輪郭を持っているはずなのに。
現実は、硬質な肩のラインや、低い声を僕に押し付ける。
大型家電量販店のフロアスタッフ。
それが、今の僕の肩書らしい。
名前は、蒼井イツキ。二十四歳。
週に数回、フロアに響く自分の声を聞くたびに、胃のあたりが重くなるような感覚に襲われた。
「イツキ、ちょっとこっち手伝ってくれる?」
不意に呼ばれた名前に、僕は現実に引き戻される。
声の主は、幼馴染の高城ユキだった。
彼女も同じフロアで働いている。
快活な笑顔と、色素の薄い茶色の髪。
僕が時折見せる暗い表情の理由を、彼女は完全には理解せずとも、なんとなく察してくれている唯一の存在だ。
「ん、どうしたの?」
努めて普段通りの声を出す。
ユキちゃんの前では、少しだけ息がしやすい気がした。
「これ、新しいエデン・コネクトのデモ機なんだけど、設定が上手くいかなくて。
イツキの方が詳しいでしょ?」
ユキちゃんが指差したのは、流線形のフォルムを持つ最新型のヘッドセットだった。
LýNX(リンクス)社製「エデン・コネクト」。
僕の指先が、デバイスの滑らかな表面に触れる。
これがあの「エデン・レイヤー」への入り口――広告で見るたび、手の届かない夢だと自分に言い聞かせてきた世界の。
胸の奥が、一瞬だけ期待に高鳴るのを慌てて抑え込んだ。
その隣の大型ディスプレイには、『さあ、あなただけの楽園へ――仮想空間エデン・レイヤー』というキャッチコピーと共に、現実とは思えないほど美しい風景と、自由な姿で空を飛ぶアバターたちの映像が繰り返し流れていた。
理想の姿、無限の可能性。
広告は甘い言葉を囁くが、僕はそれを「どうせ、自分のような人間には縁のない、高価な遊びだ」と半ば諦めていた。
僕はその映像を、眩しいものを見るように目を細めて見つめた。
フルダイブ技術は、ここ数年で急速に普及し、一部の富裕層や感度の高い若者にとっては、すでに日常の一部となりつつあった。
しかし、今の僕の収入では、気軽に楽しめるものではない。
ましてや、肉体の軛(くびき)から完全に解き放たれるという「永住モード」など、夢のまた夢だ。
「……ああ、これね。多分、初期同期のプロトコルが……」
内心の小さな興奮を隠しながら、僕は慣れた手つきでデモ機を操作し始める。
指先が触れる硬質なプラスチックの感触が、また僕を現実に引き戻した。
ディスプレイの中のアバターたちは、性別も、種族も、物理法則さえも超えて、輝いているように見える。
それに比べて、自分は――。
僕は再び、ディスプレイのガラス面に映る自分の姿から目を逸らした。
灰色の現実が、そこにはっきりと映り込んでいた。
心の奥底で、ディスプレイの向こう側の世界への渇望が、小さな疼きのように、また少し強くなった気がした。
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