闇夜に駆ける
田中清治の涙が、瞼の裏に焼き付いて離れない。
あの、皺だらけの手で顔を覆い、子供のように嗚咽する姿。
先祖から受け継ぎ、命を削るように慈しんできた茶葉畑。
その土の匂い、風にそよぐ葉音。
そして、何より清治が淹れてくれた、深く温かいあの一杯のお茶の記憶。それら全てが、黒岩剛三という男の、インクの染みと虚偽の言葉によって踏みにじられようとしている。
「……田中じいちゃんの宝物を、あんな奴に渡してたまるか!」
拓真は、この地域のランドマークとも言える、そびえ立つビルを見上げた。
悪徳不動産会社の城は、その煌びやかな外見とは裏腹に、多くの人々の涙と溜息を吸い込んで肥え太っていた。
今の拓真は、着ていたジャケットを脱いでリュックにしまう。
その下に、現れるのは闇色によく馴染む、伸縮性に富んだ特殊な生地で作られた装束。
手には吸い付くような薄手の革手袋し、黒いバンダナを解くと、ほっかむりにし顔を隠す
もう《実り農園》を手伝う平凡な高校生ではない。
鋭い眼光だけが覆面の上から覗き、全身には研ぎ澄まされた気配が纏わりつく。
影に生き、悪を討つ、泥棒としての姿がそこにあった。
腰には、いくつかの特殊な工具を収めたポーチ。
ヒップホルスターには、
弾は非マーキング弾。
要は、訓練用のプラスチック弾。
主に武器の基本的な操作訓練、反動制御、照準練習などに用いられる。実弾よりはるかに安全で低威力だが、決して無害ではない。
盗みはすれど殺しはしないのが、拓真のモットー故、これの使用は最終手段だ。
さらに腰の片刃のスタンナイフを確認する。
刃物として使用することもできるが、スタン機能も付属していた。
グリップの9V電池と高性能コンデンサーで150万Vの高電圧を発生することができる。
背中には、軽量のデイリーリュックを背負い金槌等、侵入犯罪に使用する工具を入れている。
だが、最大の武器は、この農園で培ってきた彼自身の肉体と五感、土や木々と対話するように培われた自然を読む力だった。
「ロック・エステート本社ビル。黒岩剛三の牙城か」
拓真は呟き、夜空を見上げた。
月は雲に隠れ、街の灯りが鈍く空を照らしている。
絶好の「仕事」日和だった。
息を潜めて巨大な建造物を見上げた。
夜の闇に浮かび上がる姿は、まるで巨大な墓標のようだ。
正面玄関は当然厳重な警備が敷かれているだろう。
拓真の狙いは、そこではない。
彼はビルの周囲を、まるで獲物を探す獣のように静かに、鋭い観察眼で巡る。
壁面に取り付けられた装飾、配管、窓枠のわずかな凹凸、非常階段の位置、植え込みの配置。
昼間の農作業で、土の状態や作物の育ち具合から天候や水脈を読むように、拓真はビルの「地形」を読み解いていく。
そして、比較的死角になりやすく、かつ
ビルの裏手、隣接する古い雑居ビルとの狭い隙間。
そこには、外壁のメンテナンス用か、太い配管が縦に走っていた。
「ここだ」
拓真は短く息を吐き、精神を集中させる。
黒いバンダナでの覆面の下で、唇をきつく結ぶ。
田中清地の涙、不当に奪われたあの緑の茶葉畑の光景を思い浮かべる。
怒りと、揺るぎない決意が、彼の全身に力を漲らせた。
彼は助走もつけず、ふわりと壁に跳びついた。
指先が、壁のわずかな突起を確実に捉える。
足の裏が配管を蹴り、次のホールドへと体を押し上げる。
それは、重力など存在しないかのような、驚くほど軽やかで、流れるような動きだった。
農園の木々に登り、枝から枝へと飛び移る日常の動作が、ここでは垂直の壁を征するための技術へと昇華されていた。
まるで、壁に吸い付くヤモリのように、あるいは、大樹を駆け上がるリスのように。
音もなく、ただ闇色の影が、ビルの壁面を上へ、上へと移動していく。
時折、窓の向こうに、深夜残業らしい明かりが見える。
だが、彼らは拓真の存在に気づくことはない。
拓真自身が、夜の闇の一部と化しているからだ。
風がビル風となって吹き付ける。
バランスを崩されそうになるが、体幹でしっかりとこらえ、動きを止めない。農作業で鍛えられた、ぶれない重心と驚異的なバランス感覚が、彼を支えていた。
目的の階層が見えてきた。
社長室があるとされるフロアだ。
他の階よりも窓の数が少なく、明らかにセキュリティが厳重になっている気配がする。
拓真は、フロアの隅にある、比較的小さな窓に狙いを定めた。
おそらく給湯室か、倉庫の窓だろう。そこから内部に侵入する算段だ。
冷たいガラスに指先で触れ、窓枠の構造を探る。
内側に、見慣れた半月型の金具――クレセント錠が見えた。
単純な構造だが、油断はできない。
拓真は腰のポーチから、先端が細く、わずかに湾曲した金属製のピックと、しなやかで極薄の金属板を音もなく取り出した。
まず、金属板を窓枠とガラスのわずかな隙間に、まるで空気に溶け込ませるように、慎重に差し込んでいく。
ミリ単位の精度が要求される作業だ。
金属板がクレセント錠の受け金具に干渉しないよう、絶妙な角度を保つ。
拓真の額に、冷たい汗が一筋伝うのが分かった。
次に、ピックをガラスと窓枠のさらに狭い隙間から滑り込ませる。ターゲットはクレセント錠本体の、回転をロックしている内部機構。
指先に全神経を集中させ、ピックの先端で錠内部の感触を探る。
硬い金属の感触、バネのわずかな抵抗。
そして――目的の小さな突起。
(ここか…!)
心の中で呟き、息を詰める。
自分の呼吸音すら、この静寂の中では轟音に聞こえそうで、意識して浅く、静かに繰り返す。
ピックの先端に込める力を、羽毛に触れるかのように繊細に調整する。
強すぎれば壊してしまうか、余計な音を立ててしまう。
弱すぎれば、錠は動かない。
カチ……
微かな、金属同士が触れ合う音。
だが、まだだ。
ロックは解除されていない。ピックをわずかに引き、角度を変えて再び探る。焦りが胸を締め付けそうになるのを、深呼吸で抑え込む。
早くしなければ。いつ警備員が巡回に来るか分からない。
だが、焦りはミスを呼ぶ。
清地の涙を思い出せ。
冷静に、確実に。
指先が、錠内部のピンが動く、ごく僅かな振動を捉えた。
(これだ)
ピックをその位置で固定し、ゆっくりと淀みなく回転させた。
キィ……
金属が擦れる、耳障りな音。それでいて今は何よりも待ち望んだ音が、鼓膜を微かに震わせた。
クレセント錠のレバーが、外側からの力でゆっくりと回転していく。
カチリ
今度こそ、ロックが外れた、鈍く決定的な音だった。
拓真はピックと金属板を素早く引き抜き、音もなくポーチにしまう。
張り詰めていた神経が、ほんの少しだけ緩むのを感じたが、すぐに気を引き締める。
窓枠に手をかけ、体重をかけずに、そっと動かす。滑りが良く、ほとんど音は立てずに窓が開いた。
ひんやりとした、空調の効いた人工的な空気が、覆面越しの肌を撫でる。
開いた隙間から、まず周囲の気配を窺う。
音も、光の動きもない。
安全を確認し、拓真は音もなく窓を乗り越え、ビル内部へと身を滑り込ませた。
そこは、予想通り小さな給湯室だった。
コーヒーメーカーやポットのシルエットが浮かび上がる。
成功だ。
拓真は、音もなく床に降り立ち、背後で窓を静かに閉めた。外の喧騒は完全に遮断され、ビル内部の人工的な、どこか不気味な静寂だけが支配していた。
深呼吸を一つ。
これからが本当の戦いだ。
この静まり返ったビルの奥深く、黒岩剛三の社長室に、田中清地の希望が、あの茶葉畑の未来がかかっている。
拓真は、闇の中で五感を研ぎ澄ませ、気配を探る。
そして、獲物を狙う猫のようにしなやかな足取りで、社長室へと続くであろう冷たい廊下へと、その一歩を踏み出した。
拓真の、静かで熾烈な潜入劇が、今まさに佳境に入ろうとしていた。
(続く)
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