それ以上でも以下でもない
駿心
第1話 クールな秘書と無邪気な上司
彼は常務取締役で、私は秘書。
それ以上でも以下でもない。
「あ〜!! 美少女が突然、曲がり角から現れて『あの、これ、受け取ってください!!』って、ドキドキしながら手作りのチョコを渡してくれる展開起こらないかな!
常務の突拍子もない妄想に、私はいつものように冷静に答える。
「常務は基本的に車での移動がほとんどですので、その状況に遭遇するのは極めて稀かと存じます」
「……マジレスやん」
この大阪支社に異動してきて、早3年弱。
私が東京本社にいた頃から、ここの常務取締役の噂は耳にしていた。
本社と支社を合わせても100人に満たない規模の会社とはいえ、常務としては異例の若さである34歳。
しかも、雑誌から抜け出てきたような端正な顔立ちと、モデルのような均整の取れたスタイル。
何よりも、仕事においては右に出る者がいないほどの優秀な人物だという。
たまに本社に顔を出した際、遠目から彼の仕事ぶりを何度か見かけたことがあった。
そのスマートな立ち居振る舞いに、私は密かに尊敬の念を抱いていた。
“抱いていた”。
過去形であることに、今は苦笑いを禁じ得ない。
ーーーーー
辞令
入江 虹那 殿
……
尊敬する五十嵐取締役の下で働ける。
転勤の辞令を受け取った時、喜びと同時に、今まで感じたことのないほどの緊張に襲われたのを昨日のことのように覚えている。
そして現在……私の目の前には、デスクに突っ伏して盛大な駄々をこねている五十嵐常務の姿があった。
「は〜ぁ、せめて道行く女子高生のスカートが風でふわっと捲れる瞬間を目撃したい。パンチラ。ああ、パンチラ。それこそが、この激務を乗り越えるための活力源なのに。今、パンチラという名の栄養が絶対的に不足している!」
何を言ってるんだか。
一緒に働くようになって、私は五十嵐常務の本性を嫌というほど知ることになった。
本社では一応、多少の外面を作っていたらしく、そこで私が見ていた冷静でスマートな態度は、一体どこへやら。
しかし支社であるここは彼のテリトリー。
外面をやめた彼はセクハラぎりぎり、いや、完全にアウトな発言と、予測不能な自由奔放な行動が多すぎる。
そうして彼の秘書を務めるうちに、私が学んだことはただ一つ。
「では、本日のスケジュールをご報告いたします」
華麗にスルーすること。
「もうこの際、虹那のパンツでもいいわ。見せて」
「午前11時には、株式会社〇〇の△△様がお見えになります」
「見事なまでの無視っぷり。虹那は今日も鉄壁のクールビューティーやな〜」
ケラケラと楽しそうに笑いながらも、私の報告するスケジュールに、五十嵐常務はきちんと相槌を打つ。
でも、私が彼の無茶な発言を真剣に取り合わないことを理解した上で、わざと挑発しているのだと思う。
言っても大丈夫な相手を選び、私が不快に感じるギリギリのラインを絶妙に見極めている。
その計算高さが、若干、腹立たしい。
◇◇◇◇
午後6時を過ぎた頃、五十嵐常務から1万円札を一枚、突然差し出された。
「ちょっと、そこらへんで軽食買ってきて。いつものブラックコーヒーと…食べ物は虹那に任せる。虹那の分も何か好きなもの買ってきていいから」
「承知いたしました」
「あ、あと、戻ってくるのは40分後くらいにしてくれない?」
「……なぜ、そんな中途半端な時間指定なのでしょうか?」
「さっき、例の青い鳥のSNSを見てたらさ」
「……勤務時間中に堂々とスマートフォンを操作するのはお控えください」
「いやいや、お昼休憩も返上でずっと資料作ってたんやから、ちょっとくらい息抜きさせてよ」
「しかし……」
「まぁ、聞いて! 俺が最近ハマってる動画配信者さんの新しい動画がアップされてて。通知が来たんやけど、今回の動画が15分らしいねん。最低でも2回は堪能したい。やから、40分後! 俺に、至福の一人時間をくれ!」
「……常務は、もしかして精神年齢は小学生くらいなのでしょうか?」
「あっ! そういや、こないだ取引先から貰った高級プリン、まだ冷蔵庫にある? あれ、出して〜。それ食べながら動画見る〜」
机を軽く叩きながら、「ぷり〜ん! ぷり〜ん!」と陽気に駄々をこね始めた五十嵐常務に、私は深く溜め息をつき、別室の簡易冷蔵庫からプリンとお茶を用意して、彼のデスクにそっと置いた。
彼はもう、パソコンで動画の再生を始めていて、楽しそうな鼻歌を歌いながら画面に釘付けになっている。
本当に、こういうところが、会社の役員とは思えないほど子供っぽい。
本当に34歳なのだろうか? 時々、年齢詐称を疑ってしまう。
私は静かに役員室を出て、買い物をしに外を出た。
頼まれたコーヒーとバゲット、そして自分の分のサンドイッチを選び、レジを済まそうとしたところで、ふと手首の腕時計に目をやった。
あと30分弱……。店内のイートインスペースで、軽く私の食事を先に済ませてしまおう。
五十嵐常務のコーヒーが冷めないように、彼の分は戻る直前に買うことにした。
一面ガラス張りのカウンターテーブルに腰かけ、温かいコーヒーに口をつける前に、小さく伸びをした。
外はしんしんと雪が降り積もっている。
道理で、今日は一段と寒いわけだ。
定時はとうに過ぎており、今日も残業は避けられないだろう。
2月は一年で最も忙しい時期だ。
この忙しさはまだしばらく続きそうだが、もう少しだけ、踏ん張ってみよう。
30分ほど経った頃、会社に戻った。
玄関のエントランスで、「あの!」と、可愛らしい声に呼び止められた。
見ると、同じフロアの女子社員二人組が、少し緊張した面持ちで立っている。
「入江さん、お疲れ様です!」
「お疲れ様です」
「あの、五十嵐常務はもう会社に戻られていますか?」
そわそわとした様子の二人の手には、可愛らしいラッピングが施された紙袋があった。
ああ、だから、さっき五十嵐常務は「女子高生から突然チョコもらえないかな」なんて発言をしていたのか。
その紙袋を見た瞬間、今日がバレンタインデーであることを思い出した。
この支社の人間は、五十嵐常務のあの子供っぽい本性を大体知っているけれど、それを差し引いても、彼の抜群のビジュアルと仕事における圧倒的な能力は、十分に魅力的らしい。
むしろ、そのギャップが無邪気で可愛いという評価に繋がっているようだ。
0.5秒の間に思考を巡らせ、私は口を開いた。
「常務はただ今、休憩中でございます。しばらくしましたら、戻られるかと」
嘘ではない。休憩中であるし、しばらくしたら『業務に』戻ってくる。
社内にいるかどうかの直接的な質問を避け、まるで休憩のために外出しているかのような、曖昧な言い方を選んだ。
二人は「どうしましょう」と顔を見合わせ、小声で何かを話し合った後、意を決したように私に言った。
「今日、バレンタインなので、こちら『総務課一同』からということで、常務にお渡し願えますでしょうか?」
「かしこまりました」
渡されたのは、少し大きめの、可愛らしい紙袋だった。彼女たちが手に持っていた、もう一つの小さめの紙袋は、私には渡されなかった。
そのことに深く言及するのは野暮だろうと思い、「確かに、お渡しいたします」とだけ伝えると、二人は深々と頭を下げてくれた。
「ありがとうございます!」
そう言って、二人はお礼を言って会社を後にした。
私は、手にした紙袋を見下ろしながら、静かに息を吐いた。
本当に総務課からの義理チョコなのか、それとも個人的な想いが込められたものなのか……なんて、私が詮索する理由も立場もない。
扉をノックして役員室に入ると、先ほどまで動画を見ていたはずの五十嵐常務は、すでにパソコンに向かい、真剣な表情で仕事を再開していた。
「ただいま戻りました」
私の声に、「ん」と短く返事が返ってきた。
ああ、今は完全に仕事モードに入っている。
普段の五十嵐常務は、信じられないほど子供のような言動を繰り返すけれど、仕事に関しては、本当に、驚くほど優秀なのだ。
常人離れした集中力を発揮し、信じられないスピードで、あっという間に仕事を片付けてしまう。
休憩していたはずなのに、その切り替えの早さは目を見張るばかりで、まるで常に仕事をしているかのような印象を受ける。
『動画が見たいから一人にして』というあの発言も、もしかしたら、私の休憩時間を確保するため、彼なりの『わざと』だったのかもしれない。
子供のフリをして、私よりもずっと大人びた配慮を見せる。
いや、本当に小学生レベルの精神年齢で、無自覚にそういう気遣いができてしまう天才、という説も捨てきれないけれど。
だから、私は……。
手の中の紙袋を見下ろした。
そう、私は、こんな彼だから、こんな彼の姿を、このチョコをくれた彼女たちに見せたくないと思ったんだ。
彼がおそらく動画を見たのは一度だけで、15分後にはもう業務に戻っているだろうと、本当は予想していた。
仕事をしているであろう彼の邪魔をしたくなかったという、秘書としての当然の思いも、もちろん嘘ではない。
けれど、このチョコレートに何も感じないと言えば、それは嘘になる。
………
まだ本社にいた頃の、蒸し暑い真夏の日のこと。
その日は五十嵐さんが、取引先との重要な打ち合わせのため、わざわざ大阪支社から本社までやってきたのだ。
『今日のお茶を用意したのは、君?』
応接室のグラスを片付けていると、先ほどまで来客対応をして、最後に見送りに行ったはずの五十嵐さんが、いつの間にか一人で戻ってきて、そう話しかけてきた。
『……はい?』
『今日のお茶。冷たい夏玉露で、ストローで用意したのは、君?』
『あ……はい、そうです』
『へぇ〜! うちで冷たいお茶なんて初めて見たな〜って思って』
『……最近、購入いたしました』
本当はこの暑い夏に、私が個人的に購入した茶葉だったけれど、説明するのが面倒だったので、そう答えた。
『それで、ストローを用意したってことは、相手の社長の手が後遺症で少し不自由だってことを知ってたんだ。すごいね、誰かから聞いてたの?』
彼は心底驚いた様子でそう聞いてきたけれど、逆に私が驚いてしまった。
『いいえ、存じませんでした。ご一緒されていた秘書の方のルージュが気になったので、たまたまストローをお出ししたまでです』
私の返答に、五十嵐さんは一瞬、間抜けな顔をした後、「あ……そっち!?」と、大きな声で笑い出した。
本社でも噂のスーパーマンだと聞いていたから、もっと冷徹でストイックな人物像を想像していたのに、屈託なく笑う彼の姿に、私はひどく戸惑ったこと。
『たまたまとはいえ、そもそもの行動が、相手への気遣いからくるものであることに変わりはないよ。うん、すごいよ! 君は本当にすごい!』
そして、彼はキラキラとした笑顔で、私の目をまっすぐ見つめて言った。
『ねぇ、君。秘書検定、受けてみる気はない? 俺の元に来てよ』
私を褒め、認め、誘ってくれた、あの時の胸の高鳴りを、私はまだ忘れることができない。
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