人類が滅んだ世界で、生物兵器の子を拾った
名々井コウ
第1話その子は、敵の子だった。
春の訪れを思わせる風が、ニールの建物の隙間を抜けてゆく。鉄骨の匂いと湿ったアスファルトの香りに包まれながら、少年キースは錆びたビルの階段を一段ずつ踏みしめていた。背負った布袋の中では、配給でもらった乾燥パンが硬い音を立てて揺れている。
「なあ、今日の配給、やけに少なかったと思わない?」
階下から声をかけてきたのは、同じ班のミーナだった。キースより一歳年上の少女で、ショートカットの髪をバンダナで抑えている。目は大きく、少しだけ不安げだった。
「……気のせいだよ。いつもと同じだと思う」
そう答えながらも、キースの胸の奥には別のざらつきが残っていた。配給所の兵士たちの目つきが、いつもより鋭かった気がしたから。施設の外壁に張られた警告灯が一瞬だけ点滅していたのも、きっと気のせいではないだろう。
彼らの住むニール区域は、人類最後の“安定区画”だった。外には、AIの生み出した生物兵器ブリーダントが跋扈し、空気すらも汚れている。だからこそ、ここは守られている。守られている……はずだった。
ビルの屋上に出ると、沈みかけた太陽が鈍色の雲間に沈んでいた。遠くに見える通信塔。その先には、AIの拠点がある。
「あれって……ホントに、敵なのかな」
誰に聞かせるでもなくつぶやいたキースの声は、風に攫われて消えた。
――その瞬間、空気が変わる。鈍く低い振動。地面を這うような衝撃。
ミーナが振り向きざま、叫んだ。
「キース、逃げて!!」
その言葉と同時に、屋上の床を黒い何かが貫いた。鋭利な触手のような突起。コンクリートが砕け、灰塵が舞う。キースは反射的に飛び退いたが、ミーナは間に合わなかった。
「……ミーナ! どこ!?」
返事はない。
黒い“それ”が音もなく立ち上がった。四足歩行、蜘蛛のような関節、だが胴体は脈打っている。皮膚のように光を吸う表面から、煙のような粒子が漏れ出していた。
ブリーダント。
その背中から伸びた枝のような器官が、意識のないミーナの体を絡め取っていた。腕や脚が無理やりに広げられ、制服の布地が裂け、肌が晒される。数本の器官が、蠢く先端で体内に侵入し、抽き出すように脈動しながら動いているのがはっきりと見えた。ミーナの体は痙攣し、だが意識は戻らない。粘液と体液が混じり合い、床に音を立てて滴っている。キースは目を逸らそうとしたが、目蓋が凍りついたように閉じなかった。
「ミーナ……ッ!!」
喉が焼けるような恐怖。体が勝手に逃げようとする。だが足がもつれ、キースはその場に倒れ込む。
すると、次の瞬間だった。ブリーダントが彼の存在に気づいた。
視線のようなものが合った気がした。だがそれは、理解や意志ではなく、本能の冷たさだった。
刃のような脚が跳ね、キースの胸を真っ直ぐに貫いた。鈍い音。息が詰まり、肺が破れる感覚。視界がぶれ、血の味が喉奥から込み上げる。
(……痛い、けど……あったかい……)
最後に見たのは、ミーナの動かぬ手と、ビルの隙間で風に揺れるバンダナ。血に濡れて、ゆっくりと、ゆらゆらと。
灰色の空が、どこまでも遠ざかっていった。
* * * * *
遠くでサイレンが鳴っていた。だが、それはただの警報音ではない。ニール内でも数カ月ぶりの「緊急種別第一級」。ブリーダントが区域境界を越え、民間区域へ侵入したことを意味する。
「……出動だ。状況は?」
無線の周波数がかすれ、駆除班長の怒声が混じる。
ミスミ・ハルトは防弾スーツのファスナーを最後まで引き上げると、背中に電磁ライフルを装着し、短く答えた。
「民間ビル群屋上で複数目撃。第3班が先行、応答なし」
「また応答なし、か……」
ジョウが舌打ちした。彼女の金髪は濃紺のバンダナで束ねられ、風に揺れている。
ミスミは隊列を振り返り、簡潔に命令を飛ばした。
「制圧は後だ。まず生存者の確認を優先しろ」
5名からなる第2班がビル群に接近する。煙が上がる屋上の縁、焦げた匂いと鉄臭さが風に乗って流れてきた。
「……子ども、か?」
屋上に転がっていたのは、少年の死体だった。
胸を貫かれた跡はまだ赤く、表情には恐怖と痛みが入り混じっている。
隣には、女児のバンダナ。だがその主の姿はどこにもなかった。
「ミーナ、という名前の子がここにいたらしい」
ジョウが情報端末を確認しながらつぶやく。
「いないなら、殺されたんじゃない。連れて行かれた」
ミスミの声が低く沈む。彼は少年の亡骸に一瞬、手を添えたあと、静かに立ち上がった。
「回収班を呼べ。ここは……“穢された”」
沈黙のなか、機械のように無感情な声が周囲に響く。
『警告。本区域にブリーダント個体群の残留反応。即時駆除推奨。』
「来るぞ……!」
音もなく、黒い影がビルの縁から姿を現した。節の多い関節、脈動する腹部、そして粘液に濡れた体表から、さきほどまで「使っていた」感触が生々しく漂ってくる。
「交配後か。殺しにきやがったな」
ミスミが引き金を引く。ライフルの電磁弾が音を置いていくように着弾し、ブリーダントの肩口を吹き飛ばす。だがその傷はすぐに蠢き、再生を始めていた。
「相変わらずの回復力……面倒な相手だな」
ジョウが続けざまに腕部のブレードを展開。地を蹴って接近、跳ねるように背面へ回り込む。だがブリーダントはそれすら予測していたかのように、触手を背中から弾丸のように射出する。
「ッ、ちょろいと思うなよ!」
その一撃を受け流し、逆に肋骨の下へナイフを突き刺す。それでも相手は止まらない。殺意の熱量では、もはや人間とは比べものにならない。
「……ミーナ、って子が捕まってるかもしれない。もし生きてるなら、まだ内部にいるはずだ」
ミスミが冷徹な声で言う。
「殺せ。全員、例外なく。もし“腹”に膨らみのある個体を見かけたら……即座に、頭を撃ち抜け」
沈黙が返ってくる。誰も、言葉を選べなかった。だがその命令には、過去の無数の“交配された者”を見たミスミ自身の怒りが込められていた。
空はすでに暗く、夜の帳が落ちていた。この灰色の都市で、今日もまた一滴、人の命が零れていく。
* * * * *
廃ビルの地下、腐った鉄骨と膨張したコンクリ片がうねる通路の奥。懐中灯の光が壁に当たるたび、ブリーダントの粘液が薄く光を反射した。
「生きたまま、引きずり込まれてる」
ジョウの声が低く響く。数分前、彼女がナイフで斬り裂いた個体の死体がまだそこにあった。切断面は再生しかけていたが、脳幹を潰されたことで動きは止まっている。
「外見が違う。こいつ……腹が膨らんでる」
ミスミが照らした先に、異様なブリーダントの姿があった。別の個体だ。巨大で、腹部の膨張と体表の変色、それに伴う鈍い振動が生々しく伝わってくる。足元には破れた服の切れ端が散らばっていた。
――白いシャツの胸ポケット。そこに、花と名前の刺しゅうが見える。読み慣れた字で「ミーナ」と書かれていた。
ミスミの呼吸が一瞬止まった。
「……やめろ。そんなの……まだ残ってたのか」
目の前の光景が、記憶の奥を引きずり出す。
* * *
爆音と黒煙の中、彼女はいた。
まだ生きていた。泣いていた。
「……ハルト、ごめんね」
ブリーダントの触手が身体を絡めとり、地面に引き倒される。制服が裂け、血と涙と泥にまみれた顔が、かすかに笑った。
「私……あなたの光になれたかな」
その言葉を最後に、ブリーダントは彼女の体を引きずって闇へと消えた。
足が動かなかった。銃が震えて、撃てなかった。
* * *
「てめえらが……何を壊したか、わかってんのかよ……!」
怒声とともにミスミの拳が、ミーナだった個体の頭部に叩き込まれる。かすかに身じろいだその肉塊は、まだ息があった。だが、砕けた頭部から脳液が噴き出し、崩れるように沈黙した。
ジョウはそれを止めようとしなかった。ただ、そっと見守る。
「もういないんだ。わかってる……わかってるけどよ……」
ミスミは肩で息をしながら、なおも拳を握っていた。
ジョウが静かに呟く。
「――だから、これ以上は守るんだろ」
ミスミの胸に、あの夜の声が蘇る。
『あの子が、誰の子でもいい。私たちで守ってあげて』
ヨーコの最後の声が、脳裏に澄みきって響いていた。
* * * * *
「遺体は三体。うち一体は“交配中”と判断。ミーナ=K個体で確定、死亡時刻は――」
「やめてくれ。番号で呼ぶな」
ミスミが低く言った。研究班の助手が肩をすくめ、端末から目を離す。その視線の先には、冷却スリープに固定されたブリーダントの死体。ミーナの制服の切れ端と一緒に、彼女の名札がビニール袋に入れられて横に置かれていた。
「……お悔やみを」
ロルフ=コルネリウスは言葉だけは優しかった。だが、その目はずっとスクリーンの向こう側にあった。
「腹部に未出産の個体反応が確認された。詳細は不明だが、構造的には――」
「出すなよ」
ミスミの声が食い気味にかぶさった。
「そいつの中にいたものを、出すな。燃やせ。全部だ」
ジョウは口を挟まなかった。ただ、立ったまま腕を組み、壁際に寄った。
「燃やせるなら、な」
ロルフがつぶやく。端末に目を戻す。
「胚体が通常の比率を逸脱している。通常なら交配から出産まで72~84時間のところ、この個体は96時間を超えてもなお胎内に保持していた。なぜだと思う?」
誰も答えなかった。
「母体が抵抗していたんだ。ミーナは、生きてるうちに“出さないように”踏ん張っていた。出したくなかったんだよ、あれを」
ロルフの手が止まった。
「……いや。ごめん。俺には、どうも“あれ”って呼ぶのも難しくなってきた。これを見てくれ」
スクリーンに映し出されたのは、透明な保護液に浸された幼体の画像。人間の胎児と極めて近い体型。脚、腕、脳の容積、それらすべてが「ヒト」に似すぎていた。
「……この顔、異様にヒトに近すぎる」
ロルフが小さく言った。
ジョウが息を呑む。誰の顔とも言わなかったが、何かを想像してしまったことが、沈黙となって広がった。
空調の送風音と、電子計測機のビープ音だけが研究室を満たしていた。
ロルフは少し目を伏せると、言葉を継いだ。
「ブリーダントの交配戦略には一貫性がある。雄の生物は排除し、雌だけを“交尾対象”として取り込む。その選別は、種を問わず行われる……人間も例外じゃない」
ミスミが舌打ちする。
「ふざけた“本能”だな」
「AI制御といっても、生殖に関する部分だけは遺伝的な“欲動”が優先されてる。ブリーダントの一部には、自律的に“種の繁栄”をプログラム以上に執着する個体がいる」
「だったら、ヨーコの子も……」
ミスミの声が、喉の奥で引き裂かれた。
「……まさか、そんな」
「ああ。ヨーコの死体は見つかってない。触手に巻かれて消えたまま、な」
ロルフは端末を閉じると、低く息を吐いた。
「……ただの可能性だ。今は、何も確証はない。ただ、もしこの“個体”が生きていたら――どう扱うか、その覚悟だけは、持っておいたほうがいい」
ジョウは答えなかった。ミスミも、答えなかった。
部屋には、言葉の代わりに、焼却炉の起動音だけが響いていた。
* * * * *
「……母体の死亡と同時に、心肺活動も止まっていた。解剖の結果、脳波の痕跡すら残っていなかったよ」
ロルフの言葉が、無機質な観察室に響いた。冷却保存庫の中、保護液に浸された胎児の亡骸が静かに浮かんでいる。全長三十センチ弱、未熟な手足、そして――あまりにも“ヒト”に近すぎる顔立ち。
「完全に死んでる……?」
ジョウが確認するように問う。
「死産だ。ミーナが絶命した瞬間に、こいつも連れていかれたらしい。ブリーダントの子にしては……不自然に静かだ」
「本来なら、生きたまま腹を破って出てくる」
ミスミが低く言った。
「それが奴らのやり方だろ。なのに、出てこなかった。死んで、動かなくなった」
ロルフはうなずいた。
「この“静けさ”が異常なんだ。死体なのに、反応を測る機器が一瞬だけ“波”を拾った。誤差かもしれないが……何かが“残って”いた可能性がある」
ジョウが保存庫のガラス越しに目をやる。
「顔が、人間すぎる……」
「ヒト型比率が異様に高い。骨格、神経網、内臓の配置も……人間とほぼ一致していた」
ミスミが背を向けた。
「知ったことか。燃やせ。死んでるなら、処理するだけだ」
ジョウは止めなかった。
ロルフも、それ以上は言わなかった。しかし、その目だけは、冷却保存庫の中の亡骸から離れなかった。――もし、これが生きていたら。それは、人だったのか。それとも、化け物だったのか。答えのない問いが、ただ静かに、部屋に残された。
* * * * *
ニール西縁、第3スキャン区域。
焼けた森と倒壊した橋梁の先、かろうじて地図に載る未踏領域へと足を踏み入れる。
「ルートB、進行。接敵警戒を継続」
ジョウが無線に声を送る。
ミスミは何も言わず、先頭を歩いていた。前日、ミーナの遺体を焼却炉へ運び込む場面を見届けた彼の足取りは重い。
「……ほんとに行くのか。何もねぇって報告もある場所だぞ」
後方からそう呟いたのは、臨時で随行した研究班の新人・コータ。
だがロルフが小さく首を振った。
「“ない”って言われた場所に限って、奴らは通る」
空は分厚い灰雲に覆われ、時折雷のような地鳴りが地面を揺らす。それは、ブリーダントの活動時間帯が近いことを意味していた。
瓦礫に埋もれた車両の影、ロルフが機材を片手に近づいた瞬間、微かな熱反応が検出される。
「……いる。生体反応ひとつ。ヒト型だ」
ジョウが銃を構えた。ミスミも同様に動く。ふたりの視線が合う。敵か、ただの残骸か――だが、そこにいたのは。
「……子ども?」
灰と泥にまみれた白い服。血の跡。だがその体は、しっかり呼吸していた。人間の子にしか見えなかった。否、“人間すぎた”。
「ブリーダントの……子?」
ロルフが息を呑んだ。
「おい……なんでこんなとこに……」
ミスミが足を止める。
その子どもは、ふらふらと立ち上がり、ミスミのほうに手を伸ばしてきた。無垢な目。灰色の虹彩。あどけない輪郭。そして、その表情の一瞬に――どこかヨーコを思わせる面影があった。
「……まさか……」
ジョウが膝をついて、そっと問いかける。
「君の名前、わかるか?」
子どもは首をかしげたまま、何も言わなかった。
ロルフが小声で呟く。
「こいつ……言葉を理解してる。視線が、ちゃんと追ってる」
そのとき、近くの瓦礫が大きく揺れた。
「囲まれた――!」
ミスミが叫ぶ。
再び戦闘が始まる。だが、彼の胸には奇妙な違和感があった。この子は、何者だ。なぜ、人に似すぎている。そして――なぜ、あんな目で、俺を見た。すべての問いが、戦場のなかで凍りついた。
瓦礫の山を挟んで、四方からうねるような唸り声が響く。
「くるぞ!」
ジョウが短く叫ぶと同時に、ミスミは子どもを背後にかばうように構えを取った。
鋼鉄のような甲殻、蛇のようにくねる四肢。突進してきたのは、ブリーダントの中でも突撃特化型とされる個体。
ミスミがサブマシンガンを正面に構えて連射。弾丸が甲殻を貫通しないまでも、動きを止めるには十分だった。
「ジョウ、左ッ!」
「わかってる!」
左方から飛び出した別個体に対し、ジョウが身を翻してナイフを投擲。正確に関節部を貫き、脚をもがれたブリーダントが地面に転がる。
「接近戦に持ち込むな!」
ミスミは背後の子どもを見やる。怯えている。だが、泣かない。その灰色の瞳が、戦いの行方を静かに見つめていた。
「なんで……あんな顔して見てんだよ」
怒りとも、悲しみとも違う感情が胸をざわつかせる。
そこへ、ロルフが後方から叫んだ。
「後衛支援入れる!下がれ!」
EMP弾を内蔵したグレネードが頭上を飛び、中央の突撃個体の直下で爆ぜた。閃光と振動が空気を裂き、ブリーダントの動きが一瞬止まる。
「今だ、ミスミ!」
ミスミは地を蹴って加速し、突進するように飛び込む。ブリーダントの横腹を滑るように回り込み、至近距離で拳銃を構えた。
「――喰らえッ!」
弾丸が片目に命中。甲殻が破砕し、体液が飛び散る。そのままナイフを抜いて喉元に突き立て、動かなくなるまで数発、銃を撃ち込む。
荒い息のまま地面に膝をつく。ブリーダントの影は散った。
瓦礫の隙間に、小さな白い姿が震えていた。
ジョウがそっと近づき、しゃがんで目線を合わせる。
「大丈夫だ。もう終わった。お前、名前はあるか?」
子どもは首を横に振った。
「……だよな」
ロルフがゆっくりと歩み寄る。
「君が、どこから来たのかも、なぜここにいるのかもわからない。だが、君の存在は……もう、ただの敵じゃない」
ミスミが黙って立ち上がり、ロルフを見た。
ロルフは懐から細いスティック状の端末を取り出す。そこに、手書きのような文字を打ち込んだ。
「“ルクス”。――ラテン語で“光”を意味する」
ロルフがその端末をそっと子どもの手に渡す。ルクスと呼ばれた生き物は小さな指でそれを握った。
ミスミは一歩、彼の方へ踏み出し――拳を強く握り締めて、口を閉じる。何も言えなかった。だがその手の震えが、彼の葛藤の深さを何よりも物語っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます