010.「帰寮、すれ違いと羞恥」


 


 寮に帰り着いたころには、ふたりともほとんど喋る気力も残っていなかった。


 


 制服のままソファに沈み込み、靴も脱がぬまま、ただ天井を見上げる。


 


 しばらくして、ショウがぼそりと呟いた。


 


「……まず、風呂だな」


 


 それにはトラフィムも、ただ小さく頷くだけだった。


 


 寮室に備え付けの小さなシャワー室へ。

 譲られたトラフィムが先にバスルームへ向かう。


 


 脱衣所で服を脱ぎ捨て、濡れた床に足を踏み入れる。 シャワーのハンドルをひねると、冷たい水が頭上から降り注いだ。


 


 氷水のような刺激に、トラフィムの身体がびくりと震える。


 だが、すぐに両手で頭を抱えるようにして、さらに深く水を浴びた。


 


 


 思考を止めたくて、湧き上がる感情を押し流したくて、無理やり冷たい水をかぶり続ける。

 胸を焼く憎しみも、背筋を這う恐怖も、全部、全部流してしまいたかった。

 


 だが。


 


 水の冷たさが、かえって鮮やかに思い出させる。

 あの夜の、金色の瞳。


 嗤う声。

 引き金にかけられなかった、自分の指先。


 


 何度も水を浴びても、指の震えは止まらなかった。


 


 


 (……あんなに、憎んでたのに)


 


 脳裏に焼き付いて離れない。

 自分の両親を殺した、あの男の笑顔。


 対峙した瞬間、全身を駆け抜けたのは――怒りじゃなかった。


 ……恐怖だった。


 


 凍りつくような恐怖。


 何もできずに立ち尽くした、自分自身への嫌悪。



 (……情けねえ)



 シャワーの音にかき消されるように、小さな声が漏れる。

 タイルの上に、滴る水音が弾ける。


 


 どれだけ冷たい水をかぶっても、心の奥に巣食ったそれは、溶けなかった。


 


 


「……臆病者」


 


 


 かすれた声で呟いた。


 けれど、その小さな呟きすら、タイルに跳ね返り、耳に痛く突き刺さった。



 頭を抱えたまま、トラフィムはじっと、降り注ぐ水を浴び続けた。


 


 


 ――まるで、自分自身を罰するかのように。


 


 




 


 


 シャワー室を出たトラフィムは、頭をタオルで拭うのもそこそこに、リビングへ戻った。



 その先で目に入ったのは――

 ソファに寝転がり、無防備に口を開けて眠るショウの姿だった。




 その寝顔に、思わず笑みが漏れる。

 あまりに無防備で、あまりに無垢で。

 心臓を射抜かれたみたいに、胸の奥が、じんわりと熱を持つ。


 濡れた指先を、そっと額に伸ばした。


 張り付いた前髪を、やさしく、払う。


 


 その瞬間。




 「……ん」






 小さく、甘い声が洩れた。

 ふるりと震える身体。


 トラフィムの指先がまだ水を滴らせるほど冷たかったせいだ。



 (……ごめん)


 


 そう思いながら、そっと手を引こうとした、そのとき。



 うっすらとショウの瞼が持ち上がった。


 眠たげな金の瞳が、ぼんやりとこちらを映す。



 「……ぁ。トラフィム……?」




 ショウは、何度か瞬きをして、ゆっくり身体を起こした。


 寝ぼけ眼のまま、隣に座るトラフィムを見やる。

 


 その視線が、ふいに止まった。


 

 タオル一枚を肩にかけただけのトラフィムの濡れた髪。

 滴る水滴。 濡れたままの腕。


 


 「な……」



 ショウがタオルを掴んだ。


 そのまま、ためらいなくトラフィムの髪を拭き始める。

 寝起きとは思えない、手馴れた動作だった。


 

 「……うわ、冷た……! おまえ、シャワー浴びたんじゃなかったのか?」


 


 髪を拭いながら、肩、腕へと移動した指先がぴたりと止まる。


 冷えた肌に、ショウの温もりがじわりと染みた。



 「……頭冷やしてたんだよ」



 ぽつりと漏れたトラフィムの言葉に、ショウは心底呆れた顔をした。



 「アホか、おまえ! 風邪ひくぞ……」



 そう言いながら、タオルでごしごしと髪を拭っていく。 その動きに身を任せるうち、トラフィムは、ふと気づいた。




 ――温かい。


 シャワーで冷えきった身体に、ショウの寝起きのぬくもりがじんわりと沁みる。


 言葉は乱暴でも、手つきはやさしい。




 (……あったかい)



 しだいに脱力して、トラフィムはそのままショウに身を預けた。

 されるがまま、髪を拭われ、腕を拭かれ。


 小言を聞き流しながら、心地よい温もりにまぶたが落ちそうになる。


 


 


 だが。


 


 ――急に、ショウが手を止めた。



 タオルを手にしたまま、ふいにトラフィムの手首を掴む。

 指先は寝起きのくせに容赦なくしっかりしていて、反射的にトラフィムの体が引き寄せられた。



 「な、なんだよ……!」



 ぐらつきかけた体を踏ん張りながら、トラフィムはうろたえた声を上げる。



 だが、ショウは顔色ひとつ変えない。


 自然な動作のまま、ぐい、と引き上げ――そのまま当然のように言った。



 「もう一回、シャワー入るぞ」


 「はあっ!?」



 思わず裏返った声が、乾いた室内に跳ねた。


 ショウは、まるで「靴ひもが解けたぞ」くらいのノリで言い切っただけだった。

 真剣な表情。


 けれど寝癖の残る髪と、寝ぼけた目のせいで、余計に現実感がなかった。



 (な、何言ってんだこいつ……!?)



 トラフィムはタオルを握り締めながら、顔を引きつらせる。

 どうにかして押し返そうと、焦りながら早口で返す。




 「い、いいよ! おまえが先に入れって!」



 半ば叫ぶように言ったが、ショウは特に気にする風もない。 逆に、何かいい案を思いついた子どものように、ぽん、と一言。



 「なら、一緒に入るか?」


 「――――ッ、は!?」



 間髪入れずに飛び出た悲鳴。

 顔に一気に血が上る。


 ショウは、本気で悪気がないらしい。 きょとんと首を傾げ、淡々と続ける。


 

 「別に狭くないし。俺が頭洗ってる間に、おまえ湯浴びてりゃいいだろ」



 さらっと告げるその言葉に、頭の中で、悪夢のような光景がぐるぐると駆け巡った。


 狭いシャワールーム。 逃げ場のない至近距離。

 湯気と裸と、むき出しの体温。

 


 (――あ、ありえねえだろ……ッ!!)


 


 思考が悲鳴を上げる。 けれど、目の前のショウは真面目な顔のままだった。



 「い、いいっ!! 一人で入る!! 後で! ちゃんと! あったかい湯入るから!!」




 必死に言葉を並べ立てる。

 それでも、ショウはどこ吹く風で、じっとこちらを見ている。


 その無邪気な視線に、じわじわと背中に汗がにじんだ。



 「……ま、無理やり引っ張りこむのも面白そうだけどな?」



 ショウが、にやりと口角を吊り上げた。


 その悪戯めいた笑みに、トラフィムはとうとう悲鳴すら飲み込んだ。


 顔が熱い。心臓がやかましい。

 頭がまともに回らない。



 「やめろバカッ!! ふざけんな!!」




 もはや言葉にならない呻き声で抵抗するが、すでに押し負けていた。


 ぐい、と軽く背中を押され――


 

 戸惑いながら、焦りながら。

 それでも、無意識に一歩、また一歩と後退し。


 結局――脱衣所の扉の前まで、追い詰められていた。



 戸惑い、焦り、混乱。

 それでも。


 背中が扉に触れたとき、ほんの少しだけ。

 胸の奥で、小さな灯火が灯るのを、トラフィムは確かに感じていた。



 (……ほんと、……救いようがねぇな、俺)




 俯いた顔を上げられないまま。

 脱衣所のドアを、そっと背中で押して開けた。







 中に入った瞬間、ひやりとした空気が肌を撫でた。 湿気を帯びた冷気に、思わず身をすくめる。



 ショウも続いて入ってきた。

 何の迷いもない足取りで、トラフィムの隣に立つ。


 そして、当たり前のようにタオルを放り、無造作に制服の前ボタンを外しはじめた。


 


 


 「……っ!」



 トラフィムは、思わず目を逸らす。

 慌ててタオルをぎゅっと握りしめ、うつむいたまま。

 硬直した身体がぎこちなく衣服を手繰り寄せる。



 横目で見なくてもわかる。

 隣で、ショウはすでにシャツを脱ぎ終え、乾いた肌をさらしている。



 鍛えられた体つき。無駄のない筋肉。

 普段制服に隠れていた輪郭が、視界の端に映り込む。。



 (……見るな、見るなって……!)




 脳裏に浮かび上がる映像を必死に打ち消しながら、トラフィムも手早く制服を脱ぎ、タオルを腰に巻いた。


 そのままそそくさと、シャワー室のドアを開ける。

 視界が一気に曇る。 ぬるい湿気が肌を包み、狭い空間に心臓の鼓動がいやでも響く。


 すぐ後ろから、ショウも入ってきた。


 彼はタオルを無造作にフックへかけると、壁際のシャワーを手に取った。 蛇口を捻るとざあざあと水飛沫が飛ぶ。

 しばらく手を当てて温度を確認してから、ショウが少しヘッドをこちらへと向けた。



 「……なあ、お湯このくらいでだいじょうぶかー?」


 

 気楽そうに声をかけてくる表情はいつも通りだが、曝け出された肌が眩しい。しばらく見惚れていたが再度「トラフィム?」と声をかけられ、トラフィムは慌てて頷いた。



 「っ、ああ、大丈夫」


 


 その言葉を確認すると、シャワーヘッドをフックに戻して、まだ乾いた髪をざっと濡らすと、泡を手に取り、頭を洗い始める。


 しゃばしゃばと流れる水音。

 首筋を伝う湯。泡立つ髪。



 (……まずい、まずい……)




 目を逸らすべきなのに、自然とそちらに意識が向いてしまう。


 ショウが頭を洗い始めたのを見て、トラフィムは慌てて自分もシャワーを自分に向け、頭から湯をかぶった。


 熱めの湯が皮膚を打ち、火照った顔を冷ますには程遠い。


 

 なのに、肌が、喉が、妙に乾く気がした。



 (……見てねぇ、見てねぇ、見てねぇ……!!)


 


 

 必死に念じる。

 滑り落ちる泡が、しなやかな肩から背を伝い、腰のくびれに沿って消えていく。 濡れた肌が光を鈍く弾き、淡い蒸気に包まれていく――。


 湯の向こうで泡に濡れるショウの肢体が、どうしても視界の端から消えない。


 

 そのとき――






 「……今日の、無理には聞かないからさ」



 不意に、泡立てた髪の隙間から、ショウの声が落ちてきた。


 

 「そんな緊張すんなよ」






 トラフィムは、ぎくりと肩を跳ねさせた。




 ちがう。


 ちがうから。




 声に出したかったが、できなかった。




 そんな勘違いの優しさが、ただひたすらに痛かった。



 「……悪い、シャワー貸してくれ」



 追い打ちのように、ショウが振り返りもせずに手を伸ばしてくる。


 

 「――っ!」



 反射的に、視線を向けてしまった。




 そこにあったのは、湯気に包まれた、しなやかに鍛えられた体。

 泡が滑る肩、背筋、腰――


 濡れた髪が張り付いたうなじから、筋肉の線をなぞるように、雫が流れていく。






 瞬間、全身の血が沸騰した。



 (やば……っ)




 理性を引き戻そうと、後ろ手に壁を探る。

 しかし勢い余って――




 ガンッ!






 鈍く重い音が、湿った空間に響いた。




 「うおっ!? 大丈夫か!?」



 慌てて振り向いたショウが、乱雑に顔の滴を拭いながら、慌ててトラフィムの方を振り向く。


 トラフィムは、壁にもたれてうずくまったまま、必死に顔を隠していた。

 顔どころか、耳まで真っ赤だった。


 熱と羞恥で、もうどうしようもなかった。

 壁にもたれたまま、トラフィムは必死に顔を隠していた。


 心配したショウが、さらに身を寄せ、肩に触れた。 その感触に身体を震わせた。 その小さな衝撃でバランスを崩したのか、タオルがずり落ちる。




 「おい、大丈夫か、って……」



 そして――目の前に晒された光景に、ぴたりと動きを止めた。



 視線が、そこで、凍りつく。




 「………………あ」



 ショウが、間抜けな声を漏らした。

 そして、すぐに悟った。



 ……トラフィムの中心が、明らかに主張していることを。




 トラフィムは顔を真っ赤にして、ぎゅっと膝を抱えた。

 まるで、世界から隠れようとするみたいに。




 (……やっべええええええええええ!!!!)






 脳内で警報が鳴り響く。

 恥ずかしさと絶望で、頭が真っ白だった。




 だが、そんなトラフィムに、ショウは――




 「……あー……

ま、そういうの、仕方ねえよな」



 気まずそうに頭をかきながら、すぐに苦笑した。

 ぽん、とトラフィムの頭にタオルを乗せる。



 「危険とか、疲労とか……そういうので、反応するって言うし。な?」


 


 


 その軽い言葉に、トラフィムは顔をさらに真っ赤にして、呻くようにうずくまった。



 それでも、ショウはあくまで気にしていないふうに、タオルで頭をぐしゃぐしゃに拭いてやろうとする。






 ――その瞬間。






 「うるせえええええええ!!!」






 叫ぶように、近くに転がっていた固形石鹸を手に取り――


 思いきり、ショウの胸に投げつけた。






 「ぐっ……!!?」



 見事に命中し、ショウはたたらを踏みながら、それでもふっと吹き出した。へらりと笑いながら謝罪を口にする。



 「悪かったって、悪かったって!!」




 トラフィムはそれ以上何も言えず、ただ耳まで真っ赤にして、再び壁に頭を打ち付けた。


 ごちん、ごちん、と小さな音を立てながら。


 


 


 ――羞恥で死にたくなる夜は、まだまだ終わらないようだ。

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