第11話
──テストを受けてから、一週間が経った。
あの時の傷は、思ったよりも早く癒えていた。
もしかすると、アイリス姉さんたちが、こっそり何かしてくれたのかもしれない。
いや、きっとそうだ。あの人たちなら、俺が眠っている間に何かしていても、おかしくない。
「レインス様、お時間です。……朝ですよ?」
扉の向こうから聞こえてきたのは、いつものロノアの声。
穏やかで優しい響き──けれど、どこか寂しさがにじんでいた。
「……起きてるよ」
扉が静かに開かれ、ロノアが軽く会釈をして部屋へと入ってくる。
カーテンを開けると、柔らかな朝日がゆっくりと差し込んだ。
その光が部屋の空気を少しだけ温かくしていく。
──今日は、パリスイリア召喚士学園への入学の日。
このレッドグレイヴ家を発ち、新しい場所へと歩き出す、大切な朝だ。
「おはよう、ロノア。……ありがとう。準備したら行くよ」
そう言った俺に、ロノアはふるふると首を振った。
「いえ、本日は……私に、お手伝いさせてください」
そう言って、ロノアは小さく微笑みながら、俺の上着にそっと手を伸ばす。
ボタンを留める指が少し震えているのに気づいた俺は、なにも言わずに任せた。
「……レインス様」
顔を上げたロノアの瞳は、どこか心細そうだった。
「学園へ行ってしまえば、レインス様は……多くの目に晒されます。“落ちこぼれ”という言葉を、きっと耳にする日もあると思います。それでも、行かれるのですか?」
「もちろん、行くよ」
俺は迷わず答えた。
拳を強く握りしめ、その決意を言葉に変える。
「レッドグレイヴ家のみんなに恩を返すためにも──俺が、“レッドグレイヴ”として最強の召喚士になる。……いや、なってみせる」
その言葉に、ロノアは少し驚いたような顔をしたあと、ふっと微笑んだ。
そして、俺の手をそっと包み込んできた。
「……わかっております。でも、それでも……ただ、心配なのです。レインス様にかけられる言葉を思うと、私は……」
俯いたロノアの顔が、ほんの少し陰る。
その表情に胸がちくりと痛んだ。
「大丈夫。俺には、信じてくれてる人がいるから。……ロノア、君も──その一人だろ?」
そう言って笑うと、ロノアははにかむようにうなずいた。
その姿に、ほんの少しだけ、勇気をもらった気がした。
着替えを終えた俺たちは、部屋を後にする。
今日が、これからのすべての始まりになる。そんな気がしていた。
部屋を出て階下の食堂へと向かうと、すでに何人かの気配が感じられた。
「やっと来たわね」
食堂の入り口に足を踏み入れると、椅子に座って頬杖をついていたミレイア姉さんが、こちらをちらりと見て言った。
「ふふっ、ミレイアが心配していたのよ? 学園に行くのが嫌になってしまったんじゃないかって」
テーブルの向かい側、リリア姉さんが紅茶をくるくると混ぜながら、くすくすと笑う。
「ミレイア姉さんは正直じゃないですから」
笑いながらそう言ったのはアイリスだった。可愛らしい笑顔を浮かべて、まるで見透かしているような目をしている。
「……うるさいわよ、二人とも」
ミレイア姉さんがそっぽを向いて口を尖らせた。その横顔にはうっすらと赤みが差していた。
「ふふ……」
その三人のやりとりを、ミラベルさんはいつものように静かに笑みを浮かべながら見守っている。
「おはよう、ミラベルさん、姉さん」
椅子に座りながら、俺は挨拶を返した。
「特に緊張してるってわけじゃないけど──一度は諦めたパリスイリア召喚士学園に行けるって思うと、やっぱりちょっと気持ちが高ぶるんだ」
「ふふ、レインス様。お席にお着きください。お食事の準備をいたします」
そう言ってロノアが一礼し、静かに厨房へと戻っていく。
どこか、いつもより歩き方が丁寧だったのが印象的だった。
彼女もまた、今日という日を特別に感じているのかもしれない。
テーブルの上には、焼きたてのパンと香ばしいスープ、湯気を立てる野菜のグリルが並べられていた。
──いつもより、ほんの少しだけ華やかな朝食。
けれど、それが何よりも嬉しかった。
そんな空気の中、ふいに背後から落ち着いた声が響く。
「おはよう、皆。……どうやら、少し遅れてしまったようだな」
そう言いながら、ガーランド男爵が食堂へと姿を現した。
背筋を正した佇まいなのに、不思議と威圧感はなく、まるで朝の空気に溶け込むような穏やかさを纏っている。
「あなた、遅いわよ。早くしないと、レインスが出発しちゃう時間になるわよ?」
ミラベルさんがやや強めの声で咎めるように言うも、口元には柔らかな笑みがあった。
「すまないすまない。つい報告に時間を取られてしまってな。……お昼頃だったか、馬車が来るのは」
「はい。ありがとうございます、馬車までご用意いただいて」
俺が頭を下げると、ガーランドは手を振りながら笑った。
「気にするな。……息子のためにしてやることだ。レインス、お前が気にすることじゃない」
その一言が、胸にぐっときた。
父親としての眼差し──それが、なぜかたまらなく嬉しかった。
照れくささに負けて俯きかけた俺を、アイリスの笑顔が救ってくれる。
リリア姉さんは、何も言わずにティーカップを持ち上げながら目を細めていたし、ミレイア姉さんはさっきからチラチラと視線を寄越してくるくせに、何も言わず紅茶を飲んでいる。
その空気が心地よかった。
俺は席につき、ロノアと──今日はクレイも一緒に食事を運んでくれていた。
焼きたてのパンとグリルされた肉、香草の効いたスープの香りが食堂に広がる。
家族で囲む、最後の朝食。
言葉にしなくても、あたたかいものがそこにあった。
食後、荷物を整えて屋敷の外に出ると、すでに馬車の準備が整っていた。
広場に停まる黒塗りの馬車のそばには、見覚えのある姿があった。
「坊ちゃん、今日からよろしくお願いしますよ」
手を上げて笑ったのは、レッドグレイヴ家の騎士──ロイドだった。
几帳面な性格だが、どこか抜けていて、けれど誰より頼れる男だ。
彼は手際よく俺の荷物を馬車に積み込みながら、ちらりとこちらを見て言う。
「さすがに緊張してますか?」
「まあ、少しは……でも、大丈夫です。期待には、ちゃんと応えますから」
「それでこそです」
そう言ってロイドが笑ったその時──
屋敷の扉が開き、レッドグレイヴ家の皆が揃って姿を現した。
「レインスくん、これを持って行ってください!」
先に駆け寄ってきたのはアイリスだった。
彼女が手にしていたのは、宝石のようなものが吊り下げられた小さなネックレス。
「ありがとう、アイリス姉さん。これは……?」
「ミレイア姉さんが探してきた石を、私が選んで、リリア姉さんが加工してくれたものです。レインス君を守ってくれますようにって、三人で願いを込めたんですよ」
アイリスは少し照れたように微笑んでいる。
後ろではリリア姉さんが無言でうなずき、ミレイア姉さんは照れ隠しのようにそっぽを向いた。
「……リリア姉さんも、ミレイア姉さんも……ありがとう」
そう言って俺が頭を下げると、二人とも何も言わずに、でも優しく笑っていた。
その時、ガーランドが静かに俺のそばへと歩み寄ってくる。
「これから向かうのは、召喚士を目指す者たちが集う地だ。君はきっと、多くの心ない言葉に晒されるだろう。……無理をしてはならない。どうしても辛くなったら、いつでも帰ってきなさい。私たちは──気にしない」
そう言いながら、ガーランドさんの手がそっと俺の肩に置かれた。
重責を負わせるような重さじゃない。ただ、俺の身を案じてくれている──そんな優しい手だった。
その思いが、まっすぐに伝わってきて、胸がぎゅっと締めつけられる。
「……いえ、俺が、そうしたいんです。強くなって、必ず帰ってきます。
だから……期待していてください、父さん」
少し恥ずかしいけれど、それでも伝えたかった言葉。
ガーランドは目を見開き、それから、感情を堪えきれないように目元をぬぐった。
「……レインス……」
「私には言ってくれないのかしら?」
ミラベルさんがからかうような声で言ってくる。
「……頑張ってきます、母さん」
そう告げると、ミラベルさんはとても優しい笑みを浮かべて頷いた。
「坊ちゃん、そろそろ向かう時間ですよ」
ロイドが馬車の扉を開けて促す。
それと同時に、ロノアが一歩前に出てくる。
「レインス様、お時間です。それでは……参りましょう」
彼女も今日から、俺とともに学園での生活を送るのだ。
気心知れたメイドであり、秘書のような存在であり──誰よりも、信頼できる家族だ。
「わかった。じゃあ──行ってきます!」
手を振った俺に、姉さんたちが口々に声を投げかけてくる。
「
「しっかりやらないと、次に会ったときは訓練の量を倍にするからね? 頑張りなさいよ?」
「全員で行くつもりよ。そのときは、王都を案内してもらえるかしら?」
姉さんたちの声が、最後にふわりと背中を押してくれた。
──
それは、パリスイリア召喚士学園で繰り広げられる、公式ランク戦の名称。
新入生である俺たちは、その第一歩として、学園のコロシアムで模擬戦を行うことになっている。
普段は学園に足を運ばない家族や関係者たちが、召喚士としての力を確かめるため、そして応援するために集まってくる舞台だ。
「……全員で来るって、領の仕事は大丈夫なんですか?」
「そこは、クレイがいるから心配するな」
父さんはいつものように朗らかに笑っていた。
──そうだ。見守ってくれる人たちがいる。
俺は少し顔を上げ、まっすぐに言葉を紡ぐ。
「……なら、みんなが誇れるような戦いを見せられるように、頑張ります」
そう決意し、俺は馬車へと足を踏み出した。
「行ってきます!!」
召喚士が集う学び舎──パリスイリア召喚士学園へ向かうその馬車の中、
俺は窓から身を乗り出し、見送りに来てくれた家族たちに大きく手を振った。
その姿が見えなくなるまで、何度も、何度も──手を振り続けた。
この一歩が、きっと“未来”へと続いている。
そう信じて──。
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