第7話

 レッドグレイヴ家での日々は、気づけば一年の時を刻んでいた。

 忙しさに追われながらも、穏やかな時間が、確かに積み重なっていく。

 そんな中で──私はふと思う。


 レインス様の笑顔が、少しだけ変わった気がする。


 最初は怯えたように、人に合わせ笑っていた。けれど今は違う。

 誰かのことを思いやり、誰かと一緒に未来を見つめる、そんな“あたたかい”笑顔だ。


 窓の外、中庭で剣を振るうレインス様の姿が目に映る。

 汗に濡れた前髪をかき上げながら、真剣な表情で一振り一振り、丁寧に剣を振るっている。

 そして時折、何かを思い出したように目を細め──ふっと、やわらかな笑みを浮かべるのだ。


 その笑顔を見るたび、胸の奥がじんわりと熱くなる。


 ……気づけば、私はあの日のことを思い出していた。

 彼と初めて出会った、あの瞬間を。


 絶望の中にいた私に、迷いもなく手を差し伸べてくれた少年。

 あのとき、まだ五歳だったレインス様が、私を救ってくれた。


 小さな手が、私を“人間”として扱ってくれた。

 それが、すべての始まりだった。


 あの頃の私は、すべてを失っていた。

 両親は魔獣の襲撃で命を落とし、孤児となった私は──ただ生きるために、さまよっていた。


 薄汚れた通りを、飢えた身体で歩く日々。

 どこかで残飯を探し、見つからなければ空を見上げるだけ。

 銀色に輝くこの髪の色のせいで、何度も奴隷商人に追われた。逃げて、逃げて、それでも力尽きた。

 あのときの私にとって、“倒れて死ぬ”ことすら、安らぎだったのかもしれない。


 ──だから、あの手は眩しすぎた。


「……だいじょうぶ?」


 かすかに耳に届いた、幼い声。

 意識の霞の向こうで、ゆっくりと瞼を開けると──そこにいたのは、見知らぬ男の子だった。

 きれいな衣服をまとい、けれどどこか無邪気で、真っ直ぐな瞳でこちらを見つめていた。


 まだ五歳ほどの小さな子ども。

 けれどその手は、確かに私に向けられていた。


「これ、あげる」


 少年の手から差し出されたのは、袋から取り出したばかりのパンだった。

 きっと、自分のために買ったものだろう。

 それなのに──迷うことなく、私に差し出してくれた。


 ……どうして。どうして、こんな子が。

 なぜ、私なんかに。


 震える手でパンを受け取り、噛り付こうとした。

 けれど、私の体力はもう限界を迎えていた。

 視界がふっと暗くなり、そのまま、意識が深い闇に沈んでいった。




 ──温かい。柔らかい布の感触。どこか、甘い香りもする。

 微かに揺れる光の明滅が、瞼の裏に差し込んでいた。


 ゆっくりと目を開ける。

 見知らぬ天井、知らない部屋。


 ──ここは、どこ?


 目を覚ました瞬間、まず感じたのは、布団の柔らかさと天井の豪奢な装飾だった。

 静かで、整えられた部屋の空気。こんな場所、自分には縁がないはずだった。


「ようやく目を覚まされたか」


 乾いた声に振り返ると、部屋の隅に、見たことのない男が立っていた。

 白髪混じりの髪に、無表情な横顔。整った執事服を着こなしてはいたが、どこか冷たさを感じさせる風貌だった。


「お前は倒れていたところを、レインス様に拾われた。屋敷に運ばれて、医師の手当てを受けた」


「……なんで、そんなこと……」


 問いかけのような声が自然と漏れる。

 けれど執事は、それに対して特別な感情も見せず、ただ事務的に続ける。


「さあな。お坊ちゃまのご気分だろう。お前の身柄については、こちらで当主に報告済みだ。あとは判断が下される。勝手な行動は控えるように」


 ──判断?


 それは、助けられたのではなく、ただ“保留”されているということだった。


「……奴隷にでもされるんでしょうか」


 思わず口をついて出た言葉に、執事は肩をすくめた。


「貴族の家だ。慈善事業を期待するな。寝ていろ」


 それだけを言い残し、彼は部屋を出ていった。


 ……助けてもらった、なんて思ってはいけない。


 それは、ただの“気まぐれ”。

 そして私は、また誰かの“都合”で生かされているだけ──


 胸の奥が、じくじくと痛んでいた。

 気づけば、どれほどの時間が経ったのだろう。


 ただ静かに、蝋燭の炎が揺れている。

 言葉も出ず、微かに寝具が軋む音だけが耳に残っていた。


 重たい沈黙が部屋を支配していた、そのとき。

 コン、コン──。


 静寂を破るように、扉を叩く控えめなノックの音が響いた。


「……起きてる?」


 扉越しに聞こえたのは、年端もいかない、けれどどこか真っ直ぐな声だった。


 ……レインス。たしか、私を拾ったという貴族の子供。


 返事をする間もなく、扉がゆっくりと開く。

 入ってきたのは、まだ幼さの残る、しかし不思議と落ち着いた雰囲気の少年だった。


「よかった。ちゃんと目、覚めたんだね!」


 満面の笑みを浮かべながら、ベッドに駆け寄ってくる。

 そのあまりに無防備な笑顔に、私は思わず言葉を投げつけてしまっていた。


「……私を、どうするつもりですか?」


 少年の笑顔が、ぴたりと止まる。

 けれど、私は続ける。


「貴族なんでしょう? 助けたとか言って、どうせ奴隷として売るつもりなんでしょう? 私の髪の色を見れば、値がつくって知ってるくせに」


 自分でも、吐き捨てるような声だったと思う。

 けれど、それが当たり前だった。

 信じることが、愚かだと教えられてきたから。


 だが──


「そんなこと、しないよ!」


 レインスは、きっぱりと答えた。

 怯えも、怒りもない。ただ、真剣そのものの眼差しだった。


「僕は……父上や兄上みたいに、人を守れる人になりたいんだ。だから──お姉ちゃんのことも、僕が守ってあげる!」


 幼いその声は、あまりに真っ直ぐすぎて──胸の奥が、チクリと痛んだ。


(……何を言ってるの、この子は)


 信じられなかった。

 でも、あの瞬間の彼の笑顔は、偽りのないものだった。


 どこまでも、まっすぐで。

 ──眩しすぎるほどに。


 それから数日、私はレインスと顔を合わせることはなかった。

 与えられた部屋に一人きりで、ただ休みながら、ぼんやりと天井を見上げていた。


 ──あの子は、何者なんだろう。


 あの時の笑顔が、頭から離れない。

 おとぎ話のような理想論を、疑いもせず語った小さな少年。

 信じられないはずなのに、なぜか心に引っかかっている。


「……あの」


 ある日の食事時、ふと顔を出した執事に声をかけた。


「レインス様は、昼間はどこにいらっしゃるんですか?」


「鍛錬場だ。本日は御当主様と鍛錬をされている」


 ──あんな小さな子が、鍛錬?


 思わず胸がざわついた。

 あの時、あの子が言っていた言葉が、ふと脳裏をよぎる。


「……私も、見に行ってもいいでしょうか?」


「構わん」


 素っ気ない返事。けれど、その背に続いて歩き出した私は──

 なぜだか、断られなくてホッとしている自分に気づいていた。


 私は執事の後をついて、屋敷の中庭を通り、屋敷の裏手にある鍛錬場へ向かった。


 そこにいたのは──

 小さな体で木剣を握りしめ、汗と砂にまみれながら、大人たちに混じって懸命に剣を振るうレインスの姿だった。


 その相手は、どこかで見覚えのある威圧感を持った壮年の男──たしか、ラズネルド公爵家の当主だったはず。


「立て」


 短く、冷たい声が響く。

 レインスは地面に転がったまま、肩で息をしながらも、


「はい!」


 と、叫ぶように答えた。

 その目には、あの日の笑顔と同じ光が宿っていた。


 そしてまた、何度も何度も打ち込んでは弾き飛ばされ──それでも、立ち上がっていく。


「……これで終わりだ」


「ありがとうございます!」


 やがてそう言い残し、当主は背を向けて去っていった。


 私は、言葉を失っていた。


「……なぜ、あんな小さな子が……」


 気がつけば、ぽつりと呟いていた。


「レインス様は、ラズネルド家の三男。この家に生まれた者は、守るため生き残るために強くならねばならん」


 隣に立つ執事が、どこか当然のように言い放つ。


「でも……だからといって、どうしてあんなにも……! もっと優しく声をかけることだって──」


 思わず、言葉を荒げてしまう。


「強くなること鍛えることが“義務”だからだ。それ以外に何か、必要か?」


 吐き捨てるようなその言葉に、私は何も言い返せなかった。


 ──あんなに幼いのに。

 こんなに理不尽な状況で、それでもなお、誰かを守ろうとしているの? 


 目の前の少年は、純粋だった。

 あの笑顔は、嘘でも戯れ言でもなかった。


 私は、いつしか拳を強く握りしめていた。


 あの鍛錬を見た夜、私は眠れなかった。


 静かな部屋に横たわっていても、まぶたの裏に浮かぶのは──何度も立ち上がる、あの小さな背中だった。


 まだ五歳にもかかわらず、立ち向かい続けるその姿は、あまりにまっすぐで、あまりに痛々しかった。


 あんな笑顔を浮かべて、「守ってあげる」なんて言っていたのに──

 誰よりも、あの子自身が守られていない。


 胸が締めつけられるような思いがした。


 ──私は、あの子に救われた。

 あの時、倒れていた私を拾い上げてくれたのは、レインス様だった。

 彼が手を差し伸べてくれなければ、私は──今ごろ、どこかの市場で……人として扱われてすらいなかったかもしれない。


「……私は……あの子を」


 自分でも驚くほど自然に、言葉が口をついて出た。


 あの子がどれだけ報われなくても、どれだけ孤独でも、私がそばにいれば──

 少なくとも、ひとりじゃないと思えるはずだ。


 翌朝、私は執事に頭を下げた。


「レインス様付きのメイドとして働かせてください。掃除でも洗濯でも、どんな仕事でも構いません。……あの方のそばに、いさせてください」


「なぜ?」


 端的に問われて、私はほんの少しだけ迷って──けれど、しっかりと答えた。


「……助けてくれたから。今度は私が、レインス様の力になりたいんです」


 その言葉を聞いた使用人頭は、しばらく黙って私を見ていたが、やがて一つ、短く頷いた。


「……勝手にしろ。ただし“メイド”を名乗るなら、半端な気持ちでは務まらんぞ」


「……はい!」


 私は深く頭を下げた。


 それからの日々、私はただひたすらに働いた。

 掃除、洗濯、炊事。細かな礼儀作法に魔力の制御訓練──学ばねばならないことは、山のようにあった。


 けれど、私は止まらなかった。


 そして──私は小さな精霊と契約することができた。

 力は控えめだけれど、癒しの力を持つ優しい子だった。


 この屋敷にいる以上、ただの奉仕者では意味がない。

 レインス様の傍に仕える者として、彼の力になれる存在でありたい。

 そう思った私は、“召喚士”としての資質すら、自分に求めるようになっていた。


 どれだけ時間がかかってもかまわない。

 あの日、私を救ってくれた人の隣に立てるようになるまで──私は、決して諦めない。


 ──あれから、もう十年近くが経つ。


 レッドグレイヴ家に仕えるようになって一年。

 ラズネルドの屋敷での日々とはまた違う、穏やかで、柔らかな時間がここにはあった。


 そして、あの方──レインス様の表情も、以前とは少しずつ変わっていった気がする。

 無理に笑っていたあの頃の“作った笑顔”ではなく、今はちゃんと、自分の感情で笑えている。

 それが、どれほど嬉しかったことか。


 ふと、目の前の扉を見つめる。

 ノックをする手が、自然と動いた。


 コン、コン。


 小さな音が、静かな廊下に響く。


「……ロノア?」


 中から返ってきた声に、胸の奥が温かくなる。


「失礼いたします。レインス様」


 静かに扉を開くと、そこには──

 十年前、私が目を覚ましたとき、見せてくれたあの笑顔があった。


「……どうかした?」


「いえ。ただ、紅茶をお持ちしたくなりまして」


 そう言って部屋に入ると、彼はいつものように「ありがとう」と笑ってくれる。


 ──この人は、変わらず優しいままだ。

 けれど、ほんの少しだけ、背中が大きくなった気がする。


 私は静かに、心の中でつぶやいた。


(私は、あなたと一緒にいます)


 あの日拾われたあの時から、今もずっと変わらない想い。

 たとえ誰に認められなくても、たとえ力が及ばなくても──

 私は、あなたを支え続けると決めたのだから。


 だからこれからも、私はあなたの傍にいます。


 どんな未来が待っていたとしても──きっと。

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