第25話 男の名は
光がなく、黒に覆われた視界の中。
平衡感覚を失うほどの浮遊感に包まれていたが、次の瞬間、全身に鋭い衝撃が走った。
「ぐはっ……」
身体を打ちつけたのは、硬く湿った地面。
目を開ければ、木々の隙間から青空が覗き、耳には鳥獣の鳴き声が微かに響いてくる。
鬱蒼と茂る木々に囲まれたその場所はまさしく、
「森……?」
呟いた声に重なるように、服の裾を小さな手が引いた。
「ごしゅじん、ここどこ?」
不安げに見上げてきたのは、共に来てしまったティナ。
「わからない。でもティナが無事で良かった」
ティナだけが連れ去られるという最悪の事態は避けられた。
問題は山積みだが、そこだけは喜ぶべきだろう。
そう安堵しかけたとき、脳裏をよぎるもう一つの存在。
「あいつは……!?」
慌てて身体を起こすと、少し離れた場所で頭を押さえながら立ち上がる白髪の男の姿が見えた。
「クソっ……予定外だ。下等種族風情にここまで邪魔されるとは……。
だが、まぁ良い。これで殺し損ねることもなくなった」
苦々しい声音でそう呟く男。
その言葉に背筋が冷たくなるのを感じながら、ティナを背に庇うように立つ。
ここがどこかも分からず、狐紙もない。
この状況でティナを守り切れるのか。
思考が答えを出す前に、男の視線がこちらを捕らえた。
一歩前に出て、膝をつき、
「王よ。さあ、こちらへ」
男は、敬意とも狂信ともつかぬ声音で手を差し伸べてきた。
ティナを求めている。それだけは明白だった。
「いや……」
戸惑いを滲ませながらも、ティナは俺の背に隠れるようにして拒絶する。
「なぜです! もしや、私のことをお忘れですか? クレディウスでございます!」
「だれ……?」
「なっ……」
ティナの素直な疑問に、クレディウスは愕然とした。
「まさか記憶が……? そのようなことが………?
いや、不完全な肉体での顕現であれば、精神もまた不完全となってもおかしくはない……」
独り言のように呟き、眉間に皺を寄せる。
言葉の全てにまでは理解が及ばないが、状況から男が歓迎すべき状況でないことは確かだろう。
そう推察していると、クレディウスは一つの結論に辿りついたようで目が憎悪に染まる。
「……やはり貴様か。貴様が我らの崇高なる術式を穢したのだな」
“穢した”――その言葉が意味することは、恐らく古代魔術書に記された術式を独自に改良したことを指している。
術式製作者本人に言われるならば、仕方ないと受け入れる。が、
「訂正してくれ。あの術式は確かに素晴らしいものだった。
効率を極限まで追求し、荒唐無稽な非効率を成し遂げようとする最高峰の術式だろう。だが無機質で美しさに欠けていた。
それを改良したことは間違いだと思ってはいない」
あの改良は、術式をさらに昇華させるものだったと信じている。
そして才能に満ち溢れたティナと出会った術式が、誤りであるはずがなかった。
「改良……? ハハハハハ! 下等生物風情が我らの叡智に施しただと!?
身の程を痴れ! 貴様如き無知蒙昧が美醜を騙るな」
怒りに顔を歪め、クレディウスは叫ぶ。
逆鱗に触れたのか、その声音には理性の欠片もなかった。
「我らの文明を侮辱する愚、万死に値するとしれ!
王よ。叱責は覚悟の上、巻き込むことをお許し下さい。今、冒涜に罰を!」
そう告げたクレディウスが、詠唱を始める。
『
ティナの安全など意に介さず、構築されていく術式。
しかも、先ほどよりも格段に術式の格が上がっている。
逃げるか? どうやって。
相殺する? 間に合わない。
刹那の間に問答が繰り返される。
それでも得られる答えはなく。
『エク―――』
詠唱が完了しかけたその刹那、何処からともなく地響きのような轟音が木々の間から鳴り響いた。
「なに?」
背に隠れるティナが不安げに呟く。
「なっ……!?」
次の瞬間、クレディウスとの間を割くように、巨大な木の根が荒波の如く押し寄せた。
まるで両者の対立を阻むように、怒涛のごとくうねり、空間を引き裂いていく。
「これは……」
驚愕する間もなく、視界の端から一人の男が飛び込んでくる。
「急げ。一時的なものに過ぎない」
「え、あぁ……」
呆気に取られる俺をよそに、男は素早くティナを担ぎ、そのまま駆け出した。
敵か味方かを考える余地もない。
ティナを連れ去られた以上、追うしかないと、その後を急いだ。
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しばらく走り続け、沢の近くまでくると、男は速度を緩め、ティナをそっと地面に下ろした。
「いきなり担いで、済まなかったな」
「ゆるす!」
「何様だよ……」
コハクと過ごした影響か、やたら偉そうなティナの言葉に、思わず突っ込みを入れる。
「王様?」
先程のクレディウスとの、やり取りを思い返し、そんなことをティナが呟く。
「責務を全うできなかった者に、それを名乗る資格はないだろう」
男は目を伏せ、静かにそう返した。
「……」
クレディウスといい、この男もまたティナのことを知っているのだろうか。
そんな憶測から、男の一挙手一投足に目を向ける。
何者で何が目的なのか。
混乱していた思考を落ち着け、冷静に分析し始めると一つの事実に気が付く。
「……あれ? 狐族か?」
「如何にも。知っているものと思っていたが」
黒髪に紅の瞳。そして、ひと際大きく太い黒尾。
どこか見覚えのある顔立ちの狐族。
「互いに名を知らぬのであれば、名乗りは必要であろうな」
「そうだな。俺はウォルトだ。よろしく」
「ティナだよ! よろしくねっ」
二人の名乗りを聞いた男は、小さく頷くと、自身の名を口にした。
「余の名はウラミ・ビャクヤ。
しがない、死に損ないの狐族だ」
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