どうやって新宿駅に戻ったか記憶がない。気がついたら、杏奈は改札を抜けていた。

 帰ろう。帰りたい。でも、どこへ?


 新宿の街に仲間はたくさんいる。

 けれど、お互い本名も知らない。

 中野の家にまっすぐ帰りたくなくて、中央線ではなく山手線に乗った。別に行き先があるわけではない。外回りだったのは偶々だ。


 いくつか駅を過ぎ、人が入れ替わり、席が空いた。リュックを胸に抱えて腰を下ろすと、腕の赤い傷がふと視界に入った。

 もう、腕もうなじも痛くなかった。

 こころのほうが、もっと痛いからだ、と思った。


「うー」


 すぐ傍であがった幼い声に、杏奈は、はっと顔を向けた。

 隣の座席に、パーカーのフードを目深にかぶった子――自分とおなじ歳くらいだろうか――がいて、その膝の上のちいさな女の子が、杏奈のリュックの紐を掴んでいる。

 きょうだいなのだろう。

 

「ごめんなさい」


 フードの子はそう言うと、素早く妹の手を引き剥がした。中性的な声で、男女どちらかわからなかった。妹は大声で泣いた。


 電車が減速する。

 きょうだいは池袋で降りるようだった。

 彼――もしくは彼女――が席を立つとき、かぶっていたフードが、抱きかかえた妹に引っ張られて、半分ずれた。

 いっしゅんの横顔。

 柔らかそうな髪のあいだから、頬の赤い傷跡がちらりと見えた。


 杏奈は思わず「あ」と小さく声を上げたが、ふたりは振り向かずホームの人混みに消えていった。


 ドアが閉まり電車が走り出す。

 杏奈は自分と母との出かけの喧嘩を思い出した。あの傷は親から? 自分と同じように? けれど、すぐに考え直した。

 いくらなんでも顔なんて、そんな目立つ箇所は避けるはずだ。単に転んだとか、猫がいるとか、それだけのことだろう。

 きっといまごろ、ふたりは仲良く家路を急いでいる。


 いいなあ。帰る家があって。自分がいまいちばん欲しいものは家だ、と杏奈は考える。自立したい。そうしたら、もう親にいちいち振り回されずに済む。

 だからけっきょく杏奈の願いはひとつだ。


 ――はやく大人になりたい。


 視界がにじんで歪んだ。

 正面の座席の窓に、暗い景色が流れていく。星は、いまの杏奈にとってただのぼんやりとした光の点だった。

 けれど大きくなって、あたたかい部屋を借りて、やさしい人と一緒に空を見上げたなら、きっとちがうふうに感じるはずだ。

 杏奈はひとり、そんな未来を夢想した。

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