蒼は自室に戻った。

 ドアノブは兄の部屋とおなじくレバー式で、ほとんど音を立てない。


 机の下に潜り込み、パソコンのプラグを手繰りよせる。延長コードを繋いでみたが、コンセントまでは数センチ届かなかった。

 罰でも受けているような気分だった。いやなものを見てしまったうえ、なにも成果がなく、ただ疲労感だけが残っている。


 蒼はコードを放り出すと、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。もう少し長いものを買いに行かなくては――。

 そう思うのに、どうにも気が進まなかった。

「生活費」の場所は、初日に兄から聞いていた。「多めに入れてあるから、すきに使え」とも言われていた。

 けれど蒼はまだ見てもいない。


 ここ二日、空腹を感じても手持ちの菓子でごまかしてきた。子どもの身分ですきにお金を使える夢のような状況のはずなのに、どういう訳か蒼にはうれしいと思えなかったのだ。

「生活費」の出所を疑ったわけではない。大金を見る前から、こうだったのだから。それなら、なぜ。どうしてなのか。うまく言葉にできない。


 ――この気持ちは、なんだったか。


 手のひらを陽に透かす。

 まだ小さくて頼りない。

 知らない街でなんとかやっていかなくてはいけないのに、振り回されてばかりいる。未完成な部屋、大金、よくわからない兄。

 かざした手のひらをゆっくりと自分のほうへと向けた。


 心が乱れるといつもするように、重ねた両手で頸動脈をゆっくりと圧迫していく。そうすれば、どんなときでも気持ちが落ち着くことを、蒼は知っている。

 目を閉じる。

 どくどくとした脈動が指先に伝わり、世界を遠ざけていく。

 いつもより瞼が重い。

 ああ、そういえば、僕はかなり寝不足だったんだっけ――、そう頭の隅で気づいたときには、もう指先ひとつ動かせなかった。



 みじかい夢をみた。

 幼い自分が廊下をぺたぺたと歩いている。

 朝の実家だ。

 一階の和室に母がいた。

 鏡台のまえに座り、熱心になにやら顔に塗っている。けれど首からうえは影絵のように真っ黒だった。口もない母が言う。


 ――食パンが戸棚にあるからね。

 ――ちゃんとお皿にのせてよ! 何回も言ってるのに!


 蒼の声が聞こえないのか、母はゆらりと立ち上がり、玄関のほうに消えた。

 母と入れ違いに、煙草をくわえた兄が二階から降りてくる。煙の下にあるはずの顔はやはり影絵のように黒い。


 ――僕のことちゃんとして! 大人なんでしょ!


 兄に駆け寄ろうとすると、ふいに身体が沈んだ。膝のあたりまでなにかに埋もれている。視線を落とすと、それは山のような万札だった。

 もがいても抜け出せない。底なし沼のように紙幣が蒼を呑み込んでいく――。



 西日が眩しくて目が覚めた。

 蒼は見慣れない天井に一瞬戸惑ってから、ここは東京だ、と理解した。夢をみた気がしたが、内容はさっぱり思い出せない。


 枕元の時計に目をやると四時を少しすぎていた。眠っていたのは一時間ほどらしい。まだ頭の芯がぼんやりしていたが、寝なおす気にはなれなかった。コードの問題を宙ぶらりんにしたまま、日をまたぐのはいやだったのだ。

 時計を見ながら逆算する。買い物に行って、パソコンを繋いで、食事をして、シャワーを浴びて――。


 蒼は勢いよくベッドを降りた。

 スプリングが、ぎ、と鳴った。

「生活費」は食器棚の引き出しの一番下にあるという。

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