5
蒼は自室に戻った。
ドアノブは兄の部屋とおなじくレバー式で、ほとんど音を立てない。
机の下に潜り込み、パソコンのプラグを手繰りよせる。延長コードを繋いでみたが、コンセントまでは数センチ届かなかった。
罰でも受けているような気分だった。いやなものを見てしまったうえ、なにも成果がなく、ただ疲労感だけが残っている。
蒼はコードを放り出すと、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。もう少し長いものを買いに行かなくては――。
そう思うのに、どうにも気が進まなかった。
「生活費」の場所は、初日に兄から聞いていた。「多めに入れてあるから、すきに使え」とも言われていた。
けれど蒼はまだ見てもいない。
ここ二日、空腹を感じても手持ちの菓子でごまかしてきた。子どもの身分ですきにお金を使える夢のような状況のはずなのに、どういう訳か蒼にはうれしいと思えなかったのだ。
「生活費」の出所を疑ったわけではない。大金を見る前から、こうだったのだから。それなら、なぜ。どうしてなのか。うまく言葉にできない。
――この気持ちは、なんだったか。
手のひらを陽に透かす。
まだ小さくて頼りない。
知らない街でなんとかやっていかなくてはいけないのに、振り回されてばかりいる。未完成な部屋、大金、よくわからない兄。
かざした手のひらをゆっくりと自分のほうへと向けた。
心が乱れるといつもするように、重ねた両手で頸動脈をゆっくりと圧迫していく。そうすれば、どんなときでも気持ちが落ち着くことを、蒼は知っている。
目を閉じる。
どくどくとした脈動が指先に伝わり、世界を遠ざけていく。
いつもより瞼が重い。
ああ、そういえば、僕はかなり寝不足だったんだっけ――、そう頭の隅で気づいたときには、もう指先ひとつ動かせなかった。
みじかい夢をみた。
幼い自分が廊下をぺたぺたと歩いている。
朝の実家だ。
一階の和室に母がいた。
鏡台のまえに座り、熱心になにやら顔に塗っている。けれど首からうえは影絵のように真っ黒だった。口もない母が言う。
――食パンが戸棚にあるからね。
――ちゃんとお皿にのせてよ! 何回も言ってるのに!
蒼の声が聞こえないのか、母はゆらりと立ち上がり、玄関のほうに消えた。
母と入れ違いに、煙草をくわえた兄が二階から降りてくる。煙の下にあるはずの顔はやはり影絵のように黒い。
――僕のことちゃんとして! 大人なんでしょ!
兄に駆け寄ろうとすると、ふいに身体が沈んだ。膝のあたりまでなにかに埋もれている。視線を落とすと、それは山のような万札だった。
もがいても抜け出せない。底なし沼のように紙幣が蒼を呑み込んでいく――。
西日が眩しくて目が覚めた。
蒼は見慣れない天井に一瞬戸惑ってから、ここは東京だ、と理解した。夢をみた気がしたが、内容はさっぱり思い出せない。
枕元の時計に目をやると四時を少しすぎていた。眠っていたのは一時間ほどらしい。まだ頭の芯がぼんやりしていたが、寝なおす気にはなれなかった。コードの問題を宙ぶらりんにしたまま、日をまたぐのはいやだったのだ。
時計を見ながら逆算する。買い物に行って、パソコンを繋いで、食事をして、シャワーを浴びて――。
蒼は勢いよくベッドを降りた。
スプリングが、ぎ、と鳴った。
「生活費」は食器棚の引き出しの一番下にあるという。
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