第42.5話「名を呼ぶ朝」――Ⅲ:スィネシスの環(ビナー)

 静けさが、音よりも深く私の身体に染み込んだ。

 目を開いているのか閉じているのか、わからない。

 視界という感覚が喪失していた。

 けれども私は、明確に「そこ」にいた。

 何もない。

 だが、すべてが在る。

 思考は流体となって周囲に満ち、一滴の感情が千の形へ分岐してゆく。

 それを、私はただ“理解”するしかなかった。

 そして、何かが“降りて”きた。

 それは鼓動よりも重く、沈黙よりも響く存在。

 声なき声が、世界を一つずつ確定させていくような感覚。

 ――私は、おまえを識っている。

 ――おまえは、まだ自分を識らない。

 目の前にいたのは、女だった。

 歳は取っていない。けれど、年齢という概念そのものが彼女には通じなかった。

 まるで、存在の“骨格”だけを具現化したような、純粋な“在り方”だった。

 スィネシス。

「理解」の名を持つセフィラ。

 黒い環を背に、彼女はゆっくりと私に近づいてくる。

「……アイン。来たのね」

 声は母のようでもあり、教師のようでもあった。

 だが、その実態はどちらでもない。構造そのものが“話しかけてくる”ような錯覚。

「君は……僕の……?」

「理解よ。あなたが積み上げてきた全ての理由。それを繋ぐもの。

 世界に意味があると“錯覚”できる、その連続性の中に、私は宿るの」

 彼女が手を掲げると、周囲の闇が震えた。

 その中に――幾千の幻影が浮かぶ。

 母親が子を抱く光景。

 老いた男が墓前で微笑む。

 数式に向き合う少年。

 銃口の前で祈る少女。

 すべてが、一つの円環のなかで連なっていた。

「これが、“理解”のかたち?」

「そう。理解とは、断片に意味を与える力。

 物語に順序を与え、痛みに名前をつけ、死を“完了”と受け止めるための枠組み」

「でも……それって、勝手な解釈なんじゃないのか? 現実に意味なんて……」

「ええ。現実に意味などないわ。

 でも、“意味がある”と思えることこそが、意識を前へ進める原動力になる」

 彼女の眼差しは、温かいようでいて、どこか無慈悲だった。

 そのまなざしの奥に、私は“母性”の原型を見た。

「私の名は、スィネシス。

 でも、あなたが私をどう定義するかは、あなた次第。

 私の本質は“名前に還元できない”。

 だって私は、あなたが“すべてを理解しようとした果て”に残る“問いそのもの”なのだから」

 私は、息を呑んだ。

「問い、なのか……。じゃあ、君は答えを持っているわけじゃないんだ」

「いいえ。私は“答えではなく、問う姿勢”なの。

 答えが一つであると信じるとき、人は自分の理解で他者を裁くわ。

 でも、理解とは、つねに多重で、未完成で、更新され続けるものなのよ」

 その言葉に、私はどこかで聞いたことのある“痛み”を思い出していた。

 ――答えがないと不安になる。

 ――でも、答えがあると信じたとき、人は他者を傷つける。

「……わかる気がする。君が……“母”と呼ばれる理由が」

 スィネシスは、一歩近づき、私の肩にそっと手を置いた。

 その手は、驚くほど軽かった。だが、そこには何千年分の記憶と赦しが宿っていた。

「あなたに一つだけ、贈り物をするわ。

 それは、“諦める”ことを恐れない力よ」

「諦める……?」

「ええ。世界を完全には理解できないということ。

 他者を完全にはわかりえないということ。

 そして、自分自身すら、完全には掌握できないということ」

 彼女の背後に、巨大な“輪”が浮かび上がった。

 それは天体の軌道図のようであり、記憶の断面のようでもあった。

「でも、それでもあなたは前へ進む。

 それが“理解”なのよ。

 諦めて、それでも受け入れて、それでも歩むこと。

 私が宿るのは、そんな場所なの」

 私は、黙って彼女を見つめた。

 心が、静かに“拡張”していく。

 感情ではない。理性でもない。

 それは――“器”だった。

 私は、自分が誰かを許し、自分を赦し、世界を許そうとしていることに気づいた。

「君を……呼ぶよ。スィネシス」

 その名を、私は初めて“意味を込めて”発した。

 それまで曖昧だった空間が、名を通して重力を取り戻した。

 スィネシスは、ふわりと笑った。

「……ありがとう、アイン。

 やっと、私は“あなたの言葉”になれた」

 彼女は、深い波のように、私の胸の内へと沈んでいった。

 彼女の名を呼んだその瞬間、私は――

“世界を完全に理解することはできない”と心から理解した。

 それは、苦く、そして甘い感覚だった。

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