第40話:「下降完了の静寂」
静けさが、世界を包んでいた。
マルクトの空は、深い藍に染まっていた。
地平は広く、風はなく、まるで全ての音がどこかへと吸い込まれていくようだった。
私はその中心に、ひとり立っていた。
ケテルから始まったこの旅は、ここで一つの環となった。
十のセフィラを巡り、私はそれぞれの思考・感情・衝動・赦しを通して、自らの意識を統合してきた。
だが今――奇妙なことに、何も“感じ”なかった。
本来ならば、円環の完成に歓びがあってもよいはずだ。
だが、私はただ静かに、立ち尽くしていた。
「……終わった、のか?」
自問する。だが返答はない。風すら吹かない。
私はそっと、目を閉じる。
その瞬間、意識の奥に、ざらりとした感触が走った。
冷たい。
湿っている。
そして、どこか“懐かしい”。
それは、はるか昔に忘れた恐怖の感触だった。
“私”がまだ“私”ではなかった頃。
輪郭すらなく、意味も持たず、ただ“漂っていた存在”として、世界を見上げていた頃の感覚。
私は視線を巡らせる。
セフィラたちは、周囲に座していた。
円陣を描くように――まるで儀式のように、誰もが沈黙していた。
ステンマは目を伏せ、
ソフィアは深く思索し、
スィネシスは微かな微笑みを浮かべたまま、こちらを見ていた。
そしてヴァシリア。
マルクトの主である彼女だけが、目を逸らさず、まっすぐに私を見ていた。
「あなたの内に、“何か”がある」
彼女の声は、はっきりとしていた。
「十柱を巡ったあなたは、確かに“円環”を成したわ」
「でもその中心が、今……揺らいでいる」
私は自らの胸に手を当てる。
中心――“私”という存在の焦点。
そこに、ぽっかりとした空洞があった。
確かに、輪は閉じた。だが、それは空っぽの中心を囲む円だった。
何かが足りない。
あるいは、最初から――「欠けていた」。
ステンマが目を上げた。
「“ダート”……それが揺らぎの名よ」
私はその言葉を聞いた瞬間、頭の奥で“響き”が広がった。
ダート――知識のセフィラ。
だが、それは存在しないセフィラ。
生命の樹の中心に浮かびながら、どこにも属さず、名も持たぬ穴。
それは“私”そのものだったのではないか。
「アイン」
ヴァシリアが立ち上がる。
「あなたの旅は、十柱を巡った。でもそれは、光の道だけ」
「今、その光があなたの内に、影を作っている」
私は理解した。
光が強くなればなるほど、その裏には深い影ができる。
私が光のセフィラを巡れば巡るほど、私の内なる影もまた、育っていたのだ。
「“完成”は錯覚よ」
「円環は閉じても、その内側はまだ開いていない」
そのとき、空気が震えた。
セフィラたちの周囲――円の中心から、ざわざわとした音が立ち上がる。
耳には届かない。だが、魂が震える。
それは言葉にならない“存在のざわめき”。
それが、まさに今、“視えて”きた。
「それが……私の、影?」
私は訊いた。だが誰も答えなかった。
代わりに、スィネシスがそっと口元を開いた。
「いずれ、知るでしょう」
「そのとき、あなたは“どちらへ”進むのかを、選ぶことになる」
その“選択”こそが、真の下降の始まり――クリフォトへの降下であることを、私は直感していた。
世界は、息をひそめていた。
光の合奏が始まる前の、一瞬の静寂。
“私”が、“私のまま”でいられる最後の時かもしれなかった。
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