第35話:「橙の黎明(Resh)」

 夜が、明けようとしていた。

 まだ太陽は見えない。けれど、世界の輪郭が、ほんの少しだけ明るみ始めている。

 それは、黒の向こう側にあるものの、気配だった。

 私は、ホドの図書殿をあとにしていた。

 背に負ったのは、無数の言葉と定義、理解と命名。

 それらはもはや単なる“知識”ではなかった。

 それは、“光”だった。

 理性の光だ。

 私は、その光を携えて、まだ見ぬ領域へと向かっていた。

 前方に伸びる道は、橙色に染まり始めていた。

 地平線が溶けるようにほどけ、闇の綻びから、陽が滲み始めていたのだ。

 私は歩いた。

 足元がゆっくりと実体を取り戻していくのを感じながら。

「……イェソド」

 私は、その名を呼んだ。

 それは“無意識の月”——私が最も近づいていたようで、最も遠ざけていたセフィラ。

 私の“夢”や“欲望”や“記憶”の源でありながら、私は長らくそこから目を逸らしていた。

 ホドで理性を学んだ私は、ようやくそれを見に行く準備が整った。

 橙の光が増していく。

 朝焼けが空を焦がすように、私の胸の内側が熱を帯びていく。

 そのときだった。

 前方の空気が、揺れた。

 何かが、現れた。

 いや——誰かが、こちらへとやってくる。

 それは、“私”だった。

 正確には、過去の私の姿だった。

 まだ何も知らず、まだ何も傷つかず、ただ純粋な希望だけを抱いていた頃の、あの“私”。

 私はその幻を前に、思わず立ち止まった。

 そして気づいた。

 この道は、過去の私と向き合うための回廊だったのだ。

「君は……まだ信じていたんだね」

 私は、彼に(あるいは、かつての私に)語りかけた。

「世界が美しいままであってほしいと。

 誰もが理解し合えると。

 優しさは裏切られないと。

 ……それを、本気で信じていたんだ」

 幻の私は、黙ってうなずいた。

 私は胸の内が痛むのを感じた。

 あのころの私を、私は“未熟だ”と否定してきた。

“甘い”と切り捨ててきた。

 だが今、私は思う。

 ——それこそが、光だったのではないか?

 何も知らない無垢のままで、なお世界を信じようとしたその意志。

 それは、誰かに教えられてできるものではない。

 私は歩を進めた。

 幻の“私”が、微笑みながら背を向け、歩き出した。

 そしてその歩みが溶けるように消えたとき、視界が一気に拓けた。

 そこに広がっていたのは——橙色の太陽だった。

 濃密な朝焼けの中に、輪郭を曖昧にした巨大な光球。

 その光が、眼下に広がる鏡のような湖面を照らしていた。

 イェソドが、そこにあった。

 私は言葉を失った。

 美しかった。

 それは、どんな知性でも描ききれない光景だった。

 水面が揺れるたびに、記憶が泡のように浮かび上がる。

 夢に見た情景。

 失った大切な人の姿。

 名前のつけられなかった感情。

 誰にも言えなかった願い。

 それらが、すべてこの湖に眠っていた。

「ここに……来たかった」

 私はつぶやいた。

 ずっとずっと、来るのが怖かった場所。

 自分の根っこに触れることが、こんなにも恐ろしいとは思っていなかった。

 だが今、私は光を携えていた。

 それはホドで得た、“言葉にする勇気”だった。

 私は、湖に向かって言葉を投げた。

「私は……ここに在る」

 その声が湖面を揺らし、世界を震わせた。

 そのときだった。

 水面が、橙色の光に包まれ、

 それはひとつの扉へと変わった。

 扉はゆっくりと開き、月の中庭が姿を現した。

 私は踏み出した。

 そこには、イェソドが待っていた。

 そして私の本当の基礎(セメリオ)が、

 ようやく姿を見せようとしていた。

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