第33話:「星を釣る鉤(Tzaddi)」

 夜が、落ちていた。

 それは空から降りてきたのではない。

 むしろ、内側から静かに滲み出したものだった。

 私は気づけば、足元に波の音を聞いていた。

 海だった。

 けれど、それは水の海ではなかった。

 それは——夢の海だった。

 そこに、重力はない。

 上下もない。

 ただ、無数の記憶と欲望と未完の思いが、ゆっくりと波のように打ち寄せる。

 私は、星を釣る釣人の姿になっていた。

 手には銀色の糸。

 空には、ひとつの星。

 それは、どこかで見たことがあるような、淡い藤紫の光だった。

「ネツァク……?」

 私は名を呼ぶ。

 だが彼女の姿は、もうここにはなかった。

 ここは私ひとりの空間。

“私自身が願う星”を、ひとりで探さなければならない場所。

 私は糸を垂らす。

 波紋が広がり、夢の海にひとすじの緊張が走る。

 何かが、そこにいる。

 ただの幻想ではない。

 だが、すぐには正体がわからない。

 私は問う。

「私は、何を願っている?」

 波は答えない。

 沈黙が重い。

 私はもう一度、糸を投げた。

 そのたびに、自分の内側がふるえる。

 幼い日の自分が浮かぶ。

 大人に見捨てられた自分が見える。

 認められなかった過去が蘇る。

 その一つ一つが、夜の海を照らす微光になっていく。

 私は、ようやく気づく。

 この海は、私の“願い”の反映ではなかった。

 これは、“願えなかったもの”たちの墓場だったのだ。

「叶えられなかった夢」

「途中で忘れた想い」

「始めることすら怖かった希望」

 それらがこの海に沈み、星屑となって漂っている。

 私は、静かに目を閉じた。

 そして、自分の中に問うた。

「今、もし一つだけ、何かを願えるとしたら——」

 そのとき、遠くで波が弾けた。

 糸が、震える。

 何かが、かかった。

 私はゆっくりと糸を巻く。

 力ではなく、想いで引く。

 現れたのは、小さな星だった。

 それは、私が願った“誰かの幸せ”の形をしていた。

 私は、目を見開いた。

「これが、私の“本当の願い”?」

 私は、自分の願いがもっと自己中心的で、切実で、渇望にまみれているものだと思っていた。

 けれど私の深奥が釣り上げた星は、

“誰かに笑っていてほしい”という、あまりに素朴な祈りだった。

 そのとき、私は泣いた。

 涙が藤紫の空に溶けていった。

 私は、ようやくそれを受け入れた。

「私は……“誰かに幸せでいてほしい”と願えるほどに、自分を取り戻せたんだ」

 夜空が開いた。

 雲が裂け、光が降る。

 その光は、イェソドへと続く階段だった。

 夢と現実のはざまを渡るための、透明な通路。

 私は、釣り上げた小さな星を胸に抱いて、その階段を昇った。

 何も保証はなかった。

 この願いが届くかどうかもわからない。

 けれど私は、信じることをやめなかった。

 それが、私の旅の始まりであり、今も変わらぬ“鉤”だったから。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る