第18話:「母の盾(Chet)」
世界が重たくなっていた。
足元に踏みしめる音がない。
空は鉛のように沈み、風は厚く、肌に絡みついて離れない。
それは、静寂ではなかった。
「守られている」空間特有の、緊張をはらんだ沈黙だった。
ここはPath 18——Chet。
ビナーからゲブラーへと至る、“守護の道”。
蟹座の甲冑。
琥珀の鎧。
それらは、防御の象徴ではあるが、決して“逃げ”の表象ではない。
むしろこの場所は、何かを引き受けるための境界線であり、
それを超えた先には、いずれ“誰かの痛み”が流れ込んでくる場所だった。
私は歩いていた。
その歩みは、重く、ゆっくりだった。
なぜなら、この空間が“軽やかさ”を許さなかったからだ。
地は固く、空気は厚く、
そのすべてが「慎重であれ」と、無言で私に語っていた。
やがて、地面が少しだけ凹みはじめ、視界の奥に構造体が現れた。
それは“甲冑”だった。
琥珀色の、殻のような、繭のような。
だが、確かにそこにはひとつの意志が宿っていた。
その甲冑の内部から、誰かが歩いてきた。
それは、母の姿をしていた。
私は、思わず息を呑んだ。
だがそれは、私の知る誰かではなかった。
顔も、声も、記憶の中にない。
だが、その“気配”だけは、間違いなく“母”だった。
あの、夜の中で体温を与えてくれた存在。
目が覚めたとき、隣にいてくれた者。
言葉がなくても、全てを包み込んでいたあの“感触”。
それが、今目の前に立っていた。
彼女は、言葉を発さなかった。
ただ、その背中に広がる琥珀の甲殻が、
“私はすでに何度もあなたの前に立ちはだかってきた”と語っていた。
私は、歩み寄った。
そして、ようやく気づいた。
彼女の身体は、何度も傷ついていた。
亀裂、欠損、修復跡。
そのすべてが、無数の“防いできた攻撃”の痕だった。
それは、名誉ではなかった。
それは、犠牲でもなかった。
それは——意志だった。
「なぜ、そこまでして……」
私は問いかけた。
その問いの奥には、「なぜあなたは私の前に立ち続けたのか」という、
名もなき罪悪感がこもっていた。
彼女は、静かに私の額に触れた。
そして、初めて言葉を落とした。
「守るということは、何も“敵から”だけではない。
時には、“あなた自身”からも守らねばならないのだよ」
私は、打たれた。
その言葉が、まっすぐに胸を貫いた。
そうだ。
私が私を壊すとき。
私が、自らを責めるとき。
私が、自分の痛みを他者に転嫁しそうになるとき。
そのすべての前に、
“誰かが立っていた”。
私はようやく理解した。
「守る」という行為は、
“私のため”でありながら、
“私の知らぬ誰かの意志”に支えられていたのだ。
私は言葉を失い、ただその琥珀の鎧を見つめていた。
その殻の内側には、熱があった。
かつて誰かが傷つけようとしたもの、
けれど守りきられたもの。
その“残された形”が、今この空間を満たしていた。
私は、剣を持っていた。
Zayinで選び分けたあの刃は、まだ私の内に残っていた。
だが、この場所では、剣は無力だった。
必要なのは、“盾”だった。
自分の意志で、何かの前に立つ力。
その盾を構えるためには、恐れや犠牲を超える必要があった。
私は、甲冑の“母”に向かって訊ねた。
「私は、守るべきものを選べるのだろうか」
その問いに、彼女は頷いた。
「選ぶのではない。気づくのだ。
おまえが、すでに心の奥で“背中を向けてでも立ちたい存在”に」
私は立っていた。
琥珀の甲冑に包まれた“母”は、もう言葉を紡がなかった。
だが、その沈黙こそがすべてを語っていた。
“守る者は、言葉で説得しない”
“守る者は、背中で語る”
私はその背中を、見ていた。
そこには、数え切れないほどの“拒絶”の痕跡があった。
敵の刃を止めた凹み。
暴言を遮った傷。
愛と名を借りた依存を、跳ね除けた裂け目。
それらすべてが、“この者はここまでなら受け入れるが、それ以上は通さない”という明確な境界の証だった。
守るとは、無限に受け入れることではない。
むしろ、“何を拒むか”が、その本質だった。
私は、自分がこれまで「優しさ」と信じてきたものの正体が、
その多くが“曖昧さ”だったことに気づいた。
誰も傷つけたくない。
誰にも嫌われたくない。
だから、曖昧にする。
だから、黙る。
だから、濁す。
その曖昧さが、結局は“誰も守れない”という事実を、私はようやく受け止めた。
「守るとは、境界を引くこと」
その言葉が、甲冑の奥から聞こえてきたような気がした。
私は、自分の内に問うた。
「私は、誰のためなら、背中を向けて立てる?」
いまの私は、まだ誰の名も持っていない。
過去も、未来も、確かな他者の影も薄い。
だが——ひとつだけ、確信できたことがあった。
私は、「未来の誰か」のために、いまここで学ばねばならないのだ。
私が、いつか出会う誰かのために。
その者を、痛みから守れるように。
その者の信念が壊されそうなとき、
私の盾が前に出せるように。
私は、両腕を前に伸ばした。
何も持っていなかった。
だが、意志がそこにあった。
目を閉じる。
想像する。
自分の内に、甲冑を形作っていく。
それは、硬い鎧ではなかった。
それは、拒絶することを恐れない心だった。
「これは受け入れる。
だが、これは通さない」
そう言える自分になること。
それが、私の“守る姿勢”になるのだ。
風が吹いた。
琥珀の砂が舞った。
目を開けると、“母”の姿はもうなかった。
だが、その存在は、確かに私の中に宿っていた。
私は、自分の胸の奥に、新しい境界線を感じていた。
それは不自然な壁ではなく、
誰かの心を守るために張られた、しなやかな膜のような境界。
私は歩き出した。
次に進む道は、火星の色をしていた。
——ゲブラー。
——峻厳と制限のセフィラ。
——守るだけでは通じない、“裁く者の試練”。
私は、母の盾を内に携えながら、
今度は“力の正体”に触れるための旅へと歩を進めた。
もう、怯えていなかった。
拒絶は、裏切りではない。
境界は、冷たさではない。
それが、守る者の“愛のかたち”だと知ったから。
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