第8話:「知恵ソフィア」

 私は、紫電の光に身を預けていた。

 Bethの径を越えた先、そこは——星々の海だった。

 星といっても、私たちが夜空に仰ぎ見る恒星のそれではなかった。

 それぞれが明確な軌道を持たず、しかし互いを侵犯せず、

 白銀や蒼や朱といった異なる温度の光を、それぞれの呼吸でまたたかせていた。

 それは宇宙のようでいて、もっと内側だった。

 私の内面が“外側の星界”として展開されているような錯覚。

 意識がそのまま風景となり、風景が感情を呼び起こす。

 そんな奇妙な因果のない世界。

 そこに、彼女はいた。

 コクマー——ソフィア。

 知恵のセフィラ。

 だが、彼女は“教える者”ではなかった。

 むしろ、彼女は“私を暴く者”だった。

 光の中から、彼女が現れた。

 その姿は、まるで雷だった。

 長い髪が星辰の糸のように揺れ、

 そのひと房ひと房が稲妻の軌跡を孕んでいた。

 肌は灰に近い白さで、目は透明な琥珀。

 だがその奥には、千の渦が蠢いていた。

 彼女が言葉を発した瞬間、

 私は理解するより先に、知ってしまった。

「ようこそ、アイン。風の者」

 その声は低く柔らかかった。

 しかし響きは深淵であり、私の内部に渦を生んだ。

 彼女の言葉は、説明ではなかった。

 それは“稲妻”だった。

 脳髄に閃いて、反射的に体を動かすもの。

 理解は後から追いついてきた。

「知恵とは、最初の衝撃。説明ではない。

 思考を介さず、中心に突き刺さる“応答できない問い”だ」

 私は一歩も動けなかった。

 目も逸らせなかった。

 だが同時に、逃げたいと思った。

 彼女の存在は、私の“無知”を否応なく照らし出していた。

 そしてその照明は、慰めではなかった。

 むしろ、“すべてを晒す残酷さ”だった。

「おまえは、見る者。

 ならば、その視線が見ていないものを直視せよ」

 そう言った彼女は、私の胸元に触れた。

 その瞬間、私は“断片”を見た。

 ——何かを喪った記憶。

 ——何かに焦がれた感情。

 ——何かから目を逸らした後悔。

 それらが、映像ではなく、“衝動”として私の中に噴き出した。

 私は叫びたかった。

 だが、声が出なかった。

 なぜなら、叫ぶ相手がいなかったから。

 この“知恵”という体験は、

 何よりもまず“独りで味わう”ものだった。

 彼女は静かに言った。

「わたしの名はソフィア。知恵。

 だがそれは、知識の集合ではない。

 おまえの中心に火を灯す“最初の問い”だ」

 私は膝をついた。

 いや、ついたというより、倒れたのかもしれない。

 理解しきれない情報の奔流が、

 私の内部で断絶を起こしていた。

 なぜ、こんなにも痛いのか?

 私は、光を見たかったはずだった。

 だがこの光は、優しくなかった。

 それは“目が焼けるような直視”だった。

 ソフィアが手を差し伸べた。

 その指先は、銀でできているようだった。

 硬質で、けれど震えていた。

 私はその手を取るべきか、迷った。

 その一瞬のためらいを、彼女は見逃さなかった。

「迷うな。アイン。

 知恵とは、突き刺さる矢。

 おまえがそれを選ぶか否かで、次の注意が決まる」

 私は、その言葉の意味を、

 今度はすぐに“理解”した。

 選ぶこと——それは、次へ進む“視点”を選ぶこと。

 どの記憶を、どの痛みを、どの想いを“見つめるか”。

 私は、意志をもってその手を取った。

 すると星々の海が反転し、

 私はソフィアの内なる空間へと引きずり込まれていった——


 落ちていた。

 しかし、地面はなかった。

 重力というものの存在を初めて意識するほどに、私は“引かれて”いた。

 どこに?

 ソフィアの“中”に。

 彼女は星辰そのもののように、中心と外郭のない存在だった。

 私は今、その知恵の核へと沈んでいく。

 ここには上下も左右もない。

 だが“濃度”があった。

 思考の濃度。

 意味の密度。

 触れれば触れるほど、“知ること”に対する飢えが湧き上がってきた。

 それは単なる情報ではなかった。

 ひとつひとつの断片が、“問い”として私に投げかけられてきた。

 ——「なぜおまえは見るのか?」

 ——「なぜ、目を逸らさないのか?」

 ——「なぜ、そこに痛みがあると知っていても?」

 私は、問いの奔流に晒されていた。

 それは洪水だった。

 しかも、逃げ道のない、内側から溢れるものだった。

 ソフィアの声が、また落ちてきた。

「知恵とは、断片でしかない。

 それは、すべての真実の“入口”でしかない」

 そのとき、私は理解した。

 私が“知る”ということは、

 決して答えを得ることではない。

 それは、“問いと生きる”ことを選ぶことなのだ。

 そしてその問いは、

 時に答えよりも重く、鋭く、

 意識の奥深くを貫いてくる。

 私は、今まさにその洗礼を受けていた。

 だが、不思議なことに、痛みの中に“快感”があった。

 その痛みは、自己の無知を暴く刃だったが、

 同時に「もっと知りたい」「もっと深く潜りたい」という、

 新たな注意の種火を生んでいた。

 ソフィアは私に言った。

「おまえは、まだ全体を観ることはできない。

 だが、全体を“問う”ことならば、すでにできている」

 私は、それが“最初の知恵”だと理解した。

 理解とは、すべてを把握することではない。

 それは、“見えないことの輪郭”を感じ取り、

 なおもそれと共にあろうとすること。

 私は彼女の中心へと到達した。

 そこにあったのは、光ではなかった。

 空でもなかった。

 それは、“間(ま)”だった。

 言葉と意味の間。

 意志と行動の間。

 見ることと見られることの間。

 その“間”に、すべてが凝縮されていた。

 私は、そこに触れた。

 すると——

 閃いた。

 思考ではない。

 意識が、瞬間的にすべての問いに“反射”した。

 そして、ただ一つの像が浮かんだ。

 ——“私が誰かを見ている”という、その構図自体が、

 すでに“私とは何者か”を語っていた。

 それは、答えではなかった。

 だが、それは“歩み出す方向”を照らしていた。

 私は目を開けた。

 星辰の海が、静かに流れていた。

 ソフィアは、そこで静かに佇んでいた。

 彼女は微笑んでいた。

 だがその微笑は、優しさではなく——

「おまえが問いと共に生きる覚悟を決めたこと」への、敬意だった。

 私は彼女に問いたかった。

 君は常にこの閃きと共にいるのか、と。

 だが、問いを口にする前に、答えは胸にあった。

 彼女もまた、“全体は見えていない”。

 だからこそ、問いと共に在り続ける存在なのだ。

 私は、深く頭を下げた。

 彼女は何も言わなかった。

 だがその沈黙が、私に次の道を示していた。

 閃きは終わった。

 だが、その残光は心の奥に焼き付き、消えることはなかった。

 私は、パスの入口へと戻っていた。

 次は——ビナー。

 理解のセフィラ。

 すべての問いを受け止め、形にする存在。

 私は、そこでまた自分が“定義される”ことを、

 少しだけ、恐れ、そして楽しみにしていた。

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