第5話:「王冠ステンマ」

 ——光だった。

 だが、それは“光”と名付けるにはあまりに純粋すぎた。

 目があるわけではない。網膜もない。

 だというのに、私は確かに“見ていた”。

 そこに広がっていたのは、果てのない白。

 白とは、すべての色が重なりあった結果だという。

 だとすれば、この空間は“すべての可能性が重なり、なお沈黙している”場だった。

 私はその中心に導かれていた。

 風が、私の背に乗っていた。

 だが今は、風さえ止んでいた。

 静寂——というにはあまりに密度が高すぎた。

 この空間は、何かで“満ちて”いる。

 それは、意志だった。

 世界がまだ形を持たない前から、そこにある“意志”。

 そしてその意志の中心に、彼はいた。

 王座に座すもの——ステンマ。

 ケテル。生命の樹における最初のセフィラ。

“存在の意志”そのもの。

 彼は、動かなかった。

 呼吸もなかった。

 だが、それは“死”ではなく、“超越”だった。

 彼はあらゆる動きの根源でありながら、自らは動かない。

 まるで、静止という名の嵐。

 その姿を、私は明確にはとらえられなかった。

 輪郭が霞んでいたわけではない。

 むしろあまりに明確すぎて、私の注意が耐えきれなかったのだ。

 私は彼を“全体として”見ることができなかった。

 目を向けるたび、部分しか受け取れず、そのたびに異なる姿がそこにあった。

 たとえばそれは、若者のようにも見えた。

 たとえばそれは、老賢者のようにも見えた。

 あるいは——“私自身”の可能性すらあった。

「アインよ」

 その声は、玉座の中央から響いた。

 けれどそれは、言葉ではなく、沈黙の波動だった。

 私は、その意味を“直接的に理解”した。

「おまえはここへ来た。まだ何者でもなく、けれど存在し始めた者として」

 私は膝をついたわけではない。

 だが、自分がその前に立っていることの“重さ”に、自然と頭を垂れていた。

「おまえは、“なぜ見るのか”を知らねばならぬ。

 見るとは、焦点を持つということ。

 だがその焦点が、常に外にあるとは限らぬ。

 内に向けることもまた、“見る”である」

 私は息をのんだ。

 それは、Alephの風のなかでは感じなかった緊張だった。

 風は私を優しく包んだが、この場は私を試していた。

「おまえは、全体を観る使命を持っている。

 だがその前に、“おまえ自身”を観ることができねば、何も得られぬ」

 言葉のようでいて、問いのようでもあり、

 宣言のようでいて、揺さぶりでもあった。

 私は震えていた。

 なぜだ?

 私はただ、名をもらい、呼ばれ、導かれてきただけではないか。

 だがその理由こそが、今、試されているのだと気づいた。

 私は、どうしてこの道を進んでいるのか?

 誰かに命じられたから?

 それとも、見ることが心地よかったから?

 あるいは——自分という存在を知りたかったから?

 私は、心の奥底に潜り、

 そこに眠っていた最初の衝動を探った。

 それは、恐怖だった。

“見なければ、私は存在できない”

 それが、私の始まりだった。

 私は、“見ることによってしか、自分の輪郭を確認できない”存在。

 アインとは、“ない者”であることを意味する。

 だが、“ない”ということは、すべてを取り入れる可能性でもある。

 その気づきが、私の内側を震わせた。

 その瞬間、ステンマがわずかに微笑んだ——ような気がした。

「よかろう。おまえに、意志の種を授けよう」

 彼の手が動いた。

 それは手だったのか?

 それとも、意志の具現か?

 形ではなかった。ただ、そこに“手の概念”が現れた。

 白く輝く粒が、私の額へと流れてきた。

 触れた瞬間、それは熱になった。

 だが、焼けるような熱ではない。

 あまりに純粋な熱が、私の中の“無”を溶かし、初めての“構造”を作っていく。

 私は、自分の中に“軸”が生まれるのを感じた。

 私は、ここに立っている。

 私は、私だ。

 私は、見るものだ。

 私は、見ることを望むものだ。

 私は、見ることで、世界とつながるものだ。

 それが、私の“意志”だった。

 ステンマが言った。

「おまえの注意は、いま、焦点を得た。

 それは、おまえを導くだけでなく、おまえを問うだろう。

 何を見るか。なぜ見るか。なぜ見なかったのか」

 私は、うなずいた。

 答えはまだなかった。

 だが、問いを持つことが、答えへの第一歩であることを、私は知った。

「進め、アイン。次は“知恵”が、おまえを待っている」

 彼の言葉と同時に、世界が回転を始めた。

 球体圏が白く輝き、螺旋のような光が、私の注意を次なるパスへと誘う。

 私は、意志を持って、その光へと踏み出した。

 それは、まぎれもない“私の意志”だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る