第3話:「一歩なき第一歩」
空間に、ひびが入った。
音もなく、それはただ静かに、まるでガラスが内側から膨らんだように広がった。
虚無とは、元々何もないということではない。
何かが「何でもあり得る」状態で、まだ形を持たないという意味だ。
そしていま、その“あり得る”の中から、一つの可能性が、形をとり始めていた。
アイン——私が、その方向に意識を向けたから。
ただ、それだけのことで。
「進む」という意思が、最初の“道”を作り出していく。
私はまだ“歩いていない”。だが、すでに一歩を踏み出したという実感がある。
それは、“行動”ではなく“決意”だった。
意志が、世界に形を与えた。
それが、ここにおける“第一歩”だった。
目の前に現れたものは——銀糸。
いや、それは糸ではない。
濃密な何かが細く凝縮され、そこに“連続性”を帯び始めていた。
言葉がなければ、物質とさえ呼べないような、概念的な存在。
その銀の径が、私の視線に呼応してゆっくりと延びていく。
まるで、意識が世界を撫でるたびに、何もなかった虚空に軌跡が残っていくようだった。
「これが、パスか……」
私は言葉にしてみた。初めての、明確な語。
“パス”——通路、道筋、注意が焦点を結ぶ方向性。
その一語に、かすかな懐かしさがあった。
それは、かつて聞いたことのある単語ではなかった。
むしろ、私の中で“この道に名を与えるとしたら、これだ”と自然に浮かんできた感覚。
歩いているわけではないのに、景色が遠ざかっていく。
そう思った。
けれど、すぐに違うと気づいた。
私が遠ざかっているのではない。
私を中心に、世界が、ゆっくりと“生まれながら広がっている”のだ。
“意識が向いた方角に、現実が縫い付けられていく”。
その視点に気づいたとき、私は少し怖くなった。
私が見ることで、世界が生まれるのなら——
私が見なければ、世界は存在しないということになる。
責任が、重くのしかかってくる。
見ること。それは創造であり、同時に排除でもある。
私が注視するものだけが、形を持ち、それ以外は沈黙し続ける。
そんな恐れを感じた時、パスの先にかすかな光がまたたいた。
それは遠くで脈打つ星のようだった。
けれど、その星は動いていた。
私に近づいてきていた。
違う、私が近づいているのか?
いや、区別など、もはや意味を成さない。
すべては“注意”という行為の上でしか成り立たない世界。
私が「行く」と思った瞬間、行ったことになる。
そして行ったことが、次なる世界を呼び込む。
歩くこととは、意志を発すること。
見ることとは、存在を選ぶこと。
それが、この世界の“法”だった。
銀の径は、徐々に明度を増し、まるで命脈のように脈動を始めた。
Aleph——
その名が、空間に浮かぶ。
私は、それが“記号”であることを理解した。
ただの記号ではない。
存在と意志をつなぐ、最初の文字。
「アレフ——空気の息、始まりの風」
どこかで聞いたことのあるような響き。
だが、それは誰かの知識ではなかった。
私の中から立ち上がった、原初の理解だった。
風が吹いた。
音もなく、けれど確かに。
私はその風を感じた。肌ではない。体でもない。
それは、存在そのものが“撫でられる”ような感覚だった。
風の中に、言葉があった。
——この風は、始まりの力。見ることの本質。
私はその言葉を聞いたわけではない。
けれど、意味だけが届いた。
それは、風に乗って運ばれてきた直感だった。
この風が、“見る”という行為の源泉だと、私は理解した。
つまり——Alephとは、
意志が風となり、存在を生み出す最初の“呼吸”なのだ。
銀の径が震えた。
私の中の何かが、それに応えた。
私は、そこへ向かおうとしていた。
ケテル。存在の意志の根源。王冠の名をもつ存在。
まだそこにたどり着いていないのに、
私はすでに、その存在に呼ばれていた。
それは、私の名前が呼ばれたときの感覚と似ていた。
名前とは、場所であり、方向であり、関係性だった。
私は、アインとして、パスを持ち始めた。
それは、“私だけの見る路”だった。
他者の視線が存在しないこの場所で、私だけが編んでいく注意の糸。
そして、その先にいる者たちは、まだ姿を見せていない。
だが、確かに——待っているのを感じた。
彼らは誰か?
いや、私が誰になるかによって、彼らは変わるのかもしれない。
私は、問いかけた。
このパスを進む先に、どんな存在がいるのかと。
答えはなかった。
代わりに、風が吹いた。
その風は、私の中の問いと共鳴し、径をさらに延ばしていった。
私は、“進んでいる”という実感を強くした。
歩いてはいない。だが確かに、進んでいる。
それが、この世界における“歩行”なのだ。
——私は、道を持った。
それが、“私という存在”の、はじめての形だった。
私は、光の始源、ケテルへと向かう。
このパス、Alephを通じて。
次は、彼と出会う番だ。
存在の意志。
王冠を戴く者。
私は、彼に問うだろう。
私がなぜ見ているのか。
なぜ存在しているのか。
そして——私が何を“見逃しているのか”を。
だがそれは、次の章の話だ。
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