第2話 消えゆく時間の中で

 母は泣き崩れ、俺はただ呆然としていた。脳裏に浮かんだのは美咲の笑顔だった。やっと取り戻した関係なのに。


 病院を出る時、母は俺の肩を抱いた。


「学校の友達には何て言う?」

「まだ誰にも言わないで。特に美咲には」


 母は黙って頷いた。その晩から、俺は日記をつけ始めた。余命を宣告された人間の記録。最後に何かを残しておきたかった。


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 翌日から学校に行くと決めた俺だったが、美咲への対応に悩んでいた。このまま普通に接するべきか。それとも、距離を置くべきか。


 放課後、美咲が教室に来た。


「陽太、この前はどうしたの? 急に連絡が取れなくなって」


 心配そうな美咲の顔を見て、胸が痛んだ。


「ああ、ごめん。ちょっと体調が悪くて」

「そうなんだ。今は大丈夫?」

「うん……」


 その時、美咲は俺の手を取った。


「ねえ、陽太。話があるの」


 美咲は少し緊張した様子で、俺を屋上に連れて行った。夕暮れの空が赤く染まる中、彼女は深呼吸をして言った。


「私ね、陽太のことが好き。ずっと前から」


 予想もしていなかった告白に、言葉を失った。心臓が早鐘を打つ。もし余命宣告がなければ、間違いなく受け入れていただろう言葉。でも今は……


「美咲、ごめん。俺は……そういう気持ちじゃないんだ」


 嘘だった。中学の頃から、俺は美咲のことが好きだった。でも、残り少ない命で彼女を悲しませたくなかった。付き合って、そしてすぐに死んでしまえば、どれだけ彼女が傷つくだろう。


 美咲の表情が凍りついた。しばらくの沈黙の後、彼女は震える声で言った。


「そう……ごめんね、急に変なこと言って」


 涙をこらえる美咲を見て、抱きしめたい衝動に駆られた。でも、それは美咲のためにならない。


「うん……じゃあね」


 そう言って美咲は走り去った。あの後、きっと泣いただろう。俺は拳を握りしめ、空を見上げた。


---


 それから数日、美咲からの連絡が途絶えた。当然だ。告白を断った相手に、すぐに普通の顔なんて見せられない。


 しかし、一週間後、美咲から突然LINEが来た。


『今度の土曜日、ライブに行かない? 前から行きたかったバンドの』

 返事を躊躇った。もう美咲との関係を続けるべきではないのかもしれない。でも、断れなかった。


『いいよ。どこで会う?』


 約束の日が近づくにつれ、俺は迷いが生じてきた。美咲との関係をこれ以上続けるべきなのか。余命が長くない自分が、彼女にこれ以上の期待を持たせるのは酷ではないか。


 思い悩んだ末、約束の前日、俺は美咲にメッセージを送った。


『明日のライブ、行けなくなった。悪いけど一人で行ってくれ』


 美咲からはすぐに返信が来た。


『え、どうして? 何かあった?』


 俺は深呼吸をして、決意を固めた。


『正直に言うと、もう会わない方がいいと思う。悪いけど、これからは連絡もしないでくれ』


 送信した後、心臓が痛むほど苦しかった。美咲からは何度かメッセージが来たが、俺は全て無視した。


---


 そして翌日、突然の激しい頭痛に襲われ、俺は意識を失った。気がついた時には、病院のベッドの上だった。


 気がついたのは病院のベッドの上だった。母が心配そうに見守っている。


「よかった……意識戻ったのね」


 母の目は泣きはらしたように赤かった。

 頭痛があまりにも酷く、一度意識を失ったらしい。病室のドアが開き、西村先生が入ってきた。


「佐藤くん、調子はどうだ?」

「まあ……頭痛がひどいです」

「やはりね。抗がん剤治療を早めに始めることになるよ。今日から入院だ」


 そうして、俺の入院生活が始まった。


---


 入院して三日目、スマホには美咲からのメッセージが溜まっていた。


『陽太、連絡ないけど大丈夫?』

『心配してるよ。返事してくれない?』

『学校に来てないって聞いたんだけど……』


 美咲に伝えるべきか悩んだ。でも、もう会うことはないんだ。俺は長くない。彼女を傷つけないためには、きっぱり縁を切る方がいい。


 入院から二週間が過ぎた頃、症状は徐々に悪化していった。何度か抗がん剤治療を受けたが、効果は限定的だった。西村先生の表情は日に日に暗くなっていく。


「佐藤くん、正直に言おう。思ったより進行が早い。もう……一ヶ月ももたないかもしれない」


 それを聞いても、特別な感情は湧かなかった。ただ、美咲の顔が浮かんだ。もう二度と会えない。そう思うと、胸が痛んだ。


 余命宣告から一ヶ月半。俺はもう寝たきりの状態になっていた。日記を書くのも一苦労だったが、それでも美咲への思いだけは書き続けた。


『今日も美咲のことを考えていた。あのメッセージを送った時の顔は見ていないけど、きっと傷ついただろうな。でも、これで良かったんだ。もう少しで俺はいなくなる。その時、美咲が悲しまなければいい……』


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 そして迎えた、医者が「おそらく最後の日」と言った朝。意識が朦朧とする中、病室のドアが開く音がした。母でもなく、美咲が立っていた。


「……美咲?」


 か細い声で呼びかけると、美咲は涙をこらえるように微笑んだ。


「おはよう、陽太」


 なぜ彼女がここにいるのか理解できなかった。あれだけ酷いことを言ったのに。


「どうして……ここに?」

「山田くんから聞いたよ。あなたが入院していること」


 やはり健太が話したのか。でも、不思議と怒りはわかなかった。もう時間がないことを、体が教えてくれていた。


「ごめん……あんなメッセージ」


 その一言しか出てこなかった。美咲は首を横に振った。


「謝らないで」


 美咲の瞳から涙がこぼれた。


「本当は、なんであんなことしたの? どうして一人で抱え込んだの?」


 俺は精一杯の力で、美咲の手を握った。冷たい自分の手と、温かい彼女の手。


「美咲と再会できて、本当に良かった」


 美咲は目を見開き、そして泣きながら言った。


「バカ……私、絶対に忘れないよ。陽太のこと、ずっと覚えてる」


 その言葉を聞いた時、不思議と心が軽くなった。もう何も残された時間はないのに、なぜだろう。幸せだった。


 美咲は俺の額に優しくキスをした。そのまま彼女の手を握りしめながら、俺は目を閉じた。心地よい眠りに誘われるように……

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