第6話 才能

 五月の終わり。チームとして形になってきたと本田監督が嬉しそうに言った。

 鈴音と和香、千早は左打ちの練習を始めた。ライトへの強い打球を和香が難なく捌き、ライトゴロにした。


「ナイス!」


 皆は、中学生の頃はまともに野球をできていないはずだったのに。由美がフライを落とさなくなってきた。中学ではバドミントンをしていたのに、凄いな。くるみも指名打者(女子高校野球は指名打者制。もちろん指名打者を使わないこともできる)にならないかと監督に打診され、打撃の練習にますます励んだ。くるみだって、中学では陸上部だった。


 六月になった。

 鈴音を起こし、ダイニングに行くと私達が一番最後だった。伊織なんかは食べ終わっている。


「怠いねー」


 和香がイチローの写真の下敷きを鞄に入れながら、心底嫌そうな顔をした。

 今日は一学期の中間テストの初日だ。部活が先週から停止されているという、最悪な時期。ここで練習をしなければ強くなれないのに。中学で野球をできなかった皆が頑張っているのだ。ずっと続けてきた私が一番頑張らないといけないのに。


 教室はどことなく緊張感が漂い、互いに問題を出し合って復習する男子たちもいつもと違い、声を潜めている。鈴音と席が離れているので、私は一人で黙々と教科書を読む。

 テストが三科目終わり、初日は無事に終了した。


「やばかった」


 鈴音が諦めたように笑う。


「赤点は大丈夫?」


「八十点いけなかったかも」


 鈴音のやばかったはそのラインか。ちょっとびっくりした。


「女子野球部はさあ」


 クラスの女子が話しかけてきた。


「赤点取ったらペナルティとかある?」


「無いよ」


 補習さえ終われば、すぐにでも部活に参加できる。


「いいなあ。うちらは罰走あるし」


 彼女たちはテニス部だ。


「てか、女子野球部めっちゃ楽しそうだよね」


「そうだね、楽しいよ」


 鈴音が愛想よくにこりとした。営業スマイルだな。


「女子で野球やってるって、珍しいよね。プロにでもなるの?」


 これには、鈴音も黙ってしまった。

 なんて返せばいいのかな、こういうとき。結局、私達が何も言い返せないうちに、彼女たちは去っていった。瑞貴なら、迷わず『そうだけど?』とか言うんだろうな。


 テスト週間が終わった。短期的に覚えた内容はそのうち忘れるだろう。

 プロになりたいよと、言えたらいいのにな。この言葉は忘れられないだろうな。


 その夜に瑞貴に電話をしたのは何故か、自分でもよく分からなかった。瑞貴が一年生なのにベンチ入りしたと聞いて、やっぱりなと思った。神戸光陽は部員五十人だ。


『頼だって戦力でしょうよ』


「うちは全員が戦力だから」


 五十人の中で、と考えると十一人の中にいる私はちっぽけに思えた。




 雨の日が続いて、私たちは少しだけかび臭い小さな室内練習場で筋トレの毎日を送っていた。ぱらぱらと外から雨音が聞こえ、室内ではがちゃんとバーベルを置く音が響く。そしてまた、持ち上げる。


 本田監督と野上コーチが持ち込んでくれた器具を順番に使う。順番を待つ間、私は腹筋や腕立てをするが、人によっては休憩している。だけどこれは悪いことではない。人によって合うトレーニング量が違うと本田監督が言っていた。

 よっ、とバーベルを持ち上げると、息を荒くして座り込んでいる鈴音と由美が、


「頼凄すぎ……」


「まだいけるの……?」


 と、弱々しく驚き、見上げてきた。

 皆もばてばてだ。でも確かに、私も筋トレを積極的にし始めた中一の頃はこんな感じだった。常に浩太より一回多く持ち上げるために浩太をじっと見ていたら、ストーカーかと言われたっけ。追い越そうとしていたのだからストーカーではないけどね。浩太から贈られたスパイクはそろそろ駄目になりそうだ。


 野球を愛するのなら、野球をするための練習やトレーニングも愛さなければならなかった。誰よりも愛そうとするなら誰よりも頑張る必要があった。『カナコ選手』の言葉を胸にそうしてきたけど、今はもう分かっている。『カナコ選手』が誰よりもトレーニングをしろと言ったわけではなく、私が勝手にしてきたことだって。


「はい、そこまで!」


 パン、と手を叩いて本田監督がストップをかけてきた。


「まだいけます」


「やりすぎは禁物だ」


 会ったばかりの本田監督は練習の適量を重要視するみたいだ。それ自体は監督として凄く頼りになる。


 だけど。


 練習終わり。外は重い雨雲のせいで夜中のように暗い。全員が帰った部室で私と監督はカードの整理をしている。誰かがカードに効率のいい自主練習法について質問している。誰かがケガ予防のマッサージについて聞いている。防ぐことは未然にしないと手遅れだ。



 だけど。


「才能がないんです、私は」


 幼い頃から分かっていた。


「才能がないなら誰よりもやらなきゃいけないと思います」


 外の雨音が強くなっていく。


「才能があるかどうかなんて、後から分かることだ」


 どこからか、雷鳴が聞こえた。


 後から?


「まずは、長く続けることだ。そのために長期的な目を持つんだよ」


 私は一体どのくらいの間、何も言えずにいたのだろうか。本田監督をどれほど待たせただろうか。雷鳴は気がつけば遠ざかっていて、雨音もまばらになっている。


「分かりました」


「うん」


 外に出て、時計を見ると思ったよりは時間が経っていなかった。雨雲は二つに割れて真ん中は静かな夕空だった。どこか上空から見下ろしたなら、私はどれほど小さいだろうか。後から分かるようになるまでにどれほどの日々を過ごすのだろうか。


 カナコ選手は自分が才能を持っているといつ気がついたのだろうか。高校で女子なのに野球部に所属して練習試合しか出られず、男子たちに睨まれた日々。弱小で試合もぎりぎりな大学の日々。コーチに見出され、過酷なウェイトトレーニングに励んだ日々。チームが解散。クラブチームで働きながら野球をして、ようやくプロに戻りトリプルスリー達成。レフトとして長く活躍しつつも、あちこち怪我を重ね、指名打者になり、最後は代打屋になり引退。


 才能があると分かっていなければ乗り越えられなかったんじゃないですか? 才能があると知らなくてもここまでできたんですか? 野球に愛されていないと本気で思った日々もあったんですか?


 夕空は夜の闇に染まっていく。


『野球の神様に愛されたいと思うんじゃない。こっちから野球を愛すればいい』


 カナコ選手も野球の神様に愛されたいと思っていたのだろう。そういうことなのだろう。


 カナコ選手の野球への愛は単なる練習量ではない。

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