罪人候補生《ギフテット・ワナビーズ》
瀧川伊織
プロローグ
それは、まるで天命を告げるように、昇りかけた朝日が滲む屋敷内に響き渡った。
「⁈」
微睡むような静寂に包まれていた早朝の空気を、突如盛大に鳴り響いた不快なハウリング音が切り裂いた。自室のベッドできままな夢の住人であった
「……なんっ、だ⁈ この音っ」
生まれて初めて聞く音を探すように、紫蘭は反射的に天井を仰ぎ見る。
「・・・・・・」
上から音が降ってきた気がしたが、見知った天井には当然何もなかった。早朝突然起こされたことに不機嫌なまま紫蘭は視線を戻すと、その原因を探すべく周囲に視線を走らせる。だがパっと見る限りでは昨夜眠りについた時から特に変わったものが増えた痕跡もなく、それはいつもの見慣れた光景でしかなかった。
(あんな音が鳴るようなものなんてあったっけ?)
「……?」
周囲に異変がないことを確認すると、紫蘭は気が抜けたように欠伸を一つ噛み殺す。どうでもいいか、と眠りに戻ろうとした瞬間、すぐ脇にある机の上で赤くチカチカと点滅しているランプを見つけ、半分閉じかけていた紫紺の瞳を思わず見開いた。
「あれって、たしか……」
それは普段物音一つ立てることのない、いわばオブジェと化した王室専用回線のモニターだった。紫蘭は前回いつそれが使われたのか思い出せもしなかったが、なぜか今それは非常時を告げるランプを煌々と光らせその存在をこれでもかと主張していた。
「……故障?」
紫蘭は一度訝しげに視線を細めてそれを見やると、すぐに小さく息を吐き警戒した瞳を解いた。いつの時代から置かれているのか分からない古めかしいそれの機械トラブルと結論づけそのままベッドへと倒れ込むと、柔らかな金色の猫毛が真っ白なシーツの上で気持ちよさそうに揺れる。大きな枕を抱き枕のように抱えながら小さく一つ欠伸を零すと、紫蘭は猫のようにゆるりと背中を丸めた。
(鳴るわけないよ。今日も平和に決まってる)
音の発生場所が分かると、けたたましい音を立てた非常サインは誤作動としか思えない。紫蘭はまだ煌々と光るランプが鬱陶しいと言わんばかりに目を瞑る。
(だって、今日も
光から逃れるように枕に顔をうずめると、紫蘭は自分の平和を確信しながら眠りへと戻る。
数か月前、紫蘭の父親である現国王が妃を連れて戦略的失踪、すなわち権力放棄の雲隠れをするという衝撃的な事件が起こった。突然国のトップがいなくなるという前代未聞の出来事に、国民の混乱必至なのは誰が口にしなくても言うまでもなかった。普段は国政に一切関与しない紫蘭でさえ、王が突然いなくなるというスキャンダルは国を揺るがす事態を招くだろうと、何もできない割に内心少し焦っていたのだ。
(でも、結局そんなことにはならなかった)
だが、王族やスタッフの混乱と心配を他所に、事態は国民に内情を気取られる前にあっさりと丸く収まった。その功労者は誰でもない、長兄の蘇芳・クジョウだった。
蘇芳はごく自然に国民に向け国王の長期休暇並びに自身の国王代理就任を宣言すると、それが以前から計画されていた当然の結果であるかのように、国民の前で自然かつ堂々と玉座に座った。その姿は急場しのぎで取り繕ったようにはとても見えず、現国王側近の老中達が口を挟む隙も無いまま現実となり、イラプセル王国は混乱を招くことなく現在も平穏を保っている。
最近起こった最たる緊急事態はそれであり、それですら結果として内輪のざわつきで収まったのだ。世情に疎い紫蘭ではあるが、今現在自分の住む王宮があの時程騒がしくないことくらいは把握しているので、国はどう考えても安泰しているはずだった。だから非常回線で何か連絡が来るようなことが起こるはずもなく、故障は後で誰かが直すだろう、と枕を抱えた紫蘭が呑気にベッドで寝返りを打ったその時。
『あーあー、おまえたち、聞こえてるか?』
「⁈」
ヴン、と電源の入る音が聞こえると同時に、非常を告げる赤ランプが消え、代わりにモニターにパっと映像が映し出された。紫蘭は視界の端に映る画面の明るさに今度は何事かと片肘をついて半身を起こすと、モニターには声の主である蘇芳の、クセの強い黒髪と琥珀の瞳がドアップで映っていた。
『映ってるな? えー、突然ですが、僕、蘇芳・クジョウは、一身上の都合により国王代理を辞めることにしました』
「…………はぁっ⁈」
長兄ではあるが幼さの滲む顔で蘇芳がそう言うと、突然告げられた爆弾発言に紫蘭は思わず飛び起きた。一瞬で眠気も吹っ飛んだ勢いのままモニターへと詰め寄ると、その場に蘇芳がいる訳ではないと分かりつつも、問い質すようにがっちりと両手でモニターを掴む。今一体何が起こったのか脳が理解を拒否する中、モニター越しの暴君は構わずに喋り出す。
『というわけで。次期国王を決める為に
「なっ……」
蘇芳の一方的な演説が終わると、モニターはまたヴンと音を立ててその電源を落とした。あれほど鬱陶しくチカチカとしていた赤いランプも、すっかり色を無くして大人しくなっていた。つい今しがたの喧噪が嘘みたいに静けさを取り戻した室内で、紫蘭は取り残されたようにモニターを掴んだまま呆然と立ち尽くすしかなかった。
「え? 待って、え? 何? 今の……は? 蘇芳?」
まとまらない思考に言葉未満の言葉を零しながら、紫蘭は落ち着きなくウロウロと無駄に部屋の中を歩く。
(まってまってまって。今なんて? 辞める? 国王を? なんで?)
出口のない思考がグルグルと脳内を埋め尽くすと、紫蘭は手に持っていたモニターをベッドの上に投げ捨て、衝動にまかせて床を蹴り踵を返す。
(は? いきなり何言い出してんのっっ⁈ わけわかんないんだけどっっ‼)
紫蘭は自分の部屋を勢いよく飛び出すと、蘇芳がいるであろう部屋を目指し走り出した。
(突然どうしちゃったんだよっ、蘇芳っ‼)
蘇芳は天上天下唯我独尊、横暴を具現化したような男ではあったが、女好きの父親のせいで膨れ上がった
(なんで辞めるとか言い出してんのっ⁈)
理由も告げられないままの突然の引退宣言はまだ
(だって、蘇芳が自分の言葉を曲げるわけない)
つまり、イラプセル王国はこの短期間で二度も王を失うことになるのだ。
紫蘭は込み上げてきた漠然とした不安に無意識に下唇を噛んだ。
「蘇芳っっ‼」
紫蘭は逸る気持ちで蘇芳の執務室の扉を勢いよく開けると、その勢いに側近達がぎょっとした表情で慌てて紫蘭へと駆け寄ってくる。
「紫蘭様っ、蘇芳様は今公務中ですのでっ……」
「はあっ⁈ だからなんだよ? 俺は蘇芳に話があんのっっ‼」
うるさいと言わんばかりに不機嫌に表情を歪める紫蘭に側近達が怯むと、その様子に蘇芳が小さく息を吐いた。
「……ああ、いいよ。可愛い
困り顔の側近たちに視線を送ると、蘇芳はそう言って黒の革張りの椅子から優雅に下り、静かな足取りで紫蘭の方へと歩いてきた。紫蘭を体を張って押さえていた側近は蘇芳の言葉にその体勢を解くと、紫蘭は余った勢いでつんのめるように数歩蘇芳の方へと近づいた。下がった視線を上げるついでに蘇芳を見ると、早朝にも関わらず普段通りのスーツ姿は、寝間着のまま裸足で走ってきた紫蘭とは大違いだ。視線がクセの強い黒髪の長髪とその隙間から覗く黄金色の双眸を捉えると、そこから醸し出される堂々とした王者の風格に、紫蘭は義兄とはいえ思わず一瞬怯み息を呑んだ。
(……)
「で。僕の可愛い義弟は、こんな朝早くに一体何しに来たんだ?」
「……なにって……さっきの放送、どういうことだよ、蘇芳‼」
琥珀の瞳にすっかりと射竦められていたが、蘇芳の言葉にはっと目的を思い出すと、紫蘭は大声で蘇芳に詰め寄った。蘇芳はその様子に不機嫌に目を細める。
「お・に・い・さ・ま、だろ? それに、王である兄の僕を見下ろすなん無礼が過ぎるぞ、紫蘭」
「はあっ⁈ 今まで一度も呼んだことないだろっ。ていうか、見下ろすって、俺の方が背が高いんだからしかたがな」
「それは、僕が小さいって言ってるのか? おまえが無駄に育ち過ぎただけなのに?」
蘇芳は紫蘭の言葉に被せるようにそう言うと、目線を合わせる様に紫蘭の胸倉を掴んで自分の方へと引き寄せにっこりと笑ってみせた。
「……す、蘇芳の言う通り、です」
「うん。わかってるならいいよ。で、さっきの放送がどうしたって?」
蘇芳は紫蘭が非を認めると、満足そうな笑みを浮かべすぐにパっと手を放した。紫蘭は掴まれていた寝間着の襟元を直しながら、困惑と不満を織り交ぜた視線を蘇芳へ向ける。
「どうしたって? て、どうかしかしてないじゃん。なにあれ。蘇芳が王様辞めるとか、ゲームがどうとかって、意味わかんないし」
蘇芳はじっと紫紺の瞳を見つめると、不思議そうに一度瞬いた。
「わかってるじゃないか。僕が国王を辞めるから、ゲームで
「っ……何が普通の、だよっ! 蘇芳だってこの前代理になったばっかなのになんでもう王位交代の話になんのっ⁈ それに、ゲームってなんだよっ?」
(まじで意味わかんないし)
何かの悪戯だとしても、何のためにそんなことをするのか理解が及ばず、結果として意味がわからない、としか表現のしようのない思いの丈を吐き出した紫蘭の姿を、蘇芳の琥珀の瞳がじっと見つめていた。感情の読めぬそれに、紫蘭は無意識に唇を結ぶ。蘇芳はぐるりと目の玉を回すと、うんざりしたように息を吐いた。
「面倒なんだよ。それに、おまえが訂正してくれた通り僕はあくまでも代理だからね。正式な王を選ぶ手順を踏むことを選択するのは、意味が通ると思うけど?」
じとりとした視線と共に向けられた正論に、紫蘭は追い詰められたように眉間にしわを寄せる。
「それはっ……でもっ、今更そんなこと言い出すなら、なんであの時っ……」
「代理になったのかって? じゃあおまえが、おまえたちの誰かが、あの時僕の代わりに王座に座ったか?」
「それは……」
蘇芳の淡々とした口調に、紫蘭は言葉に詰まる。
(でも、だってそれは蘇芳の……)
「僕の義務だ、と言いたいのか?」
「‼」
まるで紫蘭の心を読んだような蘇芳の言葉に、紫蘭は驚きで目を丸くする。おまえは本当にわかりやすいな、と蘇芳は半ば呆れたように言葉を零した。
「確かに、突然の王の不在の後始末は長兄である僕の義務だ。だからこそ僕はその通りに行動し、国民の誰一人にすら気取られることなく玉座に座った。既に役目は果たしただろ?」
蘇芳は紫蘭の瞳を真正面から捉えてそう言うと、くるりと踵を返した。先ほどまで座していた執務机の方へ向かう蘇芳を紫蘭も釣られるように追いかける。そして言葉通りごく自然に椅子に腰かけると、蘇芳はゆったりとした仕草で足を組んだ。向けられた視線に紫蘭ははっと足を止めると、机越しでも感じる蘇芳の圧に思わず背筋を伸ばす。
「だから次は、もう一つの僕の義務として、正式な国王を選ぶんだよ」
「……」
上手い反論の言葉が浮かばず立ち尽くす紫蘭を数秒じっと見つめると、蘇芳はもう飽きたと言わんばかりに先ほど中断した執務を再開すべくモニターへと視線を移した。それを合図に、二人を見守っていた側近達が紫蘭を引きはがそうとわらわらと二人の間の空間へと割って入る。
「……なんで? なんで蘇芳が続けないの?」
(それが正解だって蘇芳だってわかってるくせに)
まるで迷子のように紫蘭は困惑に眉根を寄せて蘇芳を見る。長兄だから、ということがなくても、蘇芳は誰よりも優秀で誰よりも王の資質を持っていることは誰の目から見ても明らかだった。代理に就いた時に混乱を招かなかったのが良い証拠だ。
「蘇芳が、一番相応しいのに」
それは紫蘭の本音だった。国民の総意と言っても過言でないそれを、蘇芳はじっと感情の籠らない瞳で見ていた。
「できるからって、僕がやらないといけないのか?」
(え?)
予想外の言葉に紫蘭がぱちりと瞳を瞬かせると、蘇芳の言葉が被さるように続く。
「まあ、だから実際一度やっただろ。そして今その僕が、僕の持つ権利を行使して新たな王を選ぼうとしてる。そこに、何者でもないおまえたちが意見を挟む余地なんかないんだよ」
「っ……」
静かに向けられた正論に紫蘭は言葉を詰まらせる。
(それは、確かにそうだけど……でもっ、蘇芳以外に誰がやれるんだよ?)
脳裏に浮かんできた異母兄弟姉妹たちの顔ぶれに、自分の平和が脅かされる予感しかなく紫蘭は表情を曇らせる。蘇芳以外の誰がなっても、もう今と同じ平和が訪れないのは明らかなのだ。
「気持ちはわからんでもないが、始まる前からそんな不安そうな顔するな。そうならないように、これから決めるんだろ」
「……ゲームで?」
(だからそれが一番不安を煽ってる原因なんだってばっ!)
ほんの僅かだけ形式的に同情を乗せた言葉が紫蘭の不安を払拭するはずもなく、紫蘭が訝しげに目を細めると蘇芳は面倒くさそうに椅子の肘掛けに頬杖をついた。
「そう。ゲームで。ゲームって言葉が気に入らないんだろうけど、王家に伝わる由緒正しいゲームだよ。おまえが考えてるようなただの遊びじゃないさ。それに、おまえ他人事みたいに言ってるけど、おまえも候補の一人、参加者なんだからな?」
「……」
(王家に伝わる由緒正しいゲームってなんだよ。それがもう胡散臭いんだよ……)
蘇芳が念を押すように紫蘭を見やると、紫蘭はあからさまにその視線を逸らす。
「…………やだよ。俺やんないから」
「は? なんか言ったか?」
紫蘭が唇を尖らせてぼそりとそう零すと、聞こえませーん、と蘇芳がわざとらしく耳に手を当てた。その姿に紫蘭はまた一瞬怯んでしまったが、ぐぐぐと奥歯を噛んで持ちこたえると、
「蘇芳が勝手にゲームするのはわかったけど、俺はやんないからっ‼ だって別に国王とか興味ないし、ゲームなんて面倒だしっ、それに、どうせ負けるに決まってるんだから、だったら最初からやるだけ無駄だし。ゲームなら、棄権したっていいんでしょ? だったらそうする」
まるでその言い訳に正当性があるかのように堂々とそう言い放った。唇をへの字に曲げ不満を表す紫蘭に、蘇芳は頬杖をついた姿勢を保ったまま無表情な感情のない視線を寄越す。
「……で?」
「え?」
無感情な蘇芳の相槌に、なんとなく肩透かしをくらった気がして紫蘭はぱちりと紫紺の瞳を瞬いた。
「おまえの言いたいことはそれだけか? じゃあもうこの話は終わりだな」
「え? えっと……」
(あれ? これって、どういうこと?)
話を畳もうとする蘇芳に紫蘭は言葉に詰まった。今までであれば、そうかわかった、と二つ返事で返ってくるはずの蘇芳の言葉が一向に返ってこないことに紫蘭は動揺を隠せず視線を揺らす。蘇芳はその様子に呆れたように大きく息を吐きだすと、馬鹿にしたような視線を紫蘭へ投げる。
「やりたくないならやらなくて良いって言ってもらえるとでも思ったか?」
「!」
図星を突かれ息を呑んだ紫蘭に、蘇芳は嫌そうに顔を歪め首を振った。
「はあ……やっぱりそうか。僕は最近、おまえを甘やかしすぎたことを後悔してるんだ」
「なっ、甘やかしすぎたって……」
しみじみと言う蘇芳に反射的に反発の声を上げたが、すぐさま蘇芳から飛んできた鋭い視線に、紫蘭は思わず口籠る。
「まさか、甘やかされていた自覚はありません、なんて言わないよな?」
「……」
揺れる紫蘭の瞳の前に、蘇芳がまた大きな溜息を吐いた。
「さっきも言ったけど、おまえに拒否権なんてないから」
「え?……」
この期に及んでまだ紫蘭の口から零れた戸惑いに、蘇芳が苦虫を嚙み潰したような顔をして口を開く。
「公務もせず、王室行事もほぼ参加しない。何もせずにダラダラと毎日過ごしているだけを黙認してやってたのは、おまえの中では甘やかしすぎとは言わないのか。そうかそうか」
「それは……」
突きつけられた事実に紫蘭が口籠ると、蘇芳は、ほら否定できないだろ、と冷めた視線を紫蘭へと寄越す。
「僕も今まではそれでいいと思ってた。数が多いから微妙だけど、おまえは可愛い末弟だからな。伸び伸びと生きてくれればそれでいいと思ってたよ」
打って変わって蘇芳は慈愛に満ちた表情を見せたが、一瞬にしてまた無表情へと戻る。
「でもさ。よくよく考えたらそれはおかしくないか? て思ったんだ。生まれた順番が違うだけで、年齢もそれほど変わらない僕たちは、こんなにも不平等なのか? ってね。おまえは、一度だって僕に労いの言葉をかけたことはあったか?」
「……」
言葉を発することのできない紫蘭に、蘇芳はうっすらと目を細めた。
「だからちょうどいい機会だから、そろそろおまえたちに、おまえに、自分が王家に生まれた自覚を持ってもらおうかと思ったんだ。ほら可愛い子には旅をさせろって言うだろ? 僕はおまえが可愛くて仕方ないからね。だからこれは、僕からおまえたちへの愛情表現なんだ」
蘇芳は全く感情の籠ってない笑顔を向けると、紫蘭の瞳を真正面から捉えた。逃げることを許さない琥珀の瞳に、紫蘭は見えない何かに雁字搦めにされて動けなくなったかのように体を硬直させ、無意識に息を呑んだ。
「だからまあ、頑張れよ」
「……!」
ふっと蘇芳の頬に笑みが浮かんだ瞬間、見えない力に解放されたような感覚にそのまま蘇芳に詰め寄ろうとしたその時。パチン、と紫蘭の手が蘇芳に届く前に弾かれた。
「
突如自分と蘇芳の間に現れた見えない壁に紫蘭が驚きに目を見開くと、その、目には見えない壁の向こうで蘇芳が笑った。
「これでも僕はおまえに期待してるんだ。お兄ちゃんを悲しませないでくれよ? それに、いい加減おまえの
蘇芳はそう言うとひらひらと手を振り、もう紫蘭に興味が無くなったと言わんばかりに視線をまたモニターへと戻した。紫蘭はこちらを見ない蘇芳に眉間に皺を寄せる。
(期待? 今更なにを……)
「……なんだよ。俺に死ねって言ってんの?」
阻まれた透明な壁に静かに拳を打ち付けると、紫蘭は不機嫌に顔を歪めたまま蘇芳を見た。見下ろすような姿勢に蘇芳は一瞬不満気に眉根を寄せたが、すぐにまたモニターへと視線を戻して口を開いた。
「そう聞こえたか? 僕は応援したつもりだったんだけどな」
「……俺の
紫蘭は続く言葉を飲み込んで苦しそうに口を噤んだ。蘇芳はモニターから視線を上げると、満足気ににっこりと笑った。
「思ったよりちゃんと話を聞いてたんだな。感心感心。もちろん僕はそのゲームをしたことないからわからないけど、まあ十中八九
「だからっ‼」
「じゃあ死ね」
「⁈」
不満気に声を荒げた紫蘭を一瞬で黙らせるような冷たい声で蘇芳はそう短く言い放った。強い言葉に紫蘭は反射的に紫紺の瞳を大きく見開く。
「
「……」
(そんなわけあるかよ)
「不服そうだな?……まあでも、確かに試す前から諦めるような奴は、ゲームに勝てるわけもないから死んだ方がマシかもな。僕の見込み違いだったってわけだ。残念残念」
眉間にきゅっと皺を寄せたままの険しい表情の紫蘭に、蘇芳はやれやれと言わんばかりに小さく肩をすくめた。だが次の瞬間、その仕草に、紫蘭はふっと悲しげに眉を下げる。
「……なんでそんなに酷いこと言うんだよ、蘇芳」
(知ってるくせに。俺の、
しんとした室内に、紫蘭の悲壮感を帯びた言葉が落ちた。確かに今まで蘇芳任せで何もしてこなかったことに関しては言い訳はできない。でも。
(できる人にやってもらうのは、そんなに悪いことなのか?)
自分がその対極に存在しているのは、この目の前の見えない壁が証明している。できないからその場にいないことは、そんなに悪いことなのか? 見えない壁の前でぐっと何かに耐えるように眉間に皺を寄せた紫蘭に、蘇芳が、あ、とわざとらしく声を上げた。
「そういえば、おまえ達にはパートナーがいるって伝えるのを忘れてたな。どうせおまえ暇だろ? 今から会って来いよ」
「……は?」
「第一印象が大事だからな。その寝間着の着替えは僕がサービスしてやるよ。ああ、僕はやっぱりおまえに甘いなあ」
突然の話題転換についていけず、紫蘭はぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「え? 何言ってんの? 蘇芳?」
(パートナー?)
芝居がかった台詞と共に蘇芳は一度かぶりを振ると、琥珀の瞳が紫蘭を捉える。
「さあ、会いに行ってこい。おまえの
(
蘇芳の口から飛び出した意外な言葉に紫蘭の思考が一瞬止まると、蘇芳の形の良い指先がスッと紫蘭へと向けられた。紫蘭が奪われるように視線をそれに合わせると、次の瞬間、フっと足下の感触が消える。
「うわっっっ……‼」
紫蘭は咄嗟に何かに縋るように右手を伸ばしたが、それは虚しく空を掴んだ。重力に引かれるように紫蘭の体は突然床に空いた真っ黒な穴へと引きずり込まれると、頭上に見えていたかすかな光もあっという間に閉じて見えなくなった。その為、
「……あれ?
と執務室で首を傾げた蘇芳の呟きなど、聞こえるはずもなかった。
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