第7話 大学祭
いつも通りアルバイト先の玄関の扉を開けた。
「おはようございまーす」
拓海が入室したやいなや、気配を感じ取った子供たちのどたどたという足音と、扉が強く開け放たれる音が聞こえてきた。
『先生おはようございます!』
子供たちが元気に手話であいさつをしてくれた。
『おはようございます。みんな今日も元気でいいね』
靴を脱いで奥の部屋へ入ろうとした時、玄関のチャイムが鳴った。
『お客様が来たから、みんな先に入って』
子供たち全員が扉の奥へ入ったことを確認すると、拓海は返事をしてから扉を開けた。
「あ、おはようございます野々さん」
玄関先にいたのは由美とその母親だった。
「おはようございます。本日もよろしくお願いします」
「任せてください」
拓海はしゃがみ込み、由美と視線を合わせる。
『由美ちゃんもおはよう』
『お、おはようございます……』
由美はそう手話をして、母親の後ろに隠れてしまった。
「何かありました?」
拓海は顔を上に向けて母親に尋ねる。
「この子から聞いてください」
母親も腰を下ろし、由美と視線を合わせる。
『自分で言うんでしょう?ほら、頑張りなさい』
背中を押されて、由美はおずおずと拓海の前に出てきた。
『あのね』
『うん。なにかな?』
「うー」
由美は小さな声を漏らす。
『拓海先生とおしゃべりの練習したいの!』
拓海は小首をかしげた。
『おしゃべりなら今してるよ?』
『違うの!声を出しておしゃべりしたいの!』
由美の言葉に、拓海は瞳を丸くする。
声を発して話せない由美にとって、言葉と声を習得するには相応の努力と時間を要するだろう。
どうして?と聞く。
『拓海先生の声に応えたいの!聞こえないけど……でも普通の人みたいにおしゃべりしたいの!』
嬉しい願いに、拓海は驚きと温かい気持ちを抱く。
『ありがとう。俺嬉しい』
『本当?』
『うん。俺でよかったらいつでも練習付き合うよ。頑張ってお話しできるようになろうね』
由美の顔が華やぐ。ぎゅっと抱きしめられて、拓海は頭をなでる。
拓海は立ち上がり、扉を開ける。
「では、本日もお預かりいたします」
「はい。よろしくお願いします」
『ママ!お仕事頑張ってね!』
娘からの声援に、母親は気負いを入れるポーズをとって頷いた。
由美の母親の背中を見送ってから、二人は部屋へと入った。
拓海は準備のために別室へ。由美は他の子供たちと遊びに興じ始めた。
「おはようございます、好子先生」
荷物を置いてエプロンを付けた拓海は、茶菓子を準備している好子へ声をかけた。
「おはようございます。本日もよろしくお願いしますね」
「任せてください!……あ、そうだ。好子先生、一つお願いがあるのですが、よろしいでしょうか」
「はい。何でも聞いてください」
拓海は先ほど野々親子とした話を伝えた。
「――それで、視話法を試してみたいのですが、よろしいでしょうか」
「視話法?……ああ、ベルさんの創られたものね」
視話法は、発音器官を使用した発声練習方法だ。
「はい。もう使われていませんし、日本語だと難しいとは思うのですが。……でも!これでも勉強して知識はあるんです!簡単なところからでいいので、やらせてもらえませんか」
お願いします!と、拓海は頭を下げる。
「いいですよ」
「本当です!?」
「ええ、そんな大事な事故が起きるわけではありませんから。安全にできれば大丈夫ですよ」
拓海は嬉しくてガッツポーズをとる。
好子は嬉しそうに軽く笑う。
拓海は礼を告げてから、子供たちのいる部屋へ向かった。由美は窓の外を眺めながら手を振っている。
不思議に思いながら拓海は彼女の方へ向かう。途中子供たちに止められるが、外にいる人物の正体を確かめなければ、安心できない。
彼女の母親は今は仕事。父親は出張でいないはずだからだ。それに、由美が窓の外へ手を振るなどしたことがなかった。
拓海は由美の肩を軽くたたく。
由美は顔を上げた。少し恐怖の色を浮かべていた。
『誰がいるの?』
『この間のおじさん』
そう言われて窓の外を見やる。
『あれ?いないね』
ほんの少し目を離した間にどこかへ行ってしまったのか、そこには誰もいなかった。
『どうして手を振っていたの?』
「んー」
由美は声を鳴らしてから答えた。
『なんかね。お外見たら手振られたから』
拓海は悩む。由美が言っていたのはおそらく忠義だろう。以前もここに来ていたが、何の用で下から見上げているのかは知らない。不気味ではあるが、何もしてこないに越したことはない。
『とりあえず。声かけられてもその人に付いて行ったら駄目だからね』
『はい!』
由美にはほかの子たちと遊ぶように促し、拓海は視話法の事前準備に取り掛かる。
勉強はしてはいるものの日本語用の資料が手元にないので自分で作るしかない。
今後の資料作成の練習としても今のうちに使えるものを作りたい。他の子にも使ってほしい、そう思いながらペンを走らせた。
「拓海さん。そろそろ上がって大丈夫ですよ」
奥の部屋から好子が顔をのぞかせる。
紅い空が消えかかる時間。子供たちもすでにほとんどが親元へ帰った。
残っているのは由美と男子二人と女子一人。先ほどから拓海は子供たち四人と一緒に手遊びをして遊んでいる。
「いえ、この子たちの親御さんが来るまでいます」
「でも……」
「楽しいので大丈夫ですよ」
拓海は目の前の子供たちの遊びの様子を微笑ましく見守る。
今はそれが嬉しく楽しい。
今この子たちを大事にしたい。願わくば、大人になるまで見守ることができることを願う。
文化祭前日。大学内はどことなく色めき立っていた。
「今回の進行は高野に任せてよかったんだよな」
部長が最終確認のために尋ねてくる。
「はい、大丈夫です。俺のバイト先の先生にも手伝っていただきますので」
「よくもまあ、ろう者との交流会なんて思いついたな」
副部長が感心したようにつぶやく。
「もっと関心を持って、難聴がどういうものなのか理解してもらいたいので。俺今回はほんっとうに気合入れて企画したんです!」
好子との話し合いの末、預かっている子供たちの両親と本人との面談を経て来てもらうのだ、何かあってはいけない。
何より、ろう者のことをもっと知ってほしい、という両親の想いも預かっている。
この交流会で子供たちにも様々な人がいることを知ってもらいたい。そう思ってもいる。
大学祭当日。大学内外から大勢の人がやってくる。
拓海はいつもの部室兼講義室で、子供たちと戯れていた。
「みんなかわいいねー」
女性部員が一人の女の子の頭をなでながら言う。
「俺きちんとろう者と手話したの初めてかもしんね」
男の子と手話で話をしていた男子部員が楽しそうに独り言ちる。
部員は各々子供たち、そして付き添いとして来てくれた親御さんとの話を広げていた。
「やっぱり当事者のお話聞くのが一番いいよね」
拓海の隣で現場を見守っている夕灯が呟く。
「それが目的の一つだから。やっぱり空想じゃダメなんだ。実際に触れないとわからないことが多すぎて。俺も実際今のアルバイト始めるまで本で読んだことくらいしか知らなかった。子供たちと出会って、親御さんの話を聞いているうちに、色々な大変さを知って、知らなかった福祉のことも、国がどれだけの支援を行っているのか。色々知れたから、俺は今も手話通訳師を目指してる」
「そっか、なんか格好いいね。強い夢があるの。何があっても生き抜けて行けそうな強い意志。私大好きだよ」
甘い笑顔に、拓海の頬は緩む。好きだと言ってもらえるだけで心安らぐ。この人と一緒にいたいと思う気持ちが強くなる。
「青いわー」
好子の声を聞き、驚き、彼女の方へ振り向いた。
「青春よね。いいわー。私もあの人退院したらデートに誘おうかしら」
拓海と夕灯は顔を見合わせて気恥ずかしそうな笑顔を向けた。
大学祭が始まって三時間ほどが経った。
来客は一時間に十人は来てくれているだろうと思われる人数は来てくれている。
外から来た人たちは福祉について学び、子供たちも大学生たちと触れ遊んでいた。
福祉系の教授たちも様子を見に来て、様々な話を聞いたり助言をしたりなどをして、各々充実な時間を過ごしていた。
講義室の端で様子を見守っていると、拓海の服の裾を由美に引っ張られた。
『どうしたの?みんなと話しておいで』
拓海は腰を低くして由美に前に出るように促すが、彼女は頭を左右に振って拒否する。
「由美人見知り激しいけど、ここまではないわ」
由美の母親がそう言う。
「何か怖いのかも」
父親が由美の頭をなでながら言う。
父親の言葉に、拓海は顔を上げて眉を顰める。
顔を下げて由美の肩をたたく。
『由美ちゃん。何か怖いの?』
由美は瞳を濡らして今にも泣きそうだった。
先ほどまでは平気だったのに、一体何があったのか。
三人は困惑するが、何か彼女をそうさせるのか、今この状況ではわからない。
『ねえ、由美ちゃん。お外行こうか』
由美はずっと拓海に濡れた瞳を向けて怯えている。
『航がいるはずだから、会いに行こうか。航なら大丈夫だよね?』
由美はこくこくと頷く。
『ここヤダ。お姉ちゃん嫌いなの……』
お姉ちゃんと言われ、ふと夕灯の方を見やる。
夕灯は拓海の後ろにいるから由美の小さな手話は見えなかっただろうが、由美がこれほどまでに彼女のことを嫌っている理由が分からない。
『じゃあ、一回お外出ようか』
由美はこくりと頷いた。
「お母さん、お父さん、これから航に会いに娘さんを連れたいのですが、よろしいでしょうか」
野々家の三人は何度か航に会ったことがあるので、彼がどのような人物なのかは知っている。
「私付いて行くわ」
「私は教授の話を聞きたいから残るよ。由美をよろしく」
拓海と由美の母親は彼女を連れて講義室を去ろうとする。
「拓海君……」
「ごめん夕灯さん。ちょっと外出てくるから」
「う、うん。こっちは任せて」
夕灯はどこか寂しそうな表情を浮かべて三人を送り出した。
航がいる場所は大体予想がつく。
拓海は二人を連れて本館二階の講義室へ向かう。
講義室へ着くと、拓海は出入り口の扉を開けた。
「航ー?」
明るい講義室には複数人の学生がおり、大きな用紙を広げて話し合いを行っていた。
「あー?……拓海か。少し抜けます」
「はいよ」
航は速足で拓海のもとへ駆けつけ、四人で講義室を出た。
「拓海ー!会いたかったぜー!もう提出物が煮詰まって息苦しかったんだよ!あー、本当にお前ってやつはいいタイミングで来てくれるよな」
ガシガシと拓海は頭を撫でられる。
「いたいいたいいたい」
拓海は解放されると髪型を整えながら顔を上げた。
航は眼の下に薄く隈を作っており、疲弊しているのが分かる。
「大丈夫か?」
「あー?平気平気。ったく、今回のリーダー完璧主義すぎて、ちょっとしたことでも文句言ってくんだよ。全員こんな具合だよ」
教育学部が何を作っているのかはよくわかっていないが、隈を作るほど大変なのはわかる。
航はズボンを食いっと引っ張られる。
下を見てみると、由美が嬉しそうな顔で航のことを見上げていた。
「おー由美ちゃん。ビラ配りぶりー」
航は由美を抱き上げて、軽く頭をなでる。
「ふふふ」
由美は嬉しいのか軽く声が出る。
「子供ってかわいいよなぁ。癒されるわ」
幸せそうな表情を見て、本当に子どもが好きなんだと伝わる。
するとどうしてもなぜ学校の先生という職をあきらめて、警察へ行くとの判断を下したのか、拓海には全くわからない。
「んで?何しに来たんだ?お前今年主催だろ」
航に聞かれ、拓海は正直に先ほどあったことを話した。
「……ふーん」
曖昧な返事をした航はチラッと由美母の方へ視線を送る。
彼はポケットに入れていた財布を取り出し、拓海へ差し出した。
「飲み物買ってきてくれ。何でもいい。四人分な」
「え、なんで」
「今の俺に由美ちゃんと離れろと!?この癒しの時間を俺にもう少しくれよ!」
「わ、分かったよ。よっぽど疲弊してるんだな」
「何週間やってると思ってるんだ!」
「分かったから落ち着け。お二人も何でもいいですか?」
「ええ、何でもいいわ。ありがとう」
拓海は飲み物の種類が豊富な上階へエスカレーターを使い向かった。
エスカレーターから三人の様子を見てみると、航が真剣な表情で、由美母へ何かを語りかけていた。
最近の航のことが、拓海は時々わからなくなる。
何を考えて行動し発言しているのか。知らない親友の姿に違和感を覚える。
自動販売機でジュース二本、お茶を二本買って三人がいる階へ戻ってきた。
「お茶とジュースどっちがいい?」
拓海は由美へ同じことを手話で伝えた。
『リンゴジュース!』
拓海は持っていたリンゴジュースを由美へ渡し、母へは麦茶、航へは炭酸ジュースを渡した。
拓海は緑茶を喉へ流し込み、一息つく。
「さっき、何話してたんだ?」
聞いていいのか悩んだが、どうしても気になって尋ねる。
「俺と同じ雰囲気を肌で感じている人がいた、ってだけだよ」
「……よくわからない」
「分からないように言ったからな」
少しその場で駄弁っていると、次はどこに行くのか、との話になった。
航にい合いに来ただけなので、他に回る予定は考えていなかった。
「ないなら競技館にでも行くか?運動部がいろいろ遊べる催し出してるだろ」
それがいいかと、拓海は由美へ確認の手話を行う。
由美は満面の笑みで、頭を縦に振った。
『行く!航お兄ちゃんは好き!』
「そっか。航ー、由美ちゃんが好きだって」
「えー、マジ?俺も好きー」
航はわしゃわしゃと由美の頭を撫でた。
四人は競技館へ向かう。
道中の屋台でいくつか食べ物を買い、食べ歩きしながら向かう。
競技館では楽しげな声が響き渡っていた。
いくつものゲームが用意されている。
拓海たちは子供でもできる催しのもとへ向かい、由美が飽きるまで遊んだ。
途中休憩をはさんで食堂へ行き、駄弁りながら楽しく食事を済ませた。
『楽しかった?』
拓海は由美へ話しかける。
『うん!拓海君ありがとう!』
由美は航の方へ振り向いてお辞儀をする。
『航お兄ちゃんもありがとう!大好き!』
航は手話をゆっくりと解読する。
「……うーん、あ!あるほど。俺も楽しかったよ。ありがとう」
航は口をゆっくり動かして伝えた。由美は満面の笑みを向ける。
「良かったなー。大好きに昇格されたぞ」
「え、マジ?そこまで読み取れなかった。ありがとーう!俺も大好き!」
大声で思いを伝え、小さな体を抱きかかえる。
由美に聞こえはしないが、彼女は航が嬉しい思いをしていることは肌で感じている。
由美の顔からはすっかり不安と恐怖の色は消えていた。
やはり子供は笑顔が一番だ、という思いを胸に、拓海は手話サークルの講義室へ戻った。
由美は寂しそうな顔を向けるが、あそこには戻りたくないのだろう、航の傍から離れようとしない。
「ごめんね、航君」
そういいながら、由美母が娘を引きはがそうとする。
『由美、航君は用事があるのよ。離しなさい』
母にそう言われても、由美はぶんぶんと左右に頭を振る。
「大丈夫ですよ。時間があるならもう少し遊びましょう」
「でも、抜け出してきたのでしょう?いけないわ」
「大丈夫。もう少し遊びますよ」
そういいながら、航は由美の頭を撫でて、遊ぼう、との旨を伝える。
由美は嬉しくて、航から降りて辺りをぴょんぴょん跳ねる。
「ごめんなさいね」
『拓海君バイバイ!』
『うん。またね!』
「色々終わったらまた遊ぼうな!」
「ああ!今度は俺の家で遊ぼう!」
拓海は手を振って手話サークルのいる講義室へ戻った。
講義室へ着くと扉を開け、声をかける。
「遅くなりました」
「遅すぎる」
圧のかかった部長の恐ろしい顔が、拓海の目の前にずいっと押し出される。
「す、すみません」
「もうすぐ終わりだから、さっさと片づけの準備しちまえ」
「はいー……。任せてしまって申し訳ない」
「分かってるならいい」
部長は顔をそらせて、他の部員隊の方へ向かう。
「楽しかった?」
一息ついた拓海の傍に、夕灯が近づいてくる。
「うん。楽しかったよ。航も十分楽しめたみたいだし」
「そっか」
夕灯はどこかさみしそうな表情を浮かべながら他の部員たちのもとへかけていく。
彼女を置いて行ったことが原因なのか。由美に嫌われていることをわかっているのか。理由はいくつか思いつくが、拓海はどうすれば良かったのかわからない。
夕灯も、航も、由美も、拓海にとってはとても大切で離したくない、なくしたくない存在だ。それは変わらない。変わらないからこそどうすればいいのかが分からない。
「こんなに、難しかったのか」
終了時刻になり、全員で片づけを始めた。
帰りには夕灯とともに帰り、いつも通りの雰囲気で会話をして十分楽しめた。
これでいい。
これがいい。
拓海はそう思う。
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