片思いが実る時

北嶌千惺

第1話 【それ】に向けて進み始める時

 秋深まる時期。すでに半そでを着る人はほとんど見ない。

「寂しい」

 男が講義室の後ろの方で呟いた。

「何が」

 隣に座っている福祉学部の高野拓海がだるそうに尋ねる。

「女子の肌が見えないー」

「どうでもいい。聞き飽きた」

 ノートと教科書を取り出しながら、興味なさそうに言った。

「大体、お前彼女いただろう。いいのか?他の女に目移りして」

「一途のお前には、男のロマンは分かるまい。それにあいつは今頃、男の子の足が見えないー!って言ってる頃だ」

 教育学部の親友である杉野航は拓海の肩に手を乗せて、やれやれといった風に首を横に振った。

「そういえばそんな人だったな。そのうち逮捕されるんじゃないか?」

「いやー、子供には人気だから、なんだかんだ言って今は大丈夫」

 見守るだけなら害はないだろう。と、航は考えている。幸い、今は子供たちを見守ってくれているお姉さん程度にしか見られていない。実際に児童に手を出したことはない。

「おはよー」

 女声にしても高めの声が、左斜め前から聞こえて来た。拓海の視線が自然とそちらへ向く。

「おはよー。それ新しい服?かわいいねー」

「うん。ありがとう。昨日新しくできた洋服屋さん行ってきてね、一目惚れしたの」

 彼女は手をすっぽり覆う大きな袖を振って見せる。大きなリボンを付けた、肩見せのピンクの洋服。

「なんだあの服。あんなんが可愛いのか?俺には分からん」

 どう見ても日常的に着るような服には見えない。

 嫌そうな顔をする航とは対照的に、拓海は見惚れていた。

 ずっと見ていられるほどの美少女。大人っぽくも子供のような彼女。始めて見た時には、天使が現れたのかと思ったほどだ。

「拓海ー。……拓海ー?」

 航が呼びかけても上の空の様子で、瞬きすらもしていなかった。

 航が呆れて呼ぶのをやめると、彼女の方が拓海に気が付いて手を振ってくれた。拓海はそれにすぐに振り返した。

「……かわいい」

「ほんとに好きな。俺はあいつ初めて見た時、悪寒が走ったけどな」

 彼女。園田夕灯についての意見はほぼ二つに分かれる。

 一つ、かわいいけどなんか怖い。もう一つ、純粋にかわいい。航が前者で拓海が後者に当たる。これは女でも男でも意見が分かれている。

「この間彼女に聞いたんだよ」

「何を?」

 彼女と挨拶ができて満足したのか、拓海は航の元へ戻って来た。

「園田さんのどこがいいのか」

「かわいい。話していて楽しい。何より気配りができる。才色兼備といってもいいくらい――」

「同じこと言う。怖さがないかって聞いたらさ。そんなことないよ。だって。でも別の人は言うんだよ。ふとした瞬間に狂気を見せる時がある。だから極力二人きりにはなりたくない。ってさ」

「そりゃあ、人との相性の良し悪しはあるだろ」

「ちげーよ!こう、なんていうか。背筋が凍るような恐怖が……!」

 航が震えあがると、講義開始のチャイムが鳴った。教授が慌てた様子で講義室に入って来た。

 手話の講義を受けていると、教授が思い付きで提案を出してきた。

「そうだ。今日の練習は組んだことのない人としよう。その方が新鮮な練習と意見が聞ける。うん、そうしよう」

 教授からの提案に、数名の学生は不満を漏らす。

「あの教授時々ああいうことするよな」

「怠けてるやつの選別だろ。という訳で、俺はきちんと練習してる子と組んでくるから」

「俺はきちんとしてないみたいに言うな!」

 段々とペアが組まれていく中、拓海のところに一つの人影がやって来た。

「拓海君」

「あっ、夕灯さん」

「良いかな?」

 好きな彼女からの誘い。断る理由はなかった。

「勿論!夕灯さんいつも真剣に取り組んでるから安心してできるよ」

 そういうと、彼女は少し首を傾げた。

「見てるの?」

「えっ。……あ!ごめん。嫌だよね。本当にごめん」

 よく話す間柄とはいえ、ずっと見ていては相手が嫌がることは考えなくてもわかる。

 視線を逸らした拓海に対して、彼女は軽く笑っていた。

 視線を戻すと、彼女は手話で何かを伝えて来た。

『今日はいつ頃サークルに来ますか?』

 ゆっくりとしたたどたどしい様子で、彼女は手袋に覆われた両手を動かす。

『……この後も講義があるので、それが終わったら行きます』

 二人は週三回行われている手話サークルに所属している。所属人数は十四人。拓海は一年生の時から入っているが、夕灯は二年生の時からだ。

 拓海が一目惚れしたのはこの時だ。二年生になった春。天使が人間界へ降りて来たのではないか。そう思うほどに衝撃的だった。

 拓海は福祉関係の学校に通っていた姉の影響で中学生の頃から手話を習っていた。全国手話検定一級、手話技能検定四級を所持している。

 そんな手話が得意な拓海は、彼女に近づこうと懸命に彼女に手話を教えていた。

『今日も楽しみにしているね』

『うん。よろしく』

 サークルでは大抵一緒に組んでいる。夕灯が他の男と組まないように、拓海は必死だった。

 夕灯は医学部生であまり時間はとれないが、それでも時間を見つけては手話の講義を受けに来り、サークルには来てくれる。拓海はそれが嬉しかった。

 手話で駄弁っていると、講義終了のチャイムが鳴った。

「あれ?もう終わり?復習の時間なかったか。じゃあ、今日の復習は来週に持ち越すから、皆も予習復習しておいてね」

 教授が終わりの挨拶をすると、学生たちはぞろぞろと講義室を出ていく。

「拓海ー」

 荷物の片づけをしていると、航が声をかけて来た。

「彼女とはどうだった」

「有意義な時間でした」

「そりゃようござんした。早く次移動しようぜ。お前んとこ時間通りに行かないと扉閉められるんだろ」

 次の講義の助教授は時間に厳しい性格で、始まりのチャイムが鳴れば、すぐに扉の鍵を閉めてしまう。

 講義室までは遠くないが、早くに行っても損ではないので、片付けを終えてすぐに航の後を追う。



 時間に厳しい助教授の講義を終えた拓海は、急いで手話サークルの部室へと向かう。

「たっくみくーん!」

 元気な女声に驚いて、足を止めた。

 振り向いてみると、そこには航とその彼女の心理学科二年生の坂田美夏が、走って拓海のところまで来ていた。その光景は、なぜかとても怖かった。

 拓海は恐怖に駆られて走り出した。

「なんで逃げるの!」

「怖いですよ!笑いながら来ないでください!」

「いいじゃない。へへへ、あたしあなたの脚好きなのよー」

 気持ち悪い笑みを浮かべながら、美夏は拓海を追いかける。

「寄るな、来るな、近づくな変態!」

 周りに不思議な視線で追いかけながら、彼女から逃げる。

「やめんか変態!」

「痛!?」

 航に頭を殴られて、彼女はようやく止まった。

「いったーい!殴らなくてもいいじゃないですかー」

「お前なあ。拓海も先輩だぞ。一応敬語を使え。あと、見境なさすぎ。せめて大学内ではやめろよ」

 航は息を切らせながら美夏を叱る。獲物を前にした美夏は、普段以上の足の速さを見せる。そのおかげで、ストッパーの航はいつも苦労させられる。

「ごめんなさい、拓海先輩」

 美夏は嬉しそうに謝罪のことばを伝える。

「……少し慣れてきた自分が嫌だ」

「俺も最初はそう思った。ま、そのうち楽しくなる」

 美夏とはどのような波長が合ったのかは知らないが、これに慣れることはごめん被りたい。

「拓海君!」

 拓海はすぐさま振り向いた。愛しの彼女の声を聞き違えることはない。

「夕灯さん!」

 拓海は駆け足で夕灯の元へ駆け寄る。

「どうしたの?」

「コンビニに飲み物をね。拓海君は?講義終わったのなら、一緒にサークル行かない?」

「いいよ。じゃあな、航、美夏さん」

 拓海は航たちの方へ振り返り、夕灯と共にサークル棟へ向かった。

「……航先輩。顔、怖いですよ」

 美夏が航の顔を覗き込んで尋ねる。

「ああ」

「まだ夕灯先輩のこと、訝しんでるんですか?」

「いや」

「嘘。先輩、拓海先輩のこと大好きですよね。同性同士でも、あたし、嫌ですよ。それに、夕灯先輩このこと」

「嫌な予感がするんだ。背筋が凍るほどの、恐怖が――」

 美夏は訳が分からないという風に小首を傾げた。


             ******


 冬になったある日の手話サークルの部室。

「今日は大学内で適当な人を見つけて、手話の相手をしてきてください」

「無理だろ」

 サークル長の提案に、副会長が待ったをかける。

「いけるいける。だいじょぶだいじょぶ」

「相手ができない。誰が判断するんだ。それに、俺に友達などいない」

 辺りが静まり返った。

 知らない人にいきなり、手話の相手をしてください、など言えない。友人に言ったとしても、なかなかできる人は居ないだろう。ここは専門大学というわけではないのだから。

「……じゃあ、いつも通りにサークル内で。できるならサークル外でもお願いします」

 サークル長は申し訳なさそうに頭を下げる。

 ほとんどの部員たちはいつも通りの相手と手話会話をする。

 拓海は夕灯を連れて、サークル室を後にした。

『誰に頼もうか』

 拓海が手話で夕灯に尋ねる。

『全講義終わった後だから、人少ないね』

 夕灯は困ったように手話を返す。

『夕灯さんは、手話の習得早いね。』

『そうかな。拓海くんとの練習が楽しくて、早く追いつきたいなって』

 拓海は手を止めた。それほど嬉しかった。

『ありがとう』

 夕灯は微笑んだ。拓海は気恥ずかしくなって、少し視線を逸らした。

「何してるんですか?」

 会話の最中、美夏が二人に声をかけた。美夏には何をしているのか分からなかった。

「手話だよ。サークル長がサークル外で誰かとして来いっていうから、適当にぶらついてた」

「あ、今のって手話なんですね。二人で手動かして何してるんだろう、って思いました」

手を動かしてコロコロ表情を変えている光景は、手話に疎い美夏から見れば、異様な光景に見えた。

「よければ教えるよ?今暇だったら、一緒にしない?」

「本当ですか?でもあたしやったことないですよ」

「なんとなくでいいよ。普段使ってるジェスチャーに近いものもあるから」

「うーん。分かりました。やってみます」

 両腕でガッツポーズをするように力を籠める。

「じゃあ、まずは――」

 美夏は楽しそうに相手になってくれた。簡単な自己紹介とどこに行っていたのか。どうやら図書館に行っていたらしい。

「何の本探してたの?」

 夕灯が尋ねると、美夏は数冊の本を見せてくれた。

「心理学?」

「はい。人の変態性とか犯罪に、心がどのように作用しているのか知りたくて」

「……美夏さんにぴったりな題材だと思うよ」

 拓海は美夏の今までの行動を振り返りながら、苦笑いをする。

「どーせあたしは、脚フェチの変態ですよ」

 事実は事実だが、人から言われたのが気に食わなかったのか、美夏は頬を膨らませてそっぽを向いた。

「ごめんごめん」

 拓海は軽く笑いながら謝罪を述べる。

「ねえ、二人で手話やってるところ見せてくださいよ」

 美夏は妙案だとでも言いたげに両手を合わせる。

「いいけど、暇じゃない?」

「大丈夫です!なんとなく読み解く練習しますから」

 拓海と夕灯は顔を見合わせる。美夏がいいというのなら問題はないが、手話でなくとも本人の加わらない、話を聞くだけの状況は何か楽しいのか、と思ってしまう。

 それでも、早く始まらないか、という眼差しを向けられたので、二人は手話で会話を始めた。

 拓海たちが手話を始めると、美夏も一緒に手を動かし始める。

 二人で楽しそうに会話する様子は、何を話しているのかわからなくても、なんとなく楽しくなる。

 会話を見ていると、拓海の動きが止まった。

 難しい手話でもあったのかと、美夏は彼の顔を覗き込んだ。すると彼は、大きく息を吐きながらしゃがみ込んだ。

「ど、どうしたんですか?」

 美夏は心配そうに手を差し延べながら、拓海に近づく。

「あー……。俺が格好良く伝えたかったのになあ……」

 美夏は両者へ交互に視線を送る。

「なんて言ったんですか?」

「んー?えっとね」

 夕灯は手話と一緒に口頭で告げる。

「貴方のことが好きです。付き合ってください」

 夕灯は照れ臭そうに告げた。

 少しの時間を要して、美夏は声を上げた。

「えー!うそっ!告白!?拓海先輩色んな告白プラン考えてたのに!」

「なんで知ってんだよ!」

「航先輩に聞きました。心配そうにしてましたよ」

「考えてばっかで、行動に移さない、ってか」

「……恐らく?」

 美夏には別の心配に思えてならなかったが、夕灯がいる前で言うことでもないだろうと、言葉にするのをやめた。

「そんなことより。返事はどうなんですか?」

 美夏は両思いだと知って尋ねる。

 拓海は立ち上がり、咳払いをしてから夕灯に向き直る。

「俺でよければ、よろしくお願いします」

 夕灯は嬉しさから拓海に飛びつた。

「嬉しい!こちらこそ、よろしくお願いします」

 愛しの彼女からの告白に、拓海の頬は自然と綻びる。

 パシャッという音が二度ほど聞こえた。音の方を見てみると、美夏がスマートフォンを手にして写真を撮っていた。

「あ、ごめんなさい。あたしもなんだか嬉しくて」

 美夏は、すぐに消しますね、と言うが、夕灯はそれを止めた。

「美夏ちゃん。その写真、後で現像してもらってもいいかな」

「良いですよ。今度の休みにやっておきます」

 三人とも顔を赤くて、冬の寒さも忘れるくらいに熱くなっていた。


 美夏と別れて部室に戻ると、大きな声に驚かされた。

「おめでとーう!」

 数人からの祝福の言葉。理由を尋ねると、すでに告白の話は伝わっていた。サークル部員の三人が拓海たちの近くで様子を見ていたという。

 部員たちの祝福は照れ臭かったが、それ以上に嬉しかった。

 この調子ならば、今までさんざん夕灯のことを怖いと言っていた航も祝福してくれる。そう思っていた。

 しかし、拓海の思いとは裏腹に、航は一瞬怪訝そうな顔を見せた。

「おめでとう。長かったなー」

 そんな顔もすぐに解け、笑顔で祝福してくれた。

 先ほどの怪訝そうな顔は忘れよう。拓海はそう思いながら、自身の今の幸せを親友に伝えた。

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