参 劫火に燻る記憶
「お初にお目に掛かります。この度、三雲家に嫁ぎに参りました。鈴鹿家が三女、『
初々しい声のかつての蒼、青藍はふすまの前で頭を下げる。儀礼用の藍色の小袖を整え、元服前の長髪を、銀の
青藍は鈴鹿家という、小さな大名の出だ。彼女の父が治める地は、日々諸国の侵略に脅かされていた。この縁談も、言わば鈴鹿家と三雲家の間の政略結婚だ。それは、まだ十四になったばかりの青藍にもわかりきっていた。彼女には二人の姉がいたが、二人とも別の領主に嫁いでいる。力こそ全ての戦の世において、それは当然の理である。だが、幼い青藍は、この地の領主も、その妻になるということが何を意味するのかも知りもしない。青藍は重々しい空気に圧され、頭を下げ続ける。
「おお、鈴鹿の娘か。よくぞ参ったな」
襖が開き、豪快な足取りで一人の少年が入ってくる。家臣達は自分より小さなこの若者に、うやうやしく頭を下げた。少年は白い礼服を着崩し、片手に柿を持っている。鳶色の髪は月代をまだ剃っておらず、後ろで馬の尾のように結ばれていた。武芸で鍛え上げられた体は大きく、引き締まっていたが、顔つきは幼い。一国の領主としては奇妙な風体だ。
「俺はお前の夫となる男、
声変わり仕切っていない、若々しい声で緋久は青藍を呼ぶ。青藍は顔を上げ、自分の伴侶となる者の顔を見た。赤銅色の大きな瞳には幼さが残るが、鼻筋が通り、精悍な顔立ちだ。
「どうだ、俺の領地自慢の柿だ。鈴鹿の地じゃ珍しいだろ。上手いからお前も食ってみろ」
無邪気な笑みを浮かべ、緋久は青藍に柿を手渡す。突然の出来事に身を震わせながらも、青藍は恐る恐る柿を受け取った。家臣達も息を呑み、異国の姫君の姿を見守る。
「は……はい、上様」
「う、上様はよしてくれ。なんか……恥ずかしいだろ。俺のことは緋久でいいぞ」
「も……申し訳ございません! 緋久様……あっ」
慌てふためく青藍を見て、緋久は豪快に笑う。上様と呼ばれることが慣れていないのか、緋久は照れ臭く頬を掻いた。鈴鹿家では経験したことのない出来事が相次ぎ、青藍は困惑する。鈴鹿家では、青藍は一人で部屋にこもり、家族と共に過ごしたことなぞなかった。夫が決まるその日まで、青藍は姫としての作法や、武芸を仕込まれただけだ。
「ははは、初い奴だな。そんなに固くならんでもよいぞ、青」
「あ……あお?」
「お前にはその青い召し物がよく似合っている。だから青だ。青、これからよろしくな」
青、と呼ばれ、青藍は赤面する。体中が熱く燻り始めた。心臓が高鳴り、青の頬が火照る。
「ありゃりゃ、青なのに赤くなっちまったぜ」
緋久は頭を掻き、愉快げに笑う。家臣達も城主の笑いにつられ、口々に笑い始めた。政略結婚のはずであるのに、なぜ三雲の者達は自分を手厚く迎えてくれるのだろう。青藍には分からなかった。だが、無邪気に笑う緋久の笑顔を見ていると、自然と緊張の糸がほぐれる。この地で、この民達とならば、安寧に暮らすことができるかもしれない。微笑し、青藍は柿を口に運んだ。
その後、青藍と緋久は婚姻の契りを結び、一人の男子をもうけた。二人はこの赤子に『
「おお、青! 帰ったぞ!」
城の大手口から、甲冑姿の緋久が入ってくる。青藍は、家臣や侍女達と共に、緋久を迎え入れた。青藍は城主である緋久に、深々と頭を下げる。
「お帰りなさいませ。緋久様」
「ははは、青よ。堅苦しいのはよせと言ったであろう。俺との仲だろ」
青藍を快活な調子で諫める緋久。緋久は鎧を脱ぎ、侍女達から受け取った臙脂色の羽織を着る。家臣達は、緋久の赤鎧を運んでいく。
「殿、里田の者の動きは如何程でしたか?」
「うむ、里田の奴、何やら俺達の領地に向けて陣を構えておった。今に攻めてくるやも知れぬ」
襟を整え、緋久は真剣な面持ちに変わる。里田氏は、三雲氏の隣国の領主だ。元は小さな里の領主であったが、先代が亡くなり、現当主になった途端に、勢力を急速に拡大し始めた。そんな里田にとって、三雲は邪魔な存在だ。青藍もそれは重々に承知していた。青藍は我が子を抱きしめる。
「案ずるな、青。お前も紫苑も、この地も、奴らに指一本触れさせぬ」
緋久は青藍の黒髪を撫でる。柔らかな手つきだが、その目は領主としての覚悟の色を帯びていた。婚姻を結んだ日よりも、貫禄に満ちた目だ。紫苑は帰還した父の瞳を見て楽しげに笑い、父の手に触れる。父譲りの赤銅色の目を見開き、紫苑は肉厚の手で、父の温もりを感じ取った。
「今はできぬが、この子が大きくなった時には、戦もなく、うちの領地の柿を腹一杯に食わせられる世にしたいな」
緋久は紫苑の小さな手を取る。まだ争いも知らぬ、無垢な赤子の手だ。緋久は二十にも満たぬが、戦なぞ何遍も見てきた。民や家臣、自らの両親でさえ、戦の渦中で失ったのだ。紫苑の顔を見ると、青藍の胸も締め付けられる。
「緋久様、里田の者と戦を交えずに済む術はないのですか?」
たまらず、青藍は緋久に進言する。青藍も、幼き日に母を敵将の人質に出された。涙で袖を濡らし、牛車に乗せられる母の姿は、今でも脳裏に焼き付いている。
「できれば、俺も争いは避けたい。だが、この戦国の世では、力を持たぬ者は民も守れぬ。民がこれ以上苦しまぬ為にも、俺はこの地を守らなければならぬのだ」
青藍の訴えに、緋久は力強い口調で答える。それは慈悲深くも、何処か苦しげな領主の姿であった。緋久は懐から何かを取り出し、青藍に握らせる。それは三つの鈴であった。青い紐には銀の鈴が付いている。
「俺が戦から帰ってきたとき、お前に渡すこの鈴を頼りにして帰ってくる。だから、それまで紫苑を頼んだぞ」
緋久は強い眼差しを青藍に向ける。それは先ほどまでの領主としてではなく、一人の夫としての顔であった。だが、何処か儚げな少年の姿に、青藍は俯く。紫苑は物珍しい鈴を見て、手を伸ばした。
「おっ、紫苑。これが気になるのか? これは父ちゃんがじいやから貰った、どんなところに居てもすぐに音が聞こえる不思議な鈴だぞぉ。ほら、すっごくいい音がするだろう~?」
緋久は鈴を一個取り、指で打ち鳴らす。そよ風のような穏やかな音が、城内に響き渡った。振り子のように揺れる鈴を見て、紫苑はキャッキャと笑う。その音色を聞いていると、青藍の心も少し安らいだ。子どもをあやす緋久は先ほどとは打って変わって快活な表情であった。まるで、戦への不安を取り繕うように。その姿を見ていると、青藍は胸騒ぎが収まらなかった。
しばらく遊んでいるうちに、紫苑の腹が鳴る。すると、緋久は鈴を紫苑に渡し、深呼吸をした。
「なんだぁ、紫苑、腹減ったのか? ようし! 飯を食いに行くか!」
腹を押さえる紫苑を見て、緋久は豪快に笑う。青藍は食事の準備をしようと歩み出す。
「青、今日は俺達家族で食べよう。飯は人が少なけりゃまずくなる。みんなで食べる暖かい飯が一番うめぇんだよ」
緋久は青藍の手を引く。青藍は驚き、されるがままに、広間へと手を引かれていった。
「さぁて、じいに柿を取って貰うように頼もうか!」
緋久は子どものようにはしゃぎ、上機嫌に笑う。青藍は緋久の笑顔を見ていると、三人で居る時に酔いしれたいと思った。
しばらくして、城内からは楽しげな宴の声が聞こえてきた。平和なこの地に居る皆が、笑い、飲み、食い、楽しんだ。まるでしばしの安寧を噛みしめるかのように。
数日後、里田氏は三雲の領地に攻め込んだ。両者は激しくぶつかり、数日にわたって戦が繰り広げられた。敵味方問わず、多くの武士が倒れ、果てた。川は朱に染まり、森には紅がさす。そして遂に、戦いは決した。里田の軍勢は恐れおののき、撤退していく。戦場に残されたものは、葬列をなす兵士達の骸と、主人と運命を共にした軍馬の亡骸。腐臭が辺りを包み、誰一人近づくことは能わない。だが、時折怨嗟の声が戦場を満たす。地の底から響くその声は一つの形を成していた。
青藍は、城の奥殿で夫の帰りを待っていた。胸を打つような胸騒ぎに襲われ、青藍は小窓から外を見る。地平線に夕日が沈み、空を橙色に染め上げた。大気が凍り付き、なんとも不気味だ。紫苑が大声で泣き出す。宙を仰ぐその手は父の温もりを求めていた。青藍は紫苑を抱き上げ、ゆりかごのように揺らす。
「よしよし、泣くのはおよしなさい。お前のお父様は、この国一のお侍さんよ。だからお前もしゃんとしなければならないのよ」
青藍は鈴を鳴らし、紫苑をあやす。紫苑は母の言葉を聞くと泣き止み、小窓の外を恋しそうに見る。紫苑の瞳に、薄紫色の夜空が映り込む。
「どうかなさいましたか? 奥方様」
襖を開け、一人の侍女が入ってくる。青藍の世話係の
「何でもないわ。心配掛けてすまないね、縫」
気丈に振る舞おうとする青藍。縫は慌て、袖に隠れてしまいそうなほど小さな手を震わせる。
「す、すみません。勝手に部屋に入ってしまっ
て」
「いいわよ。ちょうど私も、縫と話がしたかった所よ」
青藍は縫を手招きする。縫はかしこまり、青藍の側に座った。紫苑は見慣れた少女に手を伸ばし、縫の赤い頬に触れようとする。
「あはは、若様はお腹がすいたのですね。少々お待ちください。今、美味しい栗ご飯をお持ちしますからね」
少女らしい、裏表のない顔で、縫は紫苑に笑いかける。紫苑は「ご飯」という言葉に心躍らせた。その様子を見ていると、青藍の胸の内に霧がかる不安も、幾分か晴れる。
「心配なのですね、上様のことが」
「そうね、もう何日も帰ってきていないわ」
ためらい気に聞く縫に、青藍は頷く。もう何日も、青藍は緋久に会っていない。緋久が遠出をすることは今までにもあったが、こんなにも長いのは初めてだ。青藍は、部屋の隅に飾られた太刀を見る。三雲家に代々伝わる魔除けの太刀だ。紺色の鞘に、銀の装飾が光る。
「だ、大丈夫ですよ。上様の大好きな栗ご飯をたくさんお作りすれば、その匂いにつられて、上様もご帰還なさりますよ」
「……ええ、ありがとう。縫」
励ます縫に、青藍は穏やかな顔つきで微笑む。縫の瞳は震えていたが、小さな体で鼓舞する姿は、実に健気であった。二人はしばし、紫苑をあやしながら談笑する。
"それ"は猛進する。全ての生在る者を蹂躙するために。"それ"は鳴動する。憎き仇の耳に届くまで。地を這い、木を薙ぎ、岩を砕く。道を失い、"それ"はただ、帰るべきある地へ巡りて来ん。
ふいに、紫苑が泣き出した。青藍は紫苑を抱きかかえてあやす。
「ああっ、若様。どうしたのですか?」
「変ね。この子は滅多に泣かないのに。よしよし、泣くでない。お前のお父様はじきに帰ってくるよ」
紫苑は顔を歪め、金切り声を上げて泣き叫ぶ。腹が空いたわけではない。何かに怯えているようだ。尋常でない泣き声に、青藍の顔にも不安の色が浮かぶ。青藍の腕の中で、紫苑はもがく。青藍は胸の内の不安をかき消すように、紫苑を抱きしめる。
「奥方様、大変です!」
襖が勢いよく開き、家臣が駆け込んでくる。息を切らし、額には大粒の汗が浮かび上がっていた。青藍は紫苑を縫に預け、家臣の元へ行く。
「何事ですか!? 左京」
「そ……それが、関所に、妖が現れました! 」
引きつった表情のまま、左京は告げる。漆色の甲冑は返り血と砂埃にまみれていた。
「何!? それは真ですか!?」
青藍は雷に打たれたように硬直する。この戦国の世で、妖の類いが出ることは、それほど奇怪なことではなかった。だが、堅牢な箱の中で生きてきた青藍は、妖も、その恐ろしさも知らない。かつて無い経験に、青藍は背筋が冷たくなる。
「はい、我々は関所で緋久様のご帰還をお待ちしておりました。けれど、里田の領から妖がこちらに向かってきたのです。我々の隊は殺され、生き残ったのは私め一人でした」
左京は窶れた顔を震わせる。焦点の合わない目は、恐怖で見開かれていた。青藍は小窓から外を見る。城下町のはずれから黒煙が立ち上り、火の手が上がっていた。赤く燃え上がる炎は、紫色に染まった空を飲み込もうと揺らめく。熱風に乗り、青藍の耳には家屋が倒壊する音や、民の悲鳴が聞こえてきた。耳を塞ぎたくなるほどおぞましく、身の毛がよだつ音だ。
「し、城の者達に告げなさい! なんとしてでも妖を食い止めるのです!」
「はっ!」
青藍は声を震わせ、左京に命ずる。緋久がいない今、自分がこの国を守らねばならない。左京は青藍の声に押され、慌てて外へと駆け出す。一刻も早く妖を討たねば、民の命が危ない。青藍は家臣達を導く緋久の姿を思い浮かべる。面影を浮かべれば浮かべるほど、青藍の焦燥は募った。年若い縫も、怯えた顔つきで外を見る。
「縫、あなたは紫苑を頼むわ。私は町の様子を見てくる」
「しかし、奥方様……」
「いい!? 絶対に外に出てはいけないよ!」
青藍は部屋の隅の太刀を掴み、襖を乱暴に開く。縫は何か言いたげに口を動かすが、青藍はそれを制す。守り刀を胸に抱き、青藍は階段を駆け下りた。
「ひいっ! 化け物っ!」
「な……なんでこんなのが俺達の領地に……ぎゃああっ!!」
すれ違う者共を斬り捨て、"それ"は怨みの紅炎を纏い
城外の光景は、青藍の言葉を奪う。焼け落ちた家屋。血にまき散らされた血痕。そして、息苦しい程の、生き物が焼ける匂い。絵巻物に描かれた地獄が、目の前に体現されていた。青藍の瞳は業火の陽炎に当てられ、打ち震える。
「お……奥方様。お逃げください……。我々の国はもう……」
青藍の元に、左京が足を引きずりながらやってくる。強固な鎧は肩から袈裟斬りにされ、そこから漏れ出る血が、左京の白袴を赤黒く染めた。
「しっかりするのです! 一体何があったのですか!?」
青藍は左京に駆け寄ると、その異様な様子に絶句する。引きずる左京の片足は、足首から先が切り落とされていた。血の匂いが纏わり付いた左京は、死に手招きされているようだ。
「化け物が……化け物が我々の領に火を……」
左京の言葉が途切れる。その刹那、黒い塊が舞い上がり、青藍の側に落ちる。青藍は塊を見て絶叫した。苦悶に満ちた左京の顔が、体を離れ地に転がっていた。頭を失った胴体は、操り手がいなくなった人形のように、その場に崩れる。左京の死体が描く血しぶきの先には、巨大な影が見えた。その形は人に似て、人にあらず、蛇のようにのたうつ紅炎を纏っている。腐敗臭をまき散らし、青藍は鼻を覆いたくなった。姿こそ陽炎で霞んではいるが、この世の者とは思えない。両手に刀を携え、その妖魔はおぞましい叫び声を上げながらにじり寄る。
「そ……そなたが、我らが三雲の地を荒らす化生の者か?」
恐怖に打ち震える足を踏みしめ、青藍は妖魔に問う。しかし、妖魔は緋色に染まった二つの目玉を揺らめかせながら、大地を炎で焦がす。地が焼かれ、青藍の額には汗がにじみ出る。青藍は太刀にすがり、鞘を抜くことさえ忘れていた。
「と……止まれ! これ以上我らの地を踏み荒らすものなれば、わ……私が許さぬぞ!」
途切れ途切れに言葉を絞り出す青藍。その畏れを感じ取ったのか、妖魔は両眼で青藍を捉える。血のような眼に捉えられ、青藍は金縛りに遭ったように動けなくなった。
「青藍様! ここは我々に任せてください!」
「あの化け物は我々が食い止めます。奥方様はお逃げください」
青藍の後ろで家臣達が矢をつがえる。家臣達は妖魔を見て一瞬たじろぐが、険しい顔のまま弓を引いた。無数の矢が放たれ、うなりを上げて風を切る。矢の雨は、妖魔の業火をかき消すように降り注いだ。おぼろげな妖魔の体を、矢は突き刺す。血の代わりに紅炎が溶岩のように流れ出る。だが、妖魔はひるむ気配もなく、自らに矢を放った憎き相手に斬りかかった。
「止めろ! 止めてくれ!」
青藍の制止も虚しく、妖魔は家臣達の体を鎧ごと切り裂き、焼き焦がす。家臣達の体は豆腐のように崩れ、地面に血の河を流した。家臣達は恐怖に悶え、青藍に助けを乞う。ある者の腕はもげ、またある者は下半身が焼かれ、飛び出た腸が血の尾を引いていた。
「あぁ……体が……体が……」
「俺の腕……俺の……」
自ら切り離された四肢に近づく者、失った部位を呟きながら事切れる者。青藍は生きた心地がしなかった。目の前に広がるは、獄卒の鬼が、亡者共に責め苦を合わせるが如き阿鼻叫喚。家臣の手が、青藍の足に触れたとき、妖魔は家臣の腕を両断する。燃え上がる怨嗟の刀は、家臣を生きながら焼き尽くした。青藍の足には、家臣のものであった腕だけが残る。恐ろしさのあまり、青藍は家臣の腕を振り解いた。妖魔はまだ息のある家臣を焼き切る。
「止めよ! 邪なる妖よ! なぜ、我らが罪無き民の命を奪うのですか!?」
悲痛な叫びを上げ続ける青藍。だが、何度訴えようとも、妖魔にその声は届かない。妖魔は寄り多くの命を滅せんと、城の方へと向かう。青藍の背筋には、おぞましいほどの悪寒が走った。直ぐさま、青藍は城の方へと駆け出す。
青藍が大手口に足を踏み入れた時、城内は既に死臭と墨の匂いに満ちていた。回廊は炎に包まれ、家臣達とおぼしき肉片が転がっている。鼻に燻る鮮血、人の焼ける匂いに、青藍は吐き気すら覚えた。梁が木炭と化し、崩れ落ちる。青藍は瓦礫を避け、恐る恐る城内を進む。青藍は恐怖を押さえ込むように、太刀を両手で抱える。緋久が帰ってきたとき、彼はどんな顔をするだろうか。彼は無事なのだろうか。そう考えると言いようのない不安に駆られ、青藍は太刀にすがりついた。襖は血しぶきで深紅に彩られ、柱には爪痕のように刀傷が深々と刻まれていた。人の姿は全て失われ、肉塊のみが無残に転がっている。かろうじて生前の面影が残る家臣達の亡骸を見ると、青藍は追憶に押し潰されそうになった。戦に赴く前の家臣達も、青藍には快い笑顔を送っていた。青藍が領地の柿を持ってくると、家臣達は汗を拭い、笑顔で受け取った。こちらを恨めしそうに見る家臣の窪んだ眼窩を見ると、青藍はやるせなくなり、むせび泣く。
「きゃあああ!」
上階からけたたましい悲鳴が聞こえ、青藍は恐怖を振り切り、駆け出す。炭に小袖の裾が汚され、火の粉に腰紐が焦がれようとも、青藍は足を止めない。焦燥がせわしなく、青藍の胸中を掻き乱す。あの声は他でもない、縫の声だったのだ。
奥殿の襖は引き裂かれていた。青藍はその向こうに広がる光景を見て、一瞬息が止まる。縫は紫苑を抱えながら、床に倒れていた。縫の肩は出血し、小袖も首元まで焼け焦げている。青藍は燃えさかる支柱をかいくぐり、縫を抱き起こす。縫は顔面蒼白であったが、辛うじてか細い呼吸をしている。紫苑も肩にかすり傷を負い、泣きわめいていた。
「縫、紫苑、しっかりして!」
青藍は腰帯を解き、縫の肩に当てた。小袖の端を千切り、青藍は紫苑の肩の傷を押さえる。縫の傷口は、火傷のように爛れていた。
「うぅ……青藍様。私のことは良いです。紫苑様……若様を連れてお逃げください……」
「何を言うの! 諦めてはいけないわ。縫、あなたは紫苑を連れてここから逃げるのよ」
「ですが……奥方様は……」
戸惑う縫を、青藍は説き伏せる。一国の妃としての気高く、威厳のある口調であった。紫苑も母との別れを感じ取り、不安そうに瞳に涙を溜める。紫苑の手首に掛けられた鈴が僅かに鳴った。その時、業火に包まれた妖魔が、黒煙を切り裂き、縫の後ろに現れる。二人を守るように、青藍は震える手で太刀を抜き放つ。白刃を向けられ、妖魔は猛り狂う。
「私は緋久が妻、青藍よ。私はここで、夫の代わりに国を守るわ!」
自分に言い聞かせるように、青藍は奮い立たせる。縫はためらいつつも、紫苑を抱きしめ、階段へと走った。紫苑は泣き叫び、去りゆく母の姿を掴もうと、小さな手を伸ばす。だが、その瞳に映る母の姿は業火の中にかき消された。
主無き城の中、妖魔と青藍は対峙する。重い太刀を両手で構え、青藍は妖魔を睨む。青藍は戦いの経験など一切無い。武芸もある程度嗜んだだけだ。軍勢を焼き尽くす妖魔に勝とうなどとは最初から考えていなかった。ただ、縫と紫苑が安全な場所へ逃げてくれる。それだけを祈っていた。太刀の刃が、荒れ狂う炎に照らされ、紅の光を放つ。
「オノレ……オノレ……我ラヲ滅ボセシ者ドモヨ……。コノ身ガ朽チヨウトモ汝ラニ永劫ノ報イヲ与エン……」
呪詛のような、生気の無い口調で妖魔が口を開く。幾人もの死者が地獄から怨嗟の声を上げているようだ。妖魔は炎の血を滴らせ、ただ一人、未だ輝く命をかき消さんと朽ちた両刀を構える。床に火炎が走り、妖魔の姿を妖しく照らす。その姿を見て、青藍は愕然とし、太刀を落とした。その姿は青藍が焦がれた者であると同時に、忌避すべき者でもあった。
「緋久……様」
その顔は確かに、青藍が夫にして三雲の領主、緋久のものであった。顔中に無数の刀傷が刻まれ、醜く歪んでいるものの、引き締まった顔立ちは確かに緋久だ。舞い散る火の粉は、緋久の姿を鮮明に写す。朱色の鎧はひび割れ、血がにじんでいた。髷は解け、夜叉のような緋色の髪は燃え上がる。恨み辛みで体は膨張し、背丈は青藍の倍ほどあった。血の通わない青い肌には、矢や刀が突き刺さっている。消え失せた血の代わりに、蛇のような炎が体中に纏わり付く。額から炎でかたどられた角が生え、燃え髪を振り乱すその姿は、鬼や、怨霊の類に思えた。赤黒く染まった腕で太刀を握り、緋久は床を焦がしながら青藍の元へ足を踏み出す。血で濁りきった目は光が失せ、妻のことなぞ見えていない。緋久に似たそれに、青藍は言いようのない恐怖に襲われた。
「緋久様……なぜですか……? なぜ……妖魔に身をやつしているのですか?」
青藍の言葉など届かず、妖魔は情け容赦なく太刀を振り下ろす。衝撃で青藍は吹き飛ばされ、柱に叩き付けられた。妖魔の一降りは床を割り、大穴を作る。穴からは、地獄の釜が口を開くように、火柱が吹き上がった。青藍は背に鈍い痛みが走る。だが、それ以上に、痛ましく変わり果てた夫の姿に、胸が酷く痛んだ。
「お止めください! ここはあなた様が愛した地でありましょう!? どうかその剣をお納めください!」
喉がすり切れんばかりに、青藍は声を上げる。魔道に堕ちた夫を救わんが為に。人の絶えたこの国を守らんが為に。吹き上がる炎に身を焦がれ、妖魔の体は黒く染まる。おぞましい雄叫びを上げ、妖魔は荒れ狂う。暴走する野牛のように、城の壁、床、天井、あらゆるものを微塵に切り崩した。
「な……なりませぬ……。どうか……どうかお鎮まりください」
青藍は痛む胸を押さえ、体を起こす。城は半壊し、青藍の眼前には乱心した城主と、焼け落ちた国が広がった。吼え猛り、妖魔は朽ちた鎧を掻き鳴らす。それは幾人もの、行き場のない空虚な怨みの声であった。
「許サヌゾ……。我ガ恨ミ……魂魄ナレドモ消エヌゾ……」
「今一度……戦場ニ戻ルノダ……。奴ラト戦オウゾ……」
もはや意味を成さぬ言葉の数々を、妖魔は呟く。体に食い込む矢が己が傷を抉っても尚、死した体を動かし続ける。朽ち果てた夫の姿を見て、青藍は髪を結ぶ紐を解く。そして、妖魔の前で、紐についた鈴を打ち鳴らした。
「緋久様、聞こえますか? 私の声が聞こえるのならば、耳を傾けてください。もはや、この国の人間は死に絶えました。家も畑も、灰燼と帰しました。どうか、これ以上憎しみに身をやつし、あなた様が愛したこの地を荒らさないでくださいませ!」
揺らぐ陽炎に当てられながらも、青藍は鈴を鳴らし続ける。その瞳は雲一つ無き夜空のように澄み渡っていた。懐かしき鈴の音に、妖魔は一瞬制止する。
「俺ハ……必ズ帰ラナケレバナラヌノダ……俺ノ……国ヘ……」
妖魔から放たれたその声は、紛れもない緋久のものであった。悪鬼と化した大殿は虚ろな瞳で、自らが焼いた地を見ている。焼け焦げた耳には、炎に焼かれる人々の悲鳴は聞こえず、朽ちてひび割れた肌は、己を焼く炎の熱すら感じられなかった。かつて緋久は、この城の小窓から、顔を出し、領内に吹く風の音を聞いていた。戦に敗れ、怨霊に身をやつし、それでも尚、自らの国へ帰ろうとする城主の姿を見て、青藍の胸は張り裂けんばかりだ。願わくは夫の魂を解放したい。青藍は太刀を拾い、怨霊に向ける。
「緋久様……あなた様が愛した地はここにございまする。もう、戦う必要も無いのです。これ以上、この地も、あなた様自身も傷つかないでください」
祈りを込め、青藍は悲しき怨霊に刃を向ける。太刀は青藍の祈りに応え、青白く輝いた。その光は怨霊の血に染まりし眼にも映される。光をかき消さんと怨霊は太刀を振るい、青藍に向かっていく。炎に焼かれながらも突き進む怨霊は死そのものだ。青藍は自らに迫り来る死をものともせず、太刀を構える。ただ夫を救いたい。その思いだけが青藍を踏みとどめていた。城が崩れんほどの咆哮を上げ、怨霊は太刀を青藍に振り下ろす。それと同時に、青藍は怨霊の左胸目掛けて太刀を突き刺した。
稲光が、焼け落ちる町を
「お許しください……緋久様。この青にできることは……これだけにございます。もう……よいのです。どうか……お休みください」
命燃え尽きた一国の主を見て青藍は涙する。緋久の姿は黒い靄となり消えていった。残すは、青藍が夫に突き立てた太刀のみだ。
がらんどうの城に、にわか雨が降り注ぐ。災禍を洗い流すかのように、雨は町の火を消し、涙のように降り注ぐ。夫をその手に掛けた青藍は、雨に打たれたまま、太刀を見ていた。意識が段々薄れ、青藍はかつての三雲の国を臨む。誰一人いなくなった国の中で、独りの姫君は眠りに落ちた。
雨が止み、雲の隙間から日が昇る頃、青藍は虚ろな瞳を開いた。城は焼け落ち、青藍の小袖は炭にまみれていた。もう何日寝ていたのか分からない。治りかけの傷を押さえ、青藍は死人のように領内を彷徨う。誰もいない。何もない。領内全てが、黒炭に塗り潰されたようだ。青藍でさえ、今や領内に縛らるる亡霊のようであった。だが、青藍の頭の中にはあることだけが渦巻く。縫は、紫苑は無事なのだろうか。唯一の希望を引きずり、青藍は歩き続ける。
それからというもの、青藍は各地を歩き回った。日を重ねるうちに、胸の傷も幾分か治る。だが、青藍の胸中には癒えることのない傷が、呪いのように刻まれていた。誰を訪ねても、二人の便りはない。それでも、青藍は二人が生きていることを信じ続けていた。川辺で無惨に食い散らされた、浅黄色の着物を着た少女の死体と、朽ち果てた鈴を見るまでは……。
「アオ、どうしたの? 泣いてるよ」
あどけない少年の声に、蒼は我に返る。潤んだ瞳には、霜雪の髪の少年が映っていた。薄紫色の大きな瞳をしばたかせながら、少年は蒼が落とした柿を持っている。
「そんなしみったれた顔をするなぞ、何か悪い夢でも見たのか?」
蒼の頬を、巨大な人魂が撫でる。その冷たさに触れ、蒼は自分が今、物思いにふけっていたことに気づく。蒼は細い指先で、頬を伝う涙を拭う。
「いや、柿が死ぬほど美味かったから、つい涙が出てしまっただけだ。気にするな」
「……よかったぁ。この前は食べなかったから、てっきり柿が嫌いなのかと思ったよ」
蒼はミタマから柿を受け取る。長き時が過ぎたように感じられたが、柿はまだみずみずしく、橙色の糸を引いていた。蒼は思い出を忘れ去るように柿を頬張る。生まれてこの方、滅多に泣いたことのない蒼だったが、その日ばかりは涙が溢れた。
柿を食べ終えた頃には、蒼はまどろみ始めていた。ミタマも大きなあくびをする。オヤダマはミタマを優しく撫でる。
「よしよし、もう夜も深いから、そのままお休み」
オヤダマはミタマを眠りに誘う。ミタマは横になるが、夜風に吹かれて身を縮める。
「ミタマ、寒いのか? 私の元に来い」
蒼はミタマを抱きかかえる。ミタマは赤子のように、蒼の羽織を握り締めた。ミタマは懐かしげに、蒼の羽織にほおずりする。
「うん。アオ、すっごくあったかい」
夢見心地で、ミタマはかつて感じたことのない人の温もりを感じる。蒼は墓石の前に腰を下ろし、ミタマを膝の上で寝かせた。
「僕の母ちゃんも……こんなにあったかかったのかなぁ」
甘えるような口調のミタマ。蒼は膝の上で丸くなるミタマの姿を、紫苑と重ねる。紫苑もよく、蒼の小袖を握りながら、丸くなっていた。
「勘違いするな。私は退治屋だ。そなたの母ではない」
蒼は紫苑の幻影を振り切るように、ミタマに言い聞かせる。だが、ミタマはすでに寝入っていた。蒼はため息をつき、ミタマの背中を撫でる。
「お主も不思議な奴じゃのう。退治屋のくせに、ずいぶん童のあやし方を知っておるな」
オヤダマが墓石の上であくびをする。蒼はミタマを撫でる手を、直ぐさま引っ込めた。
「退治屋が子供をあやして何が悪い。そなたこそ亡霊のくせに、子育てをしているであろう」
蒼はオヤダマを睨み付ける。オヤダマは皮肉めいた笑いを浮かべ、ミタマの元にやってきた。
「ははは、違いないわい。昔のことなぞついぞ覚え取らんが、儂は人の親だったのかもしれんのう」
笑けるオヤダマを見て、蒼は眉をひそめる。
「じゃが、お主にも忘れられない思い出があるようじゃな。手つきを見れば分かるぞ。お主は退治屋などではなかったとな」
オヤダマは蒼の肩に触れる。蒼は怪訝な顔をし、オヤダマの実体のない体を振り払った。
「そなたには関係の無いことだろう。私が過去に何者であったとしても、今は妖魔を斬るだけだ」
「…………それもそうだったのう。いらん世話をしたな。そなたが何者でも、儂には詮無きことじゃからな」
オヤダマは残念そうにため息をつく。蒼に背を向け、オヤダマは墓石の上に行く。
「待て」
蒼は鋭い口調でオヤダマを呼び止める。オヤダマは不思議そうに蒼に向き直った。
「そなたがいないと、ミタマも寂しがるだろう? そなたもこちらに来て寝ろ」
ためらい気に言葉を続ける蒼。オヤダマは眼窩を開き、しばらく蒼を見ていたが、静かに笑う。
「確かに、お主の言うとおりじゃな。お主や儂がおらんと、ミタマはうなされてしまうからのう」
オヤダマはミタマの側に寝転がる。蒼もミタマを撫でながら、ゆっくり目を閉じた。目を閉じている間だけ、あの頃に戻れる。縫が食事の用意をしていた頃。緋久が柿を食っていた頃。紫苑をあやしていた頃。ミタマの頭を撫でていると、自分が青藍であったときのことを思い出す。だが、妖魔達の返り血に染まった手が、蒼を引き戻した。
次の日も、その次の日も、蒼はミタマの元に行った。ミタマといる間は、蒼も依頼を忘れ、しばしの憩いの時を過ごせる。だが、そうしているうちにも、妖魔の噂は絶えない。そして、一月が過ぎた。
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