トライアモリ

とう子

ありそう選手権

「スパッタリングって誰だっけ」

 彼女が言った。はっと目を開いて急に言った。定期券を更新してなかったことを思い出したときみたいな顔だった。

「何で出てきたっけ。音楽? 世界史?」

 彼が言った。左手の箸にはあと一口分の春巻きをぶらさげたままだ。一年中いつ食べても、春巻き。名前の由来は知らない。

「美術だよ」

 ぼくが言った。

 通学中雨に濡れた靴下は、午前中いっぱいを費やしてまだ乾いてなかった。履いておけば体温ですぐ乾くと思ったのは失敗だった。教室の中の湿気は、これはもう空気の半分ぐらい水分なんじゃないかな。湿度五十パーセントがどんなものかよく分からないけど。湿度一の定義も知らないし。

「え、ていうか待って、アイエヌジーだから人じゃないじゃん」

「確かに。じゃあ生物か? 細胞でやった気がする」

 生物で出てくるとしたら、スパッタリングの法則って感じかな。それだと物理っぽいな。スパ・タリングの法則とか。なんか気持ち悪い。

「だから美術だってば」

「そうだっけ」

 彼女は右上を見上げる格好して考えて、あまり綺麗じゃない音でジュースのパックを吸った。その角度すごく盛れてるよ。普段から首斜めにして歩いたら良いと思う。

「ねえねえ、進行形だから人じゃないって気づいたの頭良くない? 今ちょっとすごいなって思った自分で」

 彼女は夏服に衣替えしてから急に、野菜ジュースをよく飲むようになった。その分弁当は少し量が減った。ダイエットじゃなくて美白のためだと説明してくれたのに、ぼくには違いが分からない。なんでスパッタリングを人と思い込んだのかも分からない。

「アイエヌジーは動名詞にもなるけどね」

 ひとつの机を三人で囲むのは少しどころじゃなく狭くて、ぼくは右手に持ったパンをかじりながら、左手首にはコンビニの袋を引っかけたままだった。貴重な三円を叩いて買った、袋さん。いや、袋先輩って感じだ。お袋さんはおかしいもんな。三十円の駄菓子より三円の袋のほうが高く感じることがある。

「あ、今日六時間目英語よな? おれ本文訳やってないわ」

 彼が春巻きを頬張ってぼくに訊いた。そうだよ、きみの苦手な英語。三十八ページの小テストだよ。

 ちなみに彼は絵が上手い。たぶん、ぼくが今まで出会った中で一番。美術の成績はとりあえず置いといて、少し大げさな似顔絵なんかが描けるタイプの才能だ。目が良いんだろうか。でもたまにデジタル時計を読み間違える。

「英語さ、わたし昨日間違えて、ノート一ページ飛ばして書いちゃってさ」

「一ページってどういうこと? 左側だけ書くの忘れたん?」

「違う、その一ページじゃなくて見開き」

 じゃあ糊で貼り合わせたらどう?

 とか馬鹿なことは言わずに、ぼくは焼きそばパンの最後を口に押し込んだ。もう具がなくなってただのパンだ。新しくなりました、なんてシールがパッケージに貼られてなければ、何かが変わったことに気づかなかった。どう変わったんだろう。ソースがちょっとすっぱいとは前から思ってた。

 放送のチャイムが鳴って、みんな黒板の上のスピーカーを見上げた。何か言いかけた彼も一旦口を閉じた。今からエレベーターの点検をするから使わないように、という案内だった。もともと荷物運搬用のエレベーターを生徒は使えないことになっている。事務室の先生は二階から一階へ下りるのにも使う。

「それ二ページじゃん。こうやって糊で貼れば?」

 放送を最後まで聞いてから、彼は箸を持ったままぱちんと両手を合わせて見せた。発想丸かぶり。やっぱりさっきのは言わなくて良かった。でもついでにごちそうさまをつぶやいた彼にぼくも倣う。ごちそうさまでした。ちょっとすっぱいけどまたすぐに買うと思う。甘いパンも食べるけど、昼食にするのは苦手だ。

「やだ、糊もったいないし」

 彼女も彼に倣ってから、もてあそんでいたジュースのパックをたたみ始めた。もったいないのは糊だけか。

 ぼくは目立つ赤の新しくなりましたシールを剥がそうとして、それがシールじゃなくパッケージに直接印刷されていることに気づいた。残念だ。惜しんでももらえない哀れなページに貼ってあげようと思ったのに。

 机の上でスマホが震えて、彼は弁当箱を片付ける途中で指紋認証でロックを解除した。放置されたチープなプラスチックの箸ケースは、閉じる部分が欠けて永遠に閉じられなくなっている。たぶん百均の箸だ。昔同じ柄のがうちにもあった。

 彼女は大きなあくびをしてから片手で口を隠した。

「きみ、弁当のあといつも眠そうにしてるね。何時に寝てんの」

 ぼくはパンのパッケージをくしゃくしゃに丸めて、袋先輩に突っ込みながら彼女に訊いた。パッケージは丸めた形からすぐに開いて戻った。

 袋の口を結びながらふと、たぶん生まれて初めて小さい文字を読んでみたら、資源を大切にしようというメッセージはずっとそこにあったらしかった。今までそれに気づかなかった結果が有料化だ。ノートだっていつか高くなるかもしれない。

「うん、血が胃に行ってるのが分かる」

「それはない」

「なんで?」

 彼女はまだ両手でジュースのパックを持っている。ぼくが一度口をほどいて袋を差し出すと、彼女は涙目で、平たくなったパックを放り込んだ。その顔はさっきほど盛れてないな。ゴミ渡されながら盛られても困るからいいけど。

「頭に行く血は減らないんだって。一番重要だから」

 家族が見てるテレビを横で聞いてた程度の知識だ。それ以上の説明はできない。

 彼もスマホをスリープにして、へえ、と頷いた。

「すごい納得した今。野生だったら命の危機だよな」

「わたし今ライオンに食われた?」

「何もいきなりアフリカに行かなくてもいいでしょ、日本にも肉食動物いるし。きみが眠いのはたぶん寝不足なだけだよ」

 吹奏楽部が昼の練習を始めた音がする。音楽室は防音できるけど、吹奏楽部はいつもパートごとに分かれて、家庭科室も美術室も廊下も占領している。湿度が高いからか、いつもより音が響くように感じて耳障りだ。

 彼は弁当箱を片付け終えた。靴下はまだ乾かない。

「スパッタリングって肉食っぽいね」

 彼女が突然目を輝かせて言った。コンビニで好きな曲がかかったときみたいな顔だ。その話題気に入ってるね。

 検索すればスパッタリングが何か十秒で分かるのに、彼女はそうしない。ぼくも検索して見せたりはしない。画面保護のシートを買い忘れたなあと思ってもう二か月以上経った。どこで買うのが正解だろう。純正のアクセサリーは学生には高すぎる。ケースも充電器もそうだ。

 なぜか急に、頭に携帯ショップの棚と「スパッタリングコーナー」って派手なポップが浮かんで笑いそうになった。悔しい。だんだん口に馴染んできたな、この言葉。寝るまで頭にこびりつくパターンだ。

 ぼくは、よし、と手を叩いた。そんなつもりじゃなかったけど、なんだか「はいじゃあ今回はこんな動画を撮っていくんですが」のポーズのようだ。ふたりがぼくに注目した。

「じゃあ、スパッタリングってほかにどこで使われてそう?」

「どういうこと?」

「考えて。ありそう選手権」

 こういう大喜利を出題するのは、いつもは彼の役目だ。二か月に一回ぐらいの頻度で開催される。

 今度はリスニングの問題で躓いたみたいな顔で彼女は考え込んだ。思いつきでいいんだよ、言葉遊びなんだから。雑誌だと後半のざらざらの紙に載ってるネタ投稿のコーナーだ。例えば、そうだな。

「スパッタリング二倍キャンペーン」

 ぼくが言った。彼はにやっと唇をつりあげた。彼女は一秒考えてから声をあげて笑った。せっかく笑ってくれたけど、我ながらこれはあんまりだ。ないよ、そんなキャンペーン。フェアのほうが良かったかもしれない。

 教室の前の廊下を、大きな工具箱を抱えた業者の人が通り過ぎて行った。作業服の肩が濡れている。ぼくは突然、部屋の時計の電池が切れていることを思い出した。脳内の買う物リストに入れておく。画面シートと、単三電池。

「スパッタリング上映」

 彼女が言った。ありそうだ。映画の券を買うとき、通常、3D上映、スパッタリング上映から選ぶんだ。母親とかにどう違うのって訊かれるんだろうな。ごめん、ぼくたちもよく知らない。たぶんスパッタリング上映は通常より三百円ぐらい高いと思う。

「スパッタリング盤」

 彼が言った。存在はみんな知っているのに日常では使われない感じがありそうだ。技術の教室で埃をかぶってそう。一年に一回しか出番がない。きっとすごく便利な道具なのに、時短や楽を求めるぼくたちは使ってやらないんだ。存在しない盤に申し訳なくなってくる。

「夏用スパッタリング」

 ぼくが言った。自分で言って自分で笑いそうになった。春夏用と秋冬用で使い分けるのが当たり前みたいになってきたけど、ほんとは三年前ぐらいに生まれた文化だと思う。ぼくたちが社会人になるころには、使い分けるのがマナーになってたらどうしよう。そのころには今より安くなってるかな。メンズもデザイン増やしてほしいんだよな。今はブルーとブラックしかないから。

「十八歳以下スパッタリング無料」

 彼女が言った。これは、今までで一番やばそうだな。夏休み前に生徒指導部からプリントが配られてしまう。十八歳でも高校生は保護者同伴じゃないとスパッタリングできませんって。生徒手帳にも書いてあると思う。もちろん誰も守らない。親とスパッタリングなんか誰が行く?

 ここでまたスマホが震えて、彼がもう一度メッセージの通知を確認した。これを見てると、ぼくはあまりたくさんアプリ入れたくないなあと思う。彼みたいに操作を覚えきれないから。

 順番を決めたわけではないのに、あとに続く人がいなくなって、スパッタリングの晴れ舞台は幕を下ろした。選手権とは言ったけど、どれが一番ありそうか決められなかったから、もう、SNSの歯車を押したらスパッタリングっていう項目が出てくることにしよう。各自でオンオフを設定すればいい。「スパッタリングが設定されていません」ってリマインドが表示されたらついオンにしてしまうよな。充電の減りが早くなるから気をつけてくれ。

 彼は何度か画面をスワイプして、それからマイクに向かって「スパッタリングって何」と問いかけた。丸くローディングした後、検索結果が表示された。親指で一回スクロールして、「ああ」と納得した声をあげる。実際には十秒もかからなかった。三秒ぐらいかな。

 彼女が横から画面を覗き込んで、あっと叫んで手を叩いた。

「これ!? スパッタリング! 知ってる!」

 これと言いながら右手を小刻みに動かしているのは、ブラシでこするジェスチャーだろう。そりゃ知ってるよ。授業でやったって言ったじゃん。義務教育の範囲なんだってば。

 でも、ぼくにはただ義務教育の範囲だったスパッタリングという言葉は、今日きっと彼女の中でアートになったんだろう。スパッタリングを検索してこれほど目が輝く人を、彼は彼女しか知らないはずだ。「ありそう」な何にでもなれたスパッタリングの無限の可能性はついさっき死んだけど、スパッタリングにとって彼女はインフルエンサーと言ってもいい。

「今日さ、帰り百均寄りたい」

「何買うん?」

「いろいろ。きみも箸買ったら?」

「あ、そうそう。買おうと思っていつも忘れるんだよ」

 ほんとはスパッタリングを買いに行くって言いたかった。彼女よりぼくのほうが気に入ってしまった。

 この先の人生でまたスパッタリングに出会う日があったら、思い出せるだろうか。ぼくが今日乾いてない靴下で、このふたりに挟まれて、ちょっとすっぱい焼きそばパンを食べたこと。

 うーん、だぶん忘れちゃうだろうな。

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