1- 19 男子小学生の霊

 結羽が育った孤児院は東京都内の郊外にある。

 都心から数十分かけて電車に乗り、さらに駅から数十分かけてバスに乗ると閑静な住宅街に着く。孤児院は、閑静な住宅街の外れの、森林地帯に接した場所にあった。


 結羽は、レンガ造りの孤児院に到着した。

 まだ記憶さえ残せないほどの幼い頃から、高校を卒業するまで暮らしてきた孤児院。現在は都内のアパートで一人暮らしをしているが、孤児院から自立してまだ数ヶ月も経ていない。そのため結羽にとっては、懐かしい、と思うにはまだまだ日が浅い。


 結羽は我が家のような孤児院の正門を抜けると、正面玄関のブザーを押してドアを開いた。

 18歳の結羽はすでに自立して戸籍も移してある。

 孤児院には家族同然の子供たちや先生がいるとはいえ、結羽はもう“他人”なのだ。ブザーも押さずに孤児院に入らないよう、院長である橘から指導を受けていたのだった。


 正面玄関のブザーを押してしばらくすると、玄関から先に続く廊下の奥からスラリとした体格をした初老の男性が現れた。初老の男性は結羽の顔を見るなり満面の笑みを浮かべた。


「おお! 結羽じゃないか! 何だ、もうホームシックで帰ってきたのか?」


「あ、田中先生! 違いますよ、まだまだホームシックなんかにはならないです!」


 結羽は、児童指導員である田中の冗談を明るい笑顔で返した。


「相変わらず元気だな。院長先生が待ってるぞ」


「はーい。すぐ行きまーす!」


 児童指導員の田中は、結羽の到着を知らせに廊下の奥へと消えていった。

 結羽は靴を脱いでスリッパに履き替えると、左肩に乗っているホイップに顔を向けた。


「ホイップ、私は大切な話があるから遊んでおいで」


「うん、わかった」


 ホイップは、ぴょんと飛び上がると地面にふわりと着地した。


「あまり遠くへ行っちゃダメだよ」


「はーい」


 結羽が小声でホイップに念を押した。ホイップは軽く頷くと、檻から解放された野生の兎のように勢いよく飛び出してすぐに消えた。


 結羽はホイップがいなくなると、廊下を歩いて院長室へ向かって歩き始めた。そのときだった。結羽は背後から気配を感じて振り返った。


「結羽姉ちゃんや!」


 結羽が振り返ると、そこには小学生低学年くらいの男の子が満面の笑みで立っていた。その男子小学生は丸刈りの頭で白い半袖シャツ、黒い短パンという令和時代らしからぬ姿をしている。そして、何よりも異なるのは、男子小学生の全身が透けていたことだった。


「四郎君!」


 結羽は丸刈りの男子小学生に向かって小声で名前を呼んだ。


「結羽姉ちゃん、どこ行っとったんや。最近全然見かけへんかったから孤児院中走り回って探しとったんやぞ!」


 四郎は口を尖らせながら言った。結羽は四郎のその言葉から全てを察した。


「孤児院の廊下を走り回っていたのは四郎君でしょ。しかも深夜に」


 結羽が両手を腰に当てながら問い詰めると、四郎はニヤリと笑った。


「そうや。そうすれば結羽姉ちゃんが僕を叱りに来ると思ったんや」


 四郎の悪戯っぽい笑みを見た結羽は、ため息をついた。


「四郎君が深夜に廊下を走り回るから孤児院のみんなが迷惑してるんだよ。ダメでしょ! そんなことしたら!」


「だって、僕、結羽姉ちゃんに会いたかったんやもん」


「その気持ちは嬉しいけど、だからといってみんなに迷惑かけたらダメだよ」


 結羽は困った表情をしながらも、四郎に近づくと、丸刈りの頭を優しく撫でた。結羽に頭を撫でられた四郎は、満足げな笑みを浮かべた。


 四郎は戦時中に命を落とした小学生だった。アメリカ軍の爆撃機B29による空襲によって家族と離れ離れになり、避難した防空壕に爆弾が命中して亡くなったのだ。その後、四郎は霊となって家族を探し続けたが見つからず、数年前に結羽が暮らす孤児院にやって来て住み着いたのだった。

 結羽は、高校生のときに四郎の存在に気づき、周りの人たちに気づかれないよう四郎と交流してきた。そのため、四郎は結羽のことを姉のように慕っていたのだった。


「孤児院の廊下で走り回る音がする、て橘先生から聞いたからさ、四郎君の仕業じゃないかと思ってたんだよね」


「ごめんなさい。もうしません」


 四郎は結羽に対して深々と頭を下げた。


「四郎君、私はもう孤児院を出たの。四郎君もいつまでも孤児院に留まっていないで、そろそろ行くべき場所に行かなきゃダメだよ」


「嫌だ嫌だ! 結羽姉ちゃんと離れたくない!」


 四郎は駄々をこねた。結羽は、このままでは四郎君はまた廊下を走り回るはず、と危惧した。


 何とかして四郎君を慰めて説得しないといけないわ!


 結羽は、孤児院のために意を決した。







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