第5話 消える花嫁(3)

深夜の山里は息を呑むほどの静けさに包まれていた。闇を裂くのは虫の声と、遠くで犬が吠えるかすかな響きのみである。私は椛島警部と落ち合い、佐竹邸を遠望できる植え込みの陰に身を潜めた。警部は部下の巡査三名を伴っていたが、いずれも緊張の面持ちで口を閉ざし、ただ屋敷を見つめていた。


 身を寄せる間に、警部が低声で語りかけてきた。


「実はな、ボンド氏に妙な調べ物を頼まれたのだ。佐竹の商いと、彼が海外貿易に使う船舶についてだ」


 私は思わず囁く。

「それは……もしや。消えた聡子女史、彼女は国外へ売り払われるのでは?人身売買の犠牲に……」


 その言葉に警部は顔をしかめ、暗がりの中で首を振った。

「わしも同じ考えに行き当たった。だが、佐竹氏は確かに強権的で厳しい男だ。だがそこまでの極悪人であるだろうか」


 私どもはしばし黙し、息を殺して闇に沈んだ。屋敷の窓は黒々と閉ざされ、人気のないように見えたが、不気味な予兆があたりを支配していた。


 そのとき、巡査のひとりが身を乗り出し、押し殺した声で囁いた。

「警部、あれを……」


 指さす先に、二階の窓から淡い灯が漏れていた。凝視すると、その明かりの下を人影が行き来しているのが見えた。背格好は確かにボンドに違いない。


「まるで……山田の目撃談と同じだ」

 椛島警部が呟いた声には、不吉な予感が混じっていた。


 だが次の瞬間、事態は急変した。窓際の人影――ボンドが突如として身をよじり、苦悶するように両腕を振り上げたかと思うと、部屋の明かりが忽然と消え失せたのである。


「な……!」

 誰もが息を呑んだ。


 私は反射的に立ち上がり、椛島警部と顔を見合わせた。彼の瞳には驚愕と決断が入り混じっていた。


「急げ!」


 我々は一斉に植え込みから飛び出し、巡査らを従えて屋敷の玄関へと走った。深夜の静けさを破り、力の限りドアを叩く音が響いた。


 ※


 我々が戸を叩き続けると、しばらくして屋敷の奥から慌ただしい足音が響き、やがて重い閂が外される音がした。軋みを上げて扉が開くと、現れたのは痩せぎすの長身――甚助である。彼は蒼白な顔で我々を見やり、震える声で言った。


「な、何事ですか。夜分にこれほど騒がれては……」


「戯け! 屋敷の二階で異変が起きたのだ。案内せよ!」

 椛島警部が凄むように命じ、巡査らが一斉に屋内へ雪崩れ込んだ。私も続き、思わず冷たい空気に身震いした。内部はしんと静まり返り、闇に潜む気配が背筋をぞくりとさせる。


 我々は急ぎ階段を駆け上がり、件の二階へと踏み入った。そこは確かに山田氏が目撃したという部屋である。


 椛島警部があわててドアノブをひねるが、鍵がかかっている。そこで警部は何度かドアを叩く。すると鍵が外れる音がして、お秋が不機嫌そうな顔を見せる。意に介することなくドアを押し開け、我々は室内に入った。


「これは……」


 布団には乱れた後はあったものの、窓辺の椅子も机も乱れた形跡はなく、むしろ整然と片づけられていた。さっきまで寝ていたといった風情のお秋が迷惑そうにこちらを見ている。


「おかしい……確かに人影が……ボンドがいた」

 私は震える声で呟いた。するとお秋が鼻を鳴らす。


「あたしがあの外国人の旦那を連れ込んだって言うんですか?今日会ったばかりの男を閨に連れ込むタマじゃありませんよ」


「あ、いや……」


 私が慌てていると椛島警部も汗をふきふき説明した。


「いや、外から見はっておったんじゃが。この部屋でボンドどんが襲われておったんじゃ」


「この部屋で?」


 椛島警部の説明にお秋が甚助のほうをチラリを見る。それに気づいた私は、甚助のほうを向くが彼の顔は青ざめているようだった。


「やあ、おそろいだね」


 その時である。暗がりの向こうから、ひとりの影が現れた。背筋を伸ばし、悠然と歩んでくるその姿――ボンドその人であった。


「ボ、ボンド!」

 私は思わず声を上げた。椛島警部も甚助もお秋も幽霊でも見たような顔をしている。


「ど、どこにおったんじゃ!」


 我々がここに来るまでに1分か2分といったところである。お秋の協力があったとしても、素早く部屋を出てどこかに身をひそめるのは相当に難しい。他の部屋に隠れていたのならドアの音で気づく。


「どういうことだ?ボンド」


 私がそう言うと、ボンドは甚助とお秋のほうを見た。薄暗がりの中でも彼らの顔が青ざめているのがわかる。


「面白いものを見せよう。ミスター・カバー、元の場所に戻ってくれたまえ。甚助、お秋、君らもだ」


 ボンドが片目をつぶる。それは昨日の朝、椛島警部の来訪を聞いた時に見た少年っぽい笑みに近かった。



「さっぱりわからん」


 首をひねる椛島警部とともに我々は先ほどの植え込みの近くに立った。甚助とお秋の周囲には警官がぴったりとついている。


 先ほど、ボンドはお秋の部屋に鍵を閉め、それを警部に渡した。つまり、あの部屋には誰も入れなくしていた。その意図がわからず、我々はしばしその時を待った。


「警部、あれを!」


「おおお!」


 いきなりお秋の部屋の窓に明かりがともる。そして、ボンドらしい人影が手を振っているのが見える。


「ど、ど、ど……どうやって」


 手に持った鍵と手を振るボンドを何度も見比べる。すると、頭上から声が響いた。


「こっちですよミスター・カバー」


「え?」


 見上げると我々の背後にある建物の2階の窓が開き、ボンドが顔を出している。そこで私はあることに気づいた。


「わかった!あの部屋の窓は鏡なんだ!それで反対側の窓の光景が映し出された!山田はそれに気づかずにあそこで犯行が行われたと思ったんだ!」


 頭上のボンドへ私は推理を述べる。ボンドはにっこりと笑った。


「ほぼ正解だ。しかし、窓に鏡なんてつけてはいない。そんなものがあればだれでも気づくだろ」


「で、では、どういう絡繰りなんじゃ」


 椛島警部の問いにボンドは手に持ったランプをゆらゆらと振って見せた。


「皆さんも覚えがありませんか?自分の部屋に明かりあると、暗い外の景色が見えず、窓に自分の姿が反射していることに。あれは明るさの差で、窓が鏡の役割を果たすからです」


「で、では……」


「警部!逃がさないで!」


 ボンドの鋭い声が響く、甚助とお秋が脱兎のごとく逃げようしたのだ。すぐに椛島警部の部下たちが反応し、2人が取り押さえられる。


「まさか……こいつらが犯人か?」


「それは彼らに聞いてください。さて、ハーンくん。佐竹氏から許可は出ている。夜も遅いし、1杯やって、ひと眠りしてから家に帰ろうじゃないか」


 いつのまにかボンドの手には洋酒のビンが握られている。私は呆気に取られながら、頷くしかなかった。



 その後、連行された甚助とお秋は、矢継ぎ早の尋問に観念したのか、次第に声を震わせながら事件の全貌を白状した。


 彼らは裏社会に巣食う人身売買組織と通じており、佐竹氏の海運会社を隠れ蓑に、国内から攫った女性を海外へと密かに売り払っていたのである。本来なら孤児や身寄りの薄い者を狙っていたが、近ごろは目の肥えた富裕な客を満足させるために、学識や教養を備えた女性をも用意せねばならなかった。家庭教師募集の名目は、まさにそのために考え出された奸計だったのだ。


 しかし、佐竹氏を利用するのも限界となり、彼らは今までの誘拐を佐竹氏になすりつけることを計画した。


 かくして計画はこうであった。山田氏に文を送り、屋敷を遠望できる位置に立たせ、窓の反射を利用して“事件”を捏造し、彼をあたかも確証ある目撃者に仕立て上げる。そして屋敷の内側からは、お秋や甚助が証言を合わせ、すべてを佐竹氏の罪に仕立てる。肝心の聡子女史はすでに屋敷から連れ出され、船で運ばれる段取りになっていた。


 だが運命の女神は彼らに微笑まなかった。ボンドの鋭い介入が、すべてを暴き立てたのである。


 聡子女史は、佐竹氏所有の船舶のひとつから発見された。発見時にはひどく衰弱していたが、幸い命に別状はなかった。拘束から解放された彼女は蒼白の面持ちでありながら、山田と再会して涙を流した。その光景に、私は胸の奥が強く揺さぶられるのを感じた。



 数日後。私は自宅の居間で、煙草をくゆらせながら安堵の息をついた。

「これで一件落着だな」


 向かいではボンドが珍しく朝食の席につき、香り高い紅茶を愉しんでいた。しかしその眼差しには、獲物を追い続ける鷹のような、どこか満たされぬ鋭さが残っていた。


「ハーンくん、あの犯行だがね。甚助やお秋に思いつくものだろうか」


 彼はカップを置き、声を潜める。


「え?」


 ボンドは紅茶を再び口にし、唇に笑みとも溜息ともつかぬ陰影を浮かべた。


「彼らが愚かとは言わないさ。しかし、ああいった手の込んだ犯行や佐竹氏に罪を擦り付ける悪知恵……僕にはどうも別の人物がいるのではと思っているのさ」


「つまり、人身売買組織の誰かの計画かね」


 ボンドは静かにうなずき、紅茶をティーソーサーの上に置く。その横にはMの蝋封がついた封筒が置いてある。


「……まさかな」


「ど、どうしたんだ?」


 ボンドが低く呟いたその言葉は、私には謎めいた呪文のように響いた。しばしの沈黙のうち、ボンドは何かを思いついたように私に質問する。


「ハーンくん、この事件を記録に残したりはしないだろうね。まさか、小説にでもして世に出すなどと」


「馬鹿を言うな。そんなこと、するものか」

 私は狼狽しながらも言い切った。


 するとボンドは、いたずら好きの少年のように声を立てて笑い、緊張を一瞬にして吹き飛ばした。私はただ呆然と彼を見守るばかりだった。


 セツが運んできた緑茶の湯気が、静かに私の前に立ちのぼった。


消える花嫁(完)

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