第十四話『姫と姫──沈黙の昼餉』
縁側から射し込む春の光が、膳の縁を白く照らしていた。
湯気立つ吸い物の香りに、焼き物の仄かな焦げ香が混じる。
だが、この場に最も濃く漂っていたのは、沈黙だった。
昼餉の席に並んでいたのは、帰蝶と小夜。
他の者を退け、“二人きり”での膳。
箸を動かす音が、無音の中に心地よく響いていた。
「今日は……香を焚かないのですね」
小夜が先に口を開いた。
その声音には、柔らかさと挑戦の色が交じっていた。
「ええ。あなたが焚かないなら、私も遠慮しておきましょう」
帰蝶は茶碗を置きながら微笑む。
「たまには、香に頼らぬ会話も必要かと」
小夜は頷く。だが、その眼差しは笑っていない。
膳の上に並ぶ器は、どれも季節の彩を映していた。
白味噌に浮かぶ菜花、筍と若布の和え物、木の芽が添えられた蒸し物。
「美味でございますね」
小夜は、あくまで礼儀正しく呟いた。
その言葉の裏に、何かを仕掛ける気配がある。
帰蝶は、相手の動きを静かに探る。
香がなくとも、小夜の一挙手一投足には香のような“揺らぎ”がある。
まるで香りそのものが、人間の姿を借りてこの場にいるかのようだった。
やがて、ほんの一瞬。
風に乗って、ごく淡く、香が漂った。
(……焚いていないはずなのに)
香炉はどちらの側にもなかった。
だが、小夜の袖口から、かすかに香が立った。
(香衣か……香を纏っている)
帰蝶もまた、気づかれぬよう懐から小瓶を取り出し、指先に微量の香油を馴染ませる。
空気が、徐々に二つの香りで満ちていく。
小夜の香は、果実に似た甘さと湿った薫気。
帰蝶の香は、白檀と芍薬のような清冽さ。
嗅ぎ交わされる無言の会話。
「あなたの香、清らかですわ。けれど、あまりに澄んでいて……退屈」
小夜の言葉は、まるで硝子をなぞるように滑らかだった。
「あなたの香も、甘いわ。けれど、熟れすぎた果実ほど──中は腐りやすい」
帰蝶の声音は、真綿のように柔らかく、だが芯に鋼を含んでいた。
互いの言葉が、香に交じって空間を刺し合う。
まるで刀を抜かずに、腹を探り合う二人の剣士。
膳を終えた頃、小夜は立ち上がった。
ふわりと衣を払う仕草に、再び香が揺れる。
「次にお目にかかる時までに……
どちらの香が、この部屋に残っているか──勝負といたしましょう」
帰蝶は静かに頷いた。
「香は残る。でも、残り方で“意味”が変わる。
あなたの香が“媚び”なら、私の香は“意志”」
小夜は、微笑みを深くして、静かに去っていった。
残された部屋には、甘さと凛とした清香が、複雑に絡み合っていた。
帰蝶は香帳を開き、そっと一筆を添えた。
──『香、政(まつりごと)となる。
微笑の裏に刃あり。香にて読み、香にて裁す』
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