第十二話『笑う者、嗤われる者』

御殿の空気が、どこか浮ついていた。

 それは明るさとは違う。熱に浮かされたような、軽やかさ。

 女中たちは朝から笑みを絶やさず、時には意味もなく互いの手を取って笑い合っている。


 帰蝶は、その光景を襖の向こうから静かに観察していた。

 昨日、小夜が残していった香──“笑いの香”。

 どうやら、今もその残り香が室内に滞留しているらしい。


 そして、昼下がりのことだった。


 「姫様! お目にかけたい舞がございます!」


 一人の若い女中が、明るい声で申し出てきた。

 名は鈴音。かつては人前に出ることすら苦手だったはずの娘。


「……舞?」

「はい。最近、胸が躍って仕方なくて……どうしても身体が動いてしまうのです」


 許可を出すと、鈴音は庭の縁に舞台を設け、簡素な装束で軽やかに舞い始めた。

 しかし──


 途中から、動きが乱れ始めた。

 彼女の目が虚ろになり、笑いながら回り続け、やがて転倒。

 それでも笑い続け、身体を叩き、泣きながら笑い続ける姿に、他の女中たちは凍りついた。


「やめて、鈴音! もう、やめて……!」


 叫び声と混乱。


 そのとき、静かに、だが確かに空気が変わった。

 濃紫の着物を纏った一人の女官が、すっと御殿の奥へと歩み出たのだ。


「下がりなさい」


 その声は低く、だが決して乱れぬ響き。

 彼女の名は──柚葉(ゆずは)。小夜に付き従う側女である。


「ここより先、小夜様の香域(こういき)に立ち入る者、静粛を以て応じること」


 そう言って柚葉が掌に乗せた香包を軽く振ると、わずかに苦みを帯びた香が空間を制した。

 甘さの余韻を消すように、鎮めるように。


 鈴音の身体がふらりと崩れ、女中たちの騒ぎは収束していく。

 笑顔は消え、代わりに一様に沈黙と平伏が広がった。


     ◆


 帰蝶はその光景を、畳の間からじっと見ていた。

 柚葉の手際、そして香の制御力。


「……香で“空気”を握る、というのか」


 小夜の香が人を操るのではなく、“場”を調えるものだとしたら──

 それは戦場における地形操作にも等しい。


 その夜。

 帰蝶は自室で、香炉に残っていた灰を注意深く取り出していた。

 そこに含まれていた微細な粉末──


「これは……麝香、白芷、そして……紅蓮根の蒸留精」


 微量ではあるが、これは“記憶固定”の成分。

 一度感情が強く刺激されたとき、その瞬間を脳内に焼き付けてしまう調香。


 つまり、小夜は──

 女中たちに“笑いと狂乱”という体験を刻みつけたということだ。

 その記憶が強く残れば残るほど、彼女たちは小夜の香に染まりやすくなる。


「……一度笑った者は、もう戻れない」


 帰蝶は、香炉の蓋を閉じた。


 これは、ただの香ではない。

 “笑顔の毒”──表情の裏に刃を忍ばせる、精緻な謀略。


(小夜。あなたは、感情すら戦に使うのね……)


 その夜、帰蝶の香帳には新たな記述が加えられた。


 ──『敵の香、嗤いにあり。記憶を封じ、従属の種とする』


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る