第三話『仮面の影と香の罠』

 夜半、寝所に焚かれていた香の匂いが、ふと変化した。

 帰蝶は眠りの淵でその変化に気づき、目を開ける。甘く、妖しい香り。白檀ではない。


(……麝香。しかも、ごく薄く。混ざっているのは……桜花香?)


 布団を出て香炉の傍に膝をつく。静かに蓋を外すと、その底に“別の香木”が差し込まれていた。

 色も形もわざと不揃い。焚かれていたのは、調合された“偽の香”だった。


「興奮を誘い、警戒を緩めさせる……香の力で、精神を揺さぶるつもりね」


 香炉の細工に手を触れたとき、背後に気配が走った。

 すっと、障子が開きかける音。そして……仮面の男。


「……また、あなた」


 仮面の男は一歩踏み出し、そして立ち止まる。

 そのまま声を落として言った。


「姫様は、まだ試されているのです」


「誰に?」


「それは、答えてはなりません。……姫様が見抜くまでは」


 仮面の男はそれ以上語らず、香の煙の中に溶けるように去っていった。


     ◆


 翌朝。お咲に昨夜の香の件を問いただすと、彼女は一瞬だけ顔を強張らせた。


「それは……私の差配ではありません。香の管理は“表の帳簿”と“裏の香棚”が分かれていて……」


「裏の香棚?」


「仮面の方々が……時折、香の順序を指示されることが……」


 帰蝶は頷く。

 つまり、香は“別の命”で操作されている。気づかれない程度に、日々。


「お咲。以前、この城で毒が盛られたことがあるのでは?」


「……はい。ちょうど、三月ほど前。台所の者が“手違いで”煮物に誤った薬草を……。でも、それは……」


「“手違い”だったと?」


 お咲は口を閉ざしたまま、かすかに首を振った。


「皆、それ以上を言いません。舌を抜かれるからだ、と……」


 帰蝶の手元に残る香木を見つめながら、お咲はそっと声を潜めた。


「姫様……この城は、おかしいのです。空気の中に、何かが潜んでいる気がします。ずっと前から……」


     ◆


 帰蝶は寝所に戻り、香炉に残された香木の“削り跡”を改めて確認した。

 同じ香炉でも、焚かれる香が日々微妙に変化している。

 誰かが、香で人の心を揺さぶり、行動を制御しようとしているのだ。


 だが、それは“誰のため”なのか。

 信長か。仮面の密命者か。それとも……。


 香に込められた意図は、まるで見えない刃。触れれば即座に切り裂かれる。


 帰蝶は目を閉じた。


(私はまだ試されている。

 ならば、その試練を、真っ向から嗅ぎ分けてみせましょう)


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