第6話 断罪

 雨の降る日に、北沢君の部屋と尊厳を残酷に踏みつけ、彼の完全な服従を確認してから、また季節は少しだけ歩みを進めていた。夏の気配が濃くなり、半袖の制服から覗く生徒たちの腕も、日に焼けて健康的な色を帯び始めている。しかし、北沢君だけは、季節の変化から取り残されたかのように、常に青白い顔で、私の影に怯え続けていた。


 彼のその反応は、もはや私にとって日常の一部となっていた。廊下ですれ違えば飛び上がり、私の声が聞こえれば硬直し、視線が合えば蒼白になって俯く。それはそれで、私の所有欲を満たしはしたが、同時に、予測可能な反応に、私は微かな退屈を感じ始めてもいた。もっと違う刺激が欲しい。彼の、心の奥底にある、最も脆く、最も触れられたくない部分を、直接この手で(あるいは、この足で)壊してみたい。そんな、悪魔的な欲求が、私の内で鎌首をもたげていた。


 そうだ、彼に「希望」という名の毒を与え、それを徹底的に裏切ることで、彼の精神を完全に破壊しよう。あの屋上での出来事以上に、深く、そして修復不可能な傷を、彼の魂に刻みつけてやろう。


 計画を練り、私は実行に移すことにした。金曜日の放課後。他の生徒たちが教室を出ていく中、私はわざとゆっくりと帰り支度をしながら、教室の隅で息を潜めるように荷物をまとめている北沢君に近付いた。そして、彼の耳元で、誰にも聞こえないように囁いた。


「北沢君、すぐに屋上に来て。大事な話があるから。誰にも言わずに、一人でね」


 私の声には、有無を言わせぬ響きと、そしてほんの少しの、甘い響きを混ぜたつもりだった。彼はびくりと体を震わせ、怯えきった目で私を見上げたが、私の真剣に見える表情に、逆らうことはできなかった。彼は小さく頷くと、先に教室を出て、屋上へと向かった。もちろん、階段を使う生徒たちに紛れ、怪しまれないように細心の注意を払いながら。


 私も、少し時間を置いてから教室を出て、屋上へと向かった。屋上へ続くドアは、幸いにも、今日は鍵がかかっていなかった。ドアを開けると、熱気を帯びた風が吹き込んできた。屋上には、彼の他には誰もいない。彼は、フェンスの近くで、不安そうに私を待っていた。


「……い、井上さん……。大事な、話って……?」


 彼は、緊張で声が上ずっている。


「ええ」私は、ゆっくりと彼に近付き、悪戯っぽく微笑んでみせた。「あのね、北沢君。今度の日曜日、もしよかったら……だけど。二人で、どこかに出かけない?」


 その言葉は、予想通り、彼に衝撃を与えた。彼はあんぐりと口を開け、目を白黒させている。


「……え……? あ、あの……で、で……デート、ですか……? 僕と……?」


「そうよ、デート」私は、彼の反応を楽しみながら、小首を傾げた。「ダメ……かな?」


 しかし、彼はすぐには頷かなかった。これまでの経験が、彼に警戒心を植え付けているのだ。彼は、俯き、か細い声で言った。


「……で、でも……。きっと、また……何か、酷いことを……するんじゃ……。僕は……もう……」


 最初の拒絶。予想通りだ。けれど、これで諦める私ではない。


「酷いこと?」私は、驚いたように目を見開いてみせた。「どうしてそんなこと言うの? ……もしかして、気付いてない?」


 私は、彼との距離をぐっと詰め、彼の腕にそっと触れた。彼はびくりと体を震わせ、後ずさろうとしたが、フェンスに阻まれてそれは叶わない。


「私が……最近、あなたのこと、違う目で見てるってこと」


 私は、できるだけ甘く、囁くように言った。彼の耳元に、吐息がかかるくらいの距離で。彼の体が、恐怖と、そしておそらくは混乱で、硬直していくのが分かった。


「……ち、違う目……?」


「そうよ。……最初は、あなたみたいな変態、許せないって思ってた。だから、色々……しちゃったけど……」私は、そこで言葉を濁し、潤んだ瞳で彼を見上げてみせる。「でもね……。分からないけど……。あなたを苛めてるうちに……なんだか、あなたのことが……気になっちゃって……」


 これが、私の用意した「誘惑」の言葉。我ながら、吐き気がするほど甘ったるく、そして陳腐だと思ったが、彼には効果があるはずだ。内心では、彼のこの怯えきった反応と、私の言葉に揺れ動く様を、冷ややかに観察し、嘲笑していた。


 しかし、彼はまだ疑っていた。


「……で、でも……。だって、井上さんは、僕のこと、奴隷だって……」


 二度目の拒絶。彼は、必死に、私の甘い言葉の裏にあるであろう真実を見極めようとしている。だが、それも無駄な抵抗だ。


「……馬鹿ね」私は、さらに一歩踏み込み、今度は彼の手を取った。彼の手は、汗でじっとりと湿っていて、微かに震えていた。私は、その手を、自分の両手で包み込むように握りしめた。「あの時は……そう言うしかなかったじゃない。……あなただって、分かるでしょう? あんな状況で、本当の気持ちなんて……言えるわけないって」


 私は、彼の目を見つめ、訴えかけるように続けた。


「……もしかしたら、あなたも、同じ気持ちだったりしないかなって……。私のこと……本当は……」


 私は、そこまで言うと、わざと顔を赤らめ、俯いてみせた。完璧な、恋する乙女の演技。


 北沢君は、完全に混乱していた。私の突然の変化、積極的なアプローチ、物理的な接触。彼の頭の中は、恐怖と、疑念と、そして、信じたいという抗いがたい願望とで、ぐちゃぐちゃになっているだろう。彼の顔色が、赤くなったり、青くなったりと、目まぐるしく変わる。心臓の鼓動が、握りしめた手を通して、ドキドキと伝わってくる。


(……落ちたわね)


 私は、確信した。


「……わ、分かり……ました……」


 ついに、彼は折れた。恐怖よりも、私の言葉と態度に揺さぶられ、「もしかしたら本当かも」という、一縷の望みに賭けることを選んだのだ。


「じゃあ……」私は、顔を上げ、最高の笑顔を見せた。「日曜日のデート、楽しみにしてる。あ、そうだ。その時までに、あなたの私への本当の気持ち、全部手紙に書いてきてほしいな。あなたの言葉で、ちゃんと聞きたいから」


 最後の要求。これも、彼は「はい……」と力なく頷いた。


「ありがとう」私は、彼の手をそっと離すと、名残惜しそうな表情(もちろん演技)で、彼に背を向けた。「じゃあ、日曜日ね」


 私は、屋上を後にした。階段を下りながら、さっき彼の手を握っていた自分の手のひらを見て、激しい嫌悪感と共に、計画が成功したことへの、冷たい満足感が込み上げてくるのを感じた。あの愚かな男は、完全に私の掌の上で踊っている。日曜日の、彼の絶望する顔を想像すると、自然と口元が緩んだ。


 そして、運命の日曜日。私は、鏡の前で、いつも以上に時間をかけて「完璧な女の子」を創り上げていた。服装は、淡いクリーム色の、繊細な花柄がプリントされたワンピース。髪は編み込みアップに白いリボン。メイクも完璧。そして足元は、黒いエナメルのポインテッドトゥパンプスに、黒いリボンのついた真っ白なクルーソックス。今日の私は、彼にとっての「理想の彼女」そのもののはずだ。


 待ち合わせ場所の公園の入り口に着くと、彼はすでに到着していた。彼なりにおしゃれをしてきたのだろう、少しぎこちない服装で、白い封筒を胸に抱くようにして、立っていた。私の姿を認めると、彼は息を呑み、顔を真っ赤にして駆け寄ってきた。


「い、井上さん……!き、綺麗だ……!本当に、お姫様みたいだ……!」


 その興奮しきった様子に、私は内心で嘲笑しながらも、完璧な笑顔で応える。


「ありがとう、北沢君。あなたに会えるのが楽しみで、頑張っちゃった」

「僕も……楽しみにしてました……!」


 私たちは、公園の奥の、人目につきにくいベンチへと向かった。道中、彼は緊張しながらも、必死に何かを話そうとしていたが、私は適当に相槌を打つだけだった。私の心は、これからの「本番」への期待で満たされていたからだ。


 ベンチに腰を下ろすと、彼は早速、震える手で、例の封筒を差し出してきた。


「あの……これ……。僕の、気持ちです……」


「まあ、ありがとう」私は、それを受け取った。ずしりと重い。何枚書いたのだろうか。


「でもね」と私は続けた。「あなたの口から、直接聞きたいな。読んでくれる?」


 彼の顔に、一瞬、戸惑いの色が浮かんだが、彼はすぐに「は、はい!」と頷き、私が持っていた手紙の束を受け取ると、その一枚目を開き、震える声で読み始めた。


「い、井上あさひ様……。僕が、あなたという存在を……」


 その後の展開は、私の計画通りだった。彼の痛々しくも熱烈な告白を、私は何度も遮り、冷たく、意地の悪い言葉でケチをつけ続けた。


「その表現、やっぱり気持ち悪いわ」

「もっと、具体的に書いてくれないと。全然、情景が浮かばない」

「あなたって、本当に語彙力ないのね。小学生の作文みたい」


 そのたびに、彼の声は萎縮し、顔からは血の気が引いていった。それでも、彼は必死に最後まで読み上げた。読み終えた時、彼の顔には疲労と、そして最後の、ほんのわずかな期待の色が浮かんでいた。彼は、恐る恐る私の顔色を窺う。


「……ど、どう……でしたか……?」


 私は、しばらくの間、彼を無言で見つめた。そして、手に持っていた手紙の束を、もう一度、パラリとめくってみせた。


「……ふーん……」


 わざとらしく、ため息をつく。彼の最後の希望が、風前の灯火のように揺らめいている。


 そして、次の瞬間。


 ビリッ!ビリビリッ!!


 私は、彼が魂を込めて書き上げたであろうラブレターを、何の躊躇もなく、二度、三度と、力任せに引き裂いた。紙の破れる、乾いた音が、静かな公園に虚しく響き渡る。


「……え……? な……んで……?」


 彼は、目の前で起こったことが信じられない、という顔で、私と、私の手の中の紙片を交互に見た。


 私は、立ち上がり、裂かれた便箋の破片を、彼の足元に、ゴミでも捨てるかのように、叩きつけた。白い紙片が、地面に無残に散らばる。


「い、井上さん……!? な、何するんですか……!?」


 彼の声が、絶望に震える。


 私は、ふわりと風に流れた髪を、指で優雅にかき上げた。そして、心底だるそうに、しかし唇の端には冷酷な笑みを浮かべて、言った。


「ごめんなさいね。やっぱり、あなたの書いたもの、全部聞いたけど、心に響くもの、何一つなかったわ」


 そして、私は右足の、黒いエナメルのポインテッドトゥパンプスを、ゆっくりと上げた。鋭いヒールが、太陽の光を反射してきらめく。


 ドン!


 ヒールが、地面に散らばったラブレターの破片の真ん中に突き刺さる。


「それに、いつまでも勘違いしないでくれる?」


 私は、ヒールで紙片をぐりぐりと踏みつけながら、冷たく言い放った。尖った爪先が、彼の言葉を、彼の想いを、紙ごと地面に擦り付けていく。


「私が、あなたみたいな、『上履きを舐めるような変態』と、本気で付き合うとでも思った?」


 もう片方の足でも、散らばった紙片を踏みつける。エナメルのパンプスが、彼の心をめちゃくちゃに踏み躙っていく。白いソックスの黒いリボンが、嘲笑うかのように揺れていた。


 その言葉は、彼の心を完全に打ち砕いた。彼は、がくりと膝から崩れ落ち、地面に散らばった、踏み躙られた自分のラブレターの残骸を、ただ呆然と見つめていた。その瞳からは、大粒の涙が、止めどなく流れ落ちていた。


 ああ、なんて美しい光景。彼の絶望。それを見ていると、私の胸の奥から、熱い歓びと快感が湧き上がってくる。


 その時、ふと、数日前の屋上での、自分の行動が脳裏をよぎった。彼の手を取り、甘い言葉を囁き、彼に期待させた、あの「痴態」。思い出すだけで、自分自身への嫌悪感と、そして、そんな私にまんまと騙されたこの男への、新たな怒りが込み上げてきた。


(私の、あんな姿を引き出したのは、こいつのせいだ……!)


 怒りは、すぐに暴力へと転化した。


 パァァン!!!


 私は、泣き崩れる彼の左頬を、思い切り平手で打ち据えた。


「……っ!?」


 彼は、顔を上げ、驚愕の表情で私を見る。


「あんたみたいな変態に、あんな恥ずかしい真似させられたこと、今思い出しても腹が立つわ!」


 パァン!パァン!


 往復で、さらに数発、彼の頬を打つ。彼の顔は瞬く間に腫れ上がり、涙と血でぐしょぐしょになった。


「分かった!? あの時あんなこと言ったのは、全部嘘っぱちなのよ!」


 私は、彼の髪を掴んで無理やり顔を上げさせ、耳元で嘲るように囁いた。


「あんたをここに呼び出して、こうやって痛めつけて、絶望させるためだけに決まってるじゃない! あははは!」


 高らかに笑い声を上げる。それは、私の本心からの、悪魔の哄笑だった。


 私の言葉と暴力に、彼は完全に打ちのめされ、抵抗する力もなく、地面に倒れ込んだ。


「……う……うぅ……っ……」


 彼は、地面に蹲り、ただただ嗚咽を漏らすだけだった。


 私は、そんな彼を冷たく見下ろし、そして、とどめを刺すように、右足のパンプスの、鋭いヒールを上げた。


 ガスッ!!


「……ぎゃっ……!」


 ヒールが、彼の背中に深く突き刺さる。私は、そのまま体重をかけ、グリグリと抉るように踏みつけた。


「痛い? 苦しい? でも、これが現実なのよ!」


 ガスッ!ガスッ!ガスッ!ガスッ!


 私は、怒りと快感の赴くままに、何度も何度も、彼の背中、腰、脚を、執拗に踏みつけた。ヒールが突き刺さるたびに、彼が苦痛の呻き声を上げる。その声が、私のサディスティックな心をさらに刺激する。


 やがて、私の興奮が最高潮に達し、そしてゆっくりと収まり始めた時、私はようやく彼を踏みつける足を止めた。彼は、地面に伸びたまま、ぴくりとも動かない。ただ、浅く、苦しげな呼吸を繰り返しているだけだった。


 私は、少し乱れた息を整え、汗ばんだ額の髪をかき上げた。そして、地面に転がるゴミ屑のような彼に、最後の宣告を、はっきりと告げた。


「よく、聞きなさい。あんたは、私の言うことを何でも聞く、ただの惨めな『奴隷』。昨日も、今日も、そして、これからも、ずーっと、永遠にね。分かった?」


 返事はなかった。ただ、彼の体が、絶望の深淵で、微かに震えたような気がした。


「……まあ、返事なんて、どうでもいいけど」


 私は、ふん、と鼻を鳴らすと、彼に背を向けた。


「じゃあね、私の可愛い奴隷さん。せいぜい、その惨めな体で、今日のことを思い出して、のたうち回ることね」


 私は、黒いエナメルパンプスで、地面に散らばったラブレターの最後の残骸を、もう一度だけ、強く踏みつけた。そして、カツ、カツ、とヒールの音を公園に響かせながら、その場を悠然と立ち去った。


 後ろで、彼がまだ地面に伏したまま、動けずにいる気配を感じながら。


 公園を出る頃には、私の心は、これ以上ないほどの達成感と、暗く、そして焼けつくような歓びで満たされていた。彼の心も、体も、完全に私の支配下に置いた。私は、ついに、彼を完全なる「奴隷」へと堕としたのだ。


 次に彼に会う時は、どんな「ご褒美」を、この奴隷に与えてあげようか。そんなことを考えると、初夏の太陽は、私の未来を祝福するかのように、眩しく輝いているように思えた。私の足音が刻むリズムは、勝利のマーチのように、高らかに響き渡っていた。

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