第3話 儀式
月曜日の朝。週末の出来事がまるで嘘だったかのように、学校はいつも通りの喧騒に包まれていた。けれど、私の中では何かが決定的に変わってしまっていた。教室のドアを開け、自分の席に向かう途中、視界の端に彼の姿を捉える。北沢君。彼は窓際の後ろから二番目の席で、俯き加減に座っていた。その姿はいつもよりさらに小さく、影が薄いように見える。彼が私に気づいたのか、びくりと肩を揺らしたのが分かった。しかし、彼は決して顔を上げようとはしなかった。
それでいい、と思った。彼は私の「秘密」を共有し、そして私の「支配」下にある。その事実が、教室の空気の中に、私たち二人だけの見えない糸を張り巡らせているようだった。
私は平静を装い、自分の席についた。教科書を開き、ノートを準備する。けれど、意識の一部は常に彼の存在を捉えていた。彼の挙動、息遣い、私を恐れる気配。そのすべてが、体育倉庫裏の記憶を鮮明に呼び覚まし、私の心の奥底に、言いようのない、ざわめくような感情を呼び起こす。
今日の私は、あの時と同じ、泥に汚れた上履きを履いていた。朝、下駄箱で履き替えるとき、一瞬だけ迷った。けれど、すぐにその迷いを打ち消した。この汚れこそが、あの出来事の証であり、彼に対する私の力の象徴なのだ。私はわざと、北沢君にも見えるように、少し大胆に足を組み替えたりしてみた。短めの白いソックスに、泥と草の染みが靴底に点々とついた汚れた上履き。私の制服は、アイロンのかかった真っ白なセーラーカラーに、きちんと折り目のついた紺色のプリーツスカート。その清潔さと、足元の汚れとのアンバランスさが、今の私の歪んだ状態を体現しているようだった。北沢君、気付いただろうか?気付いたとして、何か言えるだろうか?
午前中の授業は、酷く長く感じられた。早く昼休みにならないか、とそればかり考えていた。彼をどうしようか。何をさせようか。金曜日の、あの泥水の中で彼を踏みつけた時の、背徳的な快感。それを思い出すだけで、体の芯が熱くなるような感覚があった。私は、自分の中に潜んでいたサディスティックな衝動を、はっきりと自覚し始めていた。そして、それを抑えるどころか、むしろもっと探求したいという欲求に駆られていた。
チャイムが鳴り、待ちに待った昼休みが始まった。教室のあちこちで、賑やかな声と共に弁当箱が開かれる。
「あさひー!一緒にお昼食べよ!今日は中庭で食べるの、気持ちよさそうじゃない?」
太陽みたいな笑顔で誘ってくる親友に、私は精一杯申し訳なさそうな顔を作った。
「わ、ごめん、由紀!誘ってくれたのに本当に申し訳ないんだけど、今日はちょっと……先生に頼まれた調べ物があって、図書室に行かないといけなくて……。先に食べててくれる?」
努めて残念そうな声で言うと、由紀は「そっかー、残念!じゃあ、また後でね!」とあっさり頷き、他の友達の方へと駆けていった。
私が視線を上げると、北沢君が自分の席で、恐る恐る弁当箱の包みを解いているところだった。色とりどりの、おそらくは彼のお母さんが心を込めて作ったであろうおかずが見える。彼は、周囲を気にしながら、小さく「いただきます」と呟き、箸を手に取った。
その瞬間を狙って、私は静かに立ち上がり、彼の席へと近づいた。私の接近に気づき、彼はびくりと体を震わせ、箸を取り落としそうになった。顔が恐怖に引きつっている。
「北沢君」
私は、周囲の生徒には聞こえないよう、しかし彼だけにははっきりと聞こえる声で呼びかけた。
「……は、はいっ……」
彼は怯えた子犬のように、反射的に返事をした。けれど、私は気にも留めなかった。
「ちょっと、来てくれる?」
「……え……。で、でも、お弁当……」
「いいから、早く。お弁当も持ってきて」
有無を言わせぬ口調で命じる。彼は一瞬、私に心細い視線を送ったが、すぐに諦めたように立ち上がった。彼の顔は蒼白だった。
「どこへ……?」
「屋上よ」
私はそれだけ言うと、彼に背を向け、教室のドアへと向かった。彼が慌てて後をついてくる気配を感じる。何人かの生徒がこちらを見ている視線を感じたが、それすらも今の私には快感の一部だった。彼らが知らない、私と北沢君だけの秘密の関係。その優越感が、私を満たしていた。
廊下を歩き、階段を上る。私の、昨日と同じ泥のついた上履きが、掃除されたばかりの廊下に、パタパタと乾いた音を立てる。その音を聞きながら、私は言いようのない興奮を感じていた。すぐ後ろをついてくる彼の、怯えたような、それでいてどこか期待するような、複雑な気配。彼はこれから何をされるのか、薄々感づいているのかもしれない。そして、それを恐れながらも、心のどこかで望んでいるのかもしれない。彼がマゾヒストであることは、金曜日の様子で明らかだったから。
屋上へ続くドアは、普段は施錠されているはずだった。けれど、私は事前に用務員さんが鍵をかけ忘れていることがあるのを知っていた。案の定、ドアノブはあっさりと回り、重い鉄の扉が開いた。
屋上は、思った通り誰もいなかった。五月の心地よい風が吹き抜け、青い空が広がっている。眼下には、ミニチュアのような街並みが見えた。フェンスが周囲を囲んでいるだけの、殺風景なコンクリートの広場。けれど、今の私にとっては、最高の舞台だった。
「北沢君、こっち」
私は屋上の中央へと歩き、彼を呼んだ。彼は、まるで引き立てられる罪人のように、おどおどとついてくる。
「そこに、お弁当、置きなさい」
私は足元のコンクリートを指さした。彼が手に持っていた弁当箱。彩り豊かで、愛情が込められているのが分かるそれ。
「……え……?」
「早く」
彼は一瞬ためらったが、私の鋭い視線に射すくめられ、言われた通りに、弁当箱をコンクリートの上に置いた。
私は、その弁当箱の前に立った。そして、ゆっくりと屈み込み、彼の目の前で、弁当箱の蓋を開けた。ご飯、卵焼き、ミニトマト、ブロッコリー、唐揚げ…。美味しそうだ。
「……井上さん……?」
彼が、不安そうな声で私を見上げる。私は彼に答えず、ただ、にっこりと微笑んでみせた。そして、次の瞬間、私は弁当箱を掴み、逆さまにひっくり返した。
べちゃっ、という音と共に、色とりどりのおかずとご飯が、コンクリートの上に無残に散らばった。ミニトマトが転がり、唐揚げが虚しく横たわる。
「あ……っ!」
北沢君が、小さな悲鳴を上げた。彼の顔が、絶望と信じられないという表情で歪む。
「あら、ごめんなさい。手が滑っちゃった」
私は、わざとらしく言いながら立ち上がった。けれど、私の目は笑っていた。彼の絶望した顔を見るのが、たまらなく楽しかった。
「せっかくのお弁当なのに、落としちゃったわね」
私は散らばった食べ物を見下ろし、そして、意地の悪い笑みを浮かべた。
「でも、この方が、もっと美味しくなるかもしれないわよ?」
そう言うと、私は躊躇なく、散らばったご飯と唐揚げの上に、右足の上履きで踏み込んだ。ぐちゃり、という湿った音と共に、白いご飯粒が私の汚れた靴底にへばりつく。唐揚げが潰れ、中から肉汁が滲み出す。
「あ……ああ……!」
北沢君が、今度ははっきりとした悲鳴を上げた。彼の大切なお弁当が、私の汚れた靴で蹂躙されていく。その光景に、彼は打ちのめされていた。
私は構わず、両足で、散らばった食べ物を何度も何度も踏みつけた。右足、左足、右足、左足。まるでダンスでも踊るかのように、楽しげに。昨日つけた泥や草の汚れと、今日新たについたご飯粒やおかずの破片が、私の靴底で混ざり合っていく。
私の上履きの靴底は、滑り止めのための、でこぼこした凹凸のあるパターンが刻まれている。その凹凸の一つ一つに、潰れたご飯粒や、野菜の繊維、肉の欠片が、泥と共に深く食い込んでいく。その感触が、足の裏から直接、私の脳髄を刺激するようだった。
(楽しい……!なんて楽しいんだろう……!)
破壊する快感。蹂躙する快感。彼の悲鳴と絶望が、最高のスパイスになって、私の興奮を掻き立てる。私は清楚な外見とは裏腹に、こんなにもサディスティックな喜びを感じる人間だったのだ。その発見は、驚きと共に、私をさらに大胆にさせた。
しばらくの間、夢中になって食べ物を踏みつけ続けた後、私はようやく動きを止めた。足元には、もはや原型を留めない、泥と残飯の混じり合った汚らしい塊が広がっているだけだった。
私は、ゆっくりと右足を上げ、その汚れた靴底を、打ちひしがれて立ち尽くす北沢君の目の前に突き出した。靴底の凹凸には、ご飯粒、潰れたトマトの皮、唐揚げの衣、そして昨日の泥が、見るもおぞましいモザイク模様を描いていた。
「北沢君」
呼びかけると、彼は虚ろな目で私を見た。
「汚しちゃったわね、私の靴も。どうしてくれるの?」
「……あ……」
「綺麗にしてくれるんでしょう?この間みたいに」
私の言葉に、彼の顔がさっと蒼白になった。昨日とは違う。これは、食べ物だ。彼のお母さんが作った、彼のためのお弁当だったものだ。それを、私の靴底についたまま舐めろというのだ。
「……そ、そんな……」
彼が、かろうじて抵抗の言葉を口にした。
「できないの?」
私は、わざと悲しそうな声を出してみた。
「私のこと、好きなんじゃないの?私のためなら、何でもしてくれるんじゃないの?」
その言葉は、彼の最後の抵抗を打ち砕いたようだった。彼の目に、涙がみるみるうちに溢れ出す。それでも、彼はゆっくりと、私の足元に膝をついた。
「……します……。しますから……」
彼は嗚咽を漏らしながら、私の汚れた靴底に顔を近づけた。そして、震える舌を伸ばし、恐る恐る、靴底についた残飯と泥の混合物を舐め始めた。
「……うっ……ぐすっ……」
彼の肩が、激しく震えている。涙が、コンクリートの上にぽたぽたと落ちていく。それでも、彼の舌は止まらない。靴底の凹凸に入り込んだ汚れを、一つ一つ丁寧に舐め取ろうとしている。その姿は、哀れで、惨めで、そして、私の心を倒錯した喜びで満たした。
(ああ……なんて、なんて素晴らしい光景なんだろう……!)
彼の涙が、彼の屈辱が、私の興奮を最高潮へと押し上げる。身体が熱い。心臓が激しく鼓動している。これがサディスティックな快感。これが、人を完全に支配するということ。
「ちゃんと、綺麗にするのよ。残さずに」
私は冷たく言い放ち、彼の頭を、もう片方の汚れた上履きで軽く撫でた。彼がびくりと反応する。
彼の舌が、靴底全体を行き来し、こびりついた汚れを舐め取っていく。その行為自体が、彼にとってどれほどの屈辱か。想像するだけで、私の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
やがて、靴底がある程度「綺麗」になると、私は足を下ろした。
「だいぶきれいになったね。でも、まだ仕事は残ってるわよ」
私は、コンクリートの上に散らばり、踏みつけられた残飯の残骸を顎で示した。
「これも、食べてもらわないと」
「……えっ……!?」
彼が、信じられないという顔で私を見上げる。涙でぐしょぐしょになった顔。
「そ、そんな……。これは……もう、食べ物じゃ……」
「あら、そう?でも、元はあなたのお弁当だったものでしょう?粗末にしちゃいけないわ」
私は、天使のような微笑みを浮かべて言った。しかし、その目は冷たく、有無を言わせぬ光を宿していた。
「食べなさい」
命令する。
「……いや……いやだ……。それだけは……」
彼が、初めて明確な拒絶を示した。
「へえ……」
私は、少し面白そうに彼を見下ろした。
「私の命令に逆らうんだ?金曜日は何でも言うこと聞くって言ったのに?」
「……でも……っ!」
「じゃあ、仕方ないわね」
私は、ふう、とため息をついた。
「今すぐ教室に戻って、あなたの変態行為をクラス中に言いふらしてあげる。先生にも、もちろん報告するわ。あなたのお母さんにも連絡がいくかもね?」
脅しは、効果てきめんだった。彼の顔から、さっと血の気が引いた。彼はわなわなと震え、やがて、崩れるようにその場にうずくまった。
「……やめて……。それだけは……やめてください……」
「じゃあ、どうすればいいか、分かるわよね?」
彼は、絶望的な表情で、地面に散らばった残飯を見つめた。そして、意を決したように、震える手で、泥と混じり合ったご飯粒を拾い上げ、口へと運んだ。
「……う……ぐ……」
彼の喉が、拒絶するように痙攣している。涙が、後から後から溢れ出てくる。それでも、彼は、まるで自分に罰を与えるかのように、汚れた残飯を口に入れ続けた。
その姿を見ていると、私の興奮は、もはや自分でも制御できないほどのレベルに達していた。熱い、激しい、奔流のような快感が、私の全身を駆け巡る。彼の涙が、彼の苦悶が、彼の完全な服従が、私をこの上なく満たしていく。
「ちゃんと、味わって食べるのよ」
私は言いながら、彼の前に立った。そして、彼が地面の残飯を漁っているその背中に、容赦なく足を乗せた。数日前よりもずっと強く、体重をかけて。
「ぐっ……!」
彼が、潰れたような声を上げる。私は構わず、彼の背中を、腰を、肩を、何度も何度も踏みつけた。汚れた上履きの靴底が、彼の制服に新たな汚れを刻みつけていく。
「……い、井上……さん……っ……」
彼が、苦痛と涙に濡れた声で、私の名前を呼ぶ。それは、助けを求める声か、それとも、彼の倒錯した心が生み出す、快楽の喘ぎ声なのか。
どちらでもよかった。私はただ、この瞬間、彼を完全に支配し、蹂躙する喜びに身を委ねていた。彼の苦痛が、私の快感を増幅させる。私のサディズムは、彼という最高の対象を得て、際限なく花開いていくようだった。
青い空の下、吹き抜ける風の中で、私はただ一人、熱く激しく興奮しながら、泣きながら残飯を食べる北沢君を踏みつけ続けていた。それは、誰にも知られてはならない、私と彼だけの、歪んだ儀式だった。
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